『AMENITY』34号発行のお知らせ
 本会が年に一度発行している機関誌『AMENITY』34号が完成しました。購読のお申し込みは会のホームページからどうぞ。
 購読料は発送1回につき何冊でも1000円。同時にバックナンバーを注文しても、発送1回あたり1000円でお送りします(送料を負担していただく場合あり)。

 34号の内容は次のとおり。この1冊で「カノジョができた」「まぶたが二重になった」「就職できた」(※)など、全国からお喜びの声が続々。ご注文はお早めに!
 ※個人の妄想です。

●「スピーカー騒音禁止」の看板がある理由 柿沢繁・池田牧人・C.J.ディーガン・香山弘行……1
 敷地内に「スピーカー騒音禁止」の看板がある団地。管理組合の役員に、このような看板を立てることになった経緯についてインタビュー。きっかけは、廃品回収車や灯油販売車などの宣伝放送に悩まされたことだった。

●静穏保持法の看板 C.J.ディーガン……4
 東京・信濃町の大通りに立てられている「静穏保持法指定地域」の看板。一見すると拡声器騒音を規制する「よい看板」のように思えるが、調べてみると静穏保持法そのものが、「池田大作を守る」ために、公明党と自民党の政治取り引きで改正されたものとわかった。参考文献・矢野絢也『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』。

おせっかいなメロディ 木暮夕人……6
 石川県輪島市では、毎日、朝7時、正午、夕方6時の3回も防災無線から音楽を聞かされ、「子供は家に帰りましょう」の放送もある。息苦しさしか感じないこのような放送に、いったいなんの意味があるのか問いかける。ブログからの転載。

●保育園建て替え 鈴木捺保……8
 40年にわたり悩まされてきた、騒音保育園の建て替えをめぐる騒動。その他、板金工場の騒音や、街中いたる所に溢れかえる醜い景観、スピーカー騒音について。

●選挙戦 竹内昭子……12
 1年前にあった市議会議院選挙の際、30人の立候補者に「静かな選挙を」と手紙を送った。結果として、従来よりかなり静かな選挙を実現することができた。

●音声付き〔清掃中〕の看板 C.J.ディーガン……13
 東京メトロのトイレ掃除に導入された「注意放送付き」の案内板。ひび割れた音で「ただいま清掃中」と繰り返し英語放送まで流される。この英語放送は何度も聞かないと理解できないほど発音がひどい。しかも、看板に書かれている英文も間違っているお粗末なものだった。

●子供の声も騒音です。 五味広美……14
 「保育園がうるさい」という意見の広まりを受けて始まった、東京都の「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」の見直し。都議会や都環境局の記録を洗い出し、さらに都議会を傍聴するなどしてことの経緯をまとめた。

●ノイズ・キャンセリング・イヤフォン 永井広……24
 街のうるささに閉口し、ノイズキャンセリングイヤホンを購入。期待したほどではなかったが、多少は騒音を打ち消す効果があるようだ。今では、イヤホンなしでの外出は考えられなくなった。

●スイスの静かな日常から考えたこと 岩永星路……27
 トルコ出身で日本国籍を取得した筆者は、仕事で5年ほどスイスに滞在した経験を持つ。騒音問題を環境保全の一環として考え、「静かに暮らす」ためのルールや規制が生活に浸透しているスイスと日本を比較する。

●防災無線・商店街・交通機関の耐えられない騒音 C.J.ディーガン・吉田修一・大嶋良子・大内梨枝子・内田聡・香山弘行……30
 初参加の会員を迎えた会のミーティング。主な話題は防災無線、商店街、電車やバスなど交通機関の放送について。

●防災と関係ない田舎の防災無線の放送例 C.J.ディーガン……39
 防災無線から「世界遺産に登録された」「ノーベル賞を受賞した」など、防災とはなんの関係もない放送が流された事例を新聞から収集。

●秋葉原妄想中心(その四) 荒木信……40
 アイドルのイベントや路上ライブ、ヘイトスピーチ、大型ビジョン。騒音が際限なく増え続ける東京・秋葉原の現状。

●街と防災スピーカーと私 ウチダサトシ……42
 東日本大震災後、ますます林立し音量も大きくなる防災無線。早朝に流された無意味な「台風注意」の放送をきっかけに、「せめて、音量を下げてほしい」と市の職員と話し合いを始めるも、改善は遅々として進まない。

国内で防災無線のない場所に移住したいのですが……49
 会の掲示板から、防災無線に関する書き込みを転載。

●外国人が苦手な騒音 ジュリアン・ロング、中島義道……50
 在日オーストラリア人女性と哲学者の、スピーカー騒音をめぐる対談。救急車・消防車の過剰なサイレンやアナウンス、トラックのボイスアラームなど、家にいるのに無理やり聞かされる放送は拷問のようだと指摘。

●騒音をめぐる闘いの壁・再説 種子田實……54
 スピーカー騒音を止めさせるため抗議を続けても効果は薄く、多くの会員が壁にぶち当たり活動をやめてしまう現状。メディアが文化騒音の問題を広く取り上げるように、もっと働きかけるべきではないかと提言。

●「吹上浜 砂の祭典」のBGM 古賀知行……59
 鹿児島県南さつま市の「吹上浜 砂の祭典」に出かけたが、「にぎわいを演出するため」という理由で流されていた拡声器からのBGMにうんざり。「せっかくの自然の音が台無しだ」と主催者に抗議する。

●九州の片隅から 古賀知行……60
 防災無線は地震の予告放送ができるわけでもなく、揺れが激しければスピーカーが倒壊する。台風のときも風雨の音で放送がかき消されるだけ。自然災害の際は役に立たない防災無線より、防災ラジオや携帯電話を活用すべきだと実感する。

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カテゴリ:「静かな街を考える会」について
コミュニケーションを形骸化させる「言霊」の氾濫
 もう、どうにもこうにもブログなんぞ書いている余裕がないので、また、人様がスピーカー騒音に言及している文章を紹介します。本会設立時からの会員でもある中央大学教授(フランス思想)・加賀野井秀一氏の著書『日本語の復権』(1999)から。

 本書は、日本語が本来とても「寡黙な言語」であり、しかも「甘やかされた状態」にあると分析。その状況を突破するにはどうすればよいのかという問いを立て、日本語の歴史や文法、日本人のコミュニケーションの在り方について論じています。つっても新書だからそんなに難しい本ではありません。

 その導入部で登場するのが、街中に溢れかえる紋切り型の注意放送や標語看板、そしてコンビニなどに氾濫するマニュアル敬語。ありきたりの言葉を押しつけがましく垂れ流すこれらの言葉は、過剰で冗長に感じられるもののその本質は徹底した形式性にあり、こうした呪術的な「言霊」に依存することが、日本人のコミュニケーションをますます形骸化させていると指摘しています。

──────

第一章 言霊の幸わう国

「ゆるしません白い粉」

 先ほどの《註:成田空港の》税関申告所の話にもどるが、ここで私は、おもしろい事実に気がついた。申告をする人しない人の列をしめす電光掲示板に、たとえば「みんなで退治、麻薬と拳銃」「ゆるしません白い粉」「関税申告は正確に」などの標語が、ずらりと並んでいるのである。

 これは異様なことだ。《略》

 そもそも、関税申告は正確にやるべきものであって、それをどうしてわざわざ、電光掲示板などに表示しなければならないのか。それに、「みんなで退治……」などと書いたからといって、何の役に立つのだろうか。《略》

 とどのつまり、わが国のいたるところには、肉声から文字標語にいたるまで、指図、スローガン、紋切型の表現が蔓延しているのであり、空港はただ、それを象徴的に映す日本の顔となっていたにすぎないのである。

街にあふれる言葉たち

 ことほどさように、空港から出て、都心にむかう電車にでも乗ってみれば、そうした状況はつぶさに実感されるにちがいない。駅の構内には、このたぐいの言葉が、エンドレス・テープでとびかっている。

 「○番線に電車がまいります。危ないですから黄色い線の内側までおさがりください」
 「乗り降り(いや降り乗りだった)続いてお願いいたします」
 「駆けこみ乗車は危険ですから、おやめください」

 車内に落ちついたと思ったら、待ってましたとばかりに車内放送が始まる。

 「本日は○○電車をご利用くださいまして、まことにありがとうございます」
 「この電車のとまります駅は○○、○○、○○……」
 「車内での携帯電話のご使用は、他のお客様のご迷惑になることもございますので、ご遠慮くださいますようお願いいたします」
 「つぎは○○、○○」(かならず二回くりかえし、停車の際にもまた同様)

 これに「ゆれるので注意」「忘れ物に注意」「扉に手をはさまれるな」「ホームと電車の間が広くあいている」「窓の開け閉めに協力を」「ただ今は交通安全週間」「シルバーシートをゆずれ」等々、ああしろこうしろと、親切ととなり合わせの指図が延々と続くことになる。いつだったかは、「お客様のあたたかい思いやりをお願いいたします」などというものまであった。なんと優しきわが祖国よ。

 さて、街に出れば、まだまだこんな生やさしいものではない。商店街を通れば、街灯やアーケードのあちこちにつけられたスピーカーから、たえまなく宣伝が流れてくる。ターミナルの交差点には巨大なテレビ画面が設置されているし、大型店舗は、通りにむけてひっきりなしにコマーシャル・ソングをかけている。デパートに入っても、呼び出し、宣伝、BGM。公園に逃げてみても、やはり出店のラジオ、自動販売機の合成音。あげくのはてに公園事務所からは、迷子のお知らせが流れてくる始末だ。

 家にこもって静かにしていようと思っても、そうは問屋がおろさない。チリ紙交換車、物干し竿、網戸、アイスクリーム、焼芋、パン、灯油などの販売車が、「毎度おさわがせして……」と、がなりたててゆく。学校や幼稚園からは近隣に校内放送がひびきわたり《略》、夕方になると、市区町村の防災無線が「よいこのみなさん、おうちに帰りましょう」を呼びかける。

 海辺や高原やスキー場に大自然をたずねて行っても、社寺へ静寂をもとめに行っても、やはりそこにも演歌や観光ガイドが流れていたりするのである。

 いささか話が音声言語に傾いてしまったが、文字言語にあっても事情はほとんど変わらない。《略》「とび出すな車は急にとまれない」に始まる交通標語・警察標語が、街のいたるところに貼られている。時には、「交通安全週間」ののぼりが信号機を隠してしまっていたりするほどだ。駅前のロータリーには「核兵器廃絶平和都市宣言」「正しい芽育てる親の目社会の目」などのスローガンが立ち並ぶ。

 電信柱にも、個人の家の塀にも、広報、広告、政治家のポスターがベタベタ貼られ、さらには「世界人類が平和でありますように」「天国は近づいた」などの宗教的なものまで、ミソもクソもいっしょに色彩と標語の一大交響詩をかなでているのである。

 五七調・七五調がこの詩の主流となっているところからすれば、伝統のリズムは健在とも言えようが、おかしな日本語は加速度的にふえている。「お待たせ申し上げました」「発車をいたします」「○○様、おりましたら、事務室までおいでください」「本日はお休みをいただいております」「だれでもお気軽にご利用できます」

言霊の幸わう国

 数年の海外生活の後、こうした音声言語・文字言語がとびかう空間のなかに久々に身をおくと、いかにもわが国は──ロラン・バルトが言ったように──「象徴の帝国」であり、「言霊の幸わう国」であることが実感されるようになる。《略》

 ひとたび言葉に出して言われたことは、それ自身が独立した存在となり、現実を左右する。そんな言霊を信じるどこかの迷信家が「世界人類が平和でありますように」という標語を家の塀に貼ったからといって、何の役に立つのかと人は問うかもしれない。だが、交通安全週間に、かなりの血税を遣ってセスナ機をとばし、地上に向けて「シートベルトを締めましょう」などとやるお役所の発想は、これとどうちがうのか。はっきり説明するのはむずかしかろう。

 セスナ機からのアナウンスは、車の中ではほとんど聞きとれない。たとえ聞きとれたとしても、それによって、あわててシートベルトを締めるような人がいるなどと、本気でお役所は考えているのだろうか。あまりのばかばかしさに、私はしばしば該当部署に苦情電話をいれる。だが、答えはいつも、判で押したように決まっているのである。

 まず、「そんなことを言うのはあなただけです」と少数者排除の姿勢。つぎは、「お説はわかりますが、これを望んでいる方々もいらっしゃいますので」と相対化の反論。では、だれが望んでいるのか、という具体的な問いには答えない。さらに、これは自宅にいる人たちにも向けられた呼びかけなので……、というようなことをも弁じたてる。しかし、車を使わない者だってたくさんいるが、と切り返せば、一般のモラル向上のために、などと言いだす始末。どうにも話にならないので、最後に、セスナ機にかかる税金の額からみたコスト・パフォーマンスについてたずねると、ようやく彼らも歩み寄りの姿勢をしめすとともに、これが有効であることを「確信している」とか「よろしくご理解を」とか、ほとんど理屈にもならない表現でしめくくられることになる。

 こうした応答には一貫して、責任ある役所や血のかよった個人の言葉は見あたらない。そこでは、合理的な議論を避ける不思議な「確信」がすべてを支配し、実効さえ考えぬままに、ひたすらスローガンを唱えさせているのである。一種の呪術、祈願、現代の「雨乞い」、これを言霊と呼ばずして、何と言おう。《略》

言霊には逆らえない

 そのうえ、言霊には霊力があって、反対意見を出しにくくさせる。かつて、一億一心が火の玉になっている時に、わが国の敗戦を予測するものがいれば、それはすぐさま国賊よばわりされ、やがて敗戦の際には、おまえが縁起でもないことを言うから負けてしまったじゃないかと屁理屈をこねられたという。《略》

 言霊信仰は、気にくわない予測は認めたがらないし、布教の方法に異を唱える者は、教えそのものに反対する者だとみなす傾きがある。チリ紙交換車がうるさい、と言えば、リサイクルに理解のない人間であるとされてしまう。だから、だれもが、あえて異を唱えようとはしなくなり、状況の冷静な分析は、なおざりにされるのである。

 選挙運動での連呼にしたところで、ほとんどの人は内容空疎なものと思っていながら、それを黙認しているのは、「言論の自由」というまことしやかな言霊に反対していると見られたくないからにちがいない。同様にして、「平和」「民主主義」「青少年の健全育成」「思いやり」などといった大義名分は、手垢のついた貨幣のように人口に膾炙し、その実、だれもが毒にも薬にもならないお題目として、右の耳から左の耳へと素通りさせてしまっているのである。こうして、あたりにとびかう言語については、たかがアナウンス、たかが言葉、と見すごしてしまうのだが、思えば危険なことではあるだろう。《略》

巧言令色すくなし仁

 デパートのエスカレーターのところに流れているあの「お子様は手をつないで中央に……」というアナウンスもまた、いかにも客の身を案じる措置のように見えながら、実際はデパート側の、安全管理をしているというアリバイ工作の一環をなしてもいる。こんなふうに書くと、読者のみなさんは、私が意地の悪い見方をしているように思われるかもしれないが、実のところ、これはさるデパートの管理部長さんから直接聞いた話なのである。

 「いやあ、あれが要らないということは、私どもにも重々わかってはいるんですがね。流しておかないと、万一事故がおこった場合に、こちらの責任が問われるんですよ」

 同じ事情は、駅の構内放送にも、市区町村や警察の広報にも、おそらくあるにちがいない。つまり、おためごかしの自己保身、心のこもらぬ形式性といったものが生じる素地は十分にあるわけだ。《略》

ソフトな管理のメカニズム

 さて、こうした安全対策や広報の領域でこそ、言霊の機能は存分に発揮されることになる。ここにおいて言葉は、多くの場合、「~しましょう」というソフトな管理の姿勢をとってくる。いわく、「投票に出かけましょう」「シートベルトを締めましょう」。為政者や管理者のこのような物言いは、そのまま、教育者のものでもある。「みなさんはしっかり勉強して、りっぱな大人になりましょう」「先生の言うことをよく聞きましょう」。やがてこのスタイルは、社会生活のすみずみにまで反映されてゆく。「ゴミは決められた日に出しましょう」「芝生に立ち入らないようにしましょう」云々。これはまた先ほどの「今は~の時代と言われている」などと同じく、誰が言っているのかわからないままに、かなりの力で、わが同胞の行動を規制しているように思われる。《略》

なぜ日本語だけが形骸化するのか

 今日もまた、近所のコンビニエンス・ストアでは、店内放送で紋切型の言語がとびかい、むっつりと押し黙った人々がレジに列をつくっている。レジ嬢は、まるでロボットか自動販売機であるかのように、かん高い声でマニュアル言語・マニュアル敬語を連発する。この間、客の男の子は、小型のヘッドホンをつけたまま、終始無言。商品を投げるようにしてカウンターに置くだけで、やがて、つり銭をポケットに入れ、表情ひとつ変えずに店をあとにするのである。これまたロボットみたい。《略》

 では、なぜ日本人や日本語だけが、こうした情報化社会のなかで寡黙になっていったり、マニュアル化に拍車をかけたりするのであろうか。それは以下の章で、少しずつ明らかにしていくつもりだが、まずは、日本語が本来非常に寡黙な言語であったことから語りはじめることにしよう。

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カテゴリ:「静かな街を考える会」について
騒音学者が褒め称える「感動ストーリー」への疑問
 以前、このブログで批判したことがある某大学の「騒音学者」様(以下・A教授)が、最近、自身のブログで次のような「物語」を褒め称えています。

──────

 隣家のおじいさまが亡くなった。話したことはなかったが、1通の手紙が縁で、ずっと素敵な方だと思っていた。

 子どもが2歳と4歳だった8年前、周りには子どもがいない静かな環境。私は「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育てをしていた。ある日、切手の無い手紙が1通届いた。それには「隣に住むおじいさんです。子どもさんの声が聞こえることがとてもうれしいです。私は耳が遠いのでぜひもっと気になさらずに大きな声で遊んでください」と書かれていた。

 私は涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった。それからは怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生きてこられた。隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした。ありがとう。

──────

 これは、朝日新聞に掲載された読者投稿だそうです。

 A教授がこの文章のどこに感銘を受けたのか、いまひとつよくわからないのですが、日頃の主張──騒音問題はコミュニケーションで解決できるのだ! 人と人とのつながりがあれば騒音は騒音でなくなるのだ! など──から考えると、次のようになるでしょう。

 ──この投書の主(おそらく主婦)は、近隣紛争の火種になりかねない「子供の声」に、神経質なほど気を使っていた。しかし、その悩みを解決したのは「耳の遠い隣家のおじいさま」からの、「気兼ねせず大きな声を出してほしい」という温かい手紙だった。この1通の手紙というコミュニケーションがあったから、子供が大声で遊べるようになり、しかも「騒音」にならずに済んだのだ。やはり、人と人とのコミュニケーションがあれば、世の中から騒音はなくなるのだ。コミュニケーション万歳!──

 しかし、この投書の出来事は、本当に「すばらしいコミュニケーション」と呼べるものなんでしょうか。私にはむしろ、ここから「コミュニケーション不全」と「想像力の不足」という二つの問題が見えてくるのですが。以下、少し考えてみたいと思います。

コミュニケーション不全

 この主婦は、「ある日届いた、隣に住む耳の遠いおじいさんからの手紙」に感激し、〈おじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした〉とまで言っています。しかし、不思議なことが一つあります。〈涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった〉と咽び泣くほどの手紙をもらっておいて、なぜ、主婦はおじいさん本人に一度も会わなかったのでしょうか?

 100kmも離れた場所に住んでいるペンフレンド(!)との文通ならともかく、隣に住んでいる者同士なら、手紙をもらった後で「温かい手紙をありがとう!」と、直接、おじいさんを訪ねて言葉を交わせばいいじゃないか。しかし〈話したことはなかった〉という表現から判断すると、この主婦が手紙をもらっておじいさんが亡くなるまでの8年間、二人は一度も顔を会わさなかったようです(そもそも、どちらかがこの地に引っ越してきたときに挨拶すらしていない!)。

 手紙を書くほどなのだから、このおじいさんに「とても人と顔を合わせることができない事情」(じつは指名手配されている、極秘任務を遂行中のスパイである、正体が狐であるなど)があったとは思えません。ならば、ほんの数歩歩いて隣家を訪ね「お手紙ありがとう!」と交流を図ればいい。なのに、この主婦は(そして、おじいさんも互いに)そのような行動はとっていないようです。
 それでいて〈隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした〉と大げさなほど感動するというのは、ちょっと「コミュニケーションの捉え方」がおかしいのではないでしょうか。

 この投書は「あー、典型的な新聞の読者投稿っすね」と言いたくなる「感動のストーリー」です。しかし、上っ面の表現に騙されず少し考えを巡らせてみれば、いくつもの理解し難い点が見えてきます。
 隣家から「温かい手紙」をもらったのに、互いに顔を合わせることすらなかった──という空虚なストーリーから浮かび上がるのは、「コミュニケーションのすばらしさ」ではなく、「この両者はなぜ、本当のコミュニケーションを成立させようとしなかったのか。コミュニケーションの意味を理解していないのではないか」という疑問ではないでしょうか。

想像力の不足

 さて、この主婦はおじいさんからの手紙をきっかけに、〈周りには子どもがいない静かな環境〉にもかかわらず、〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生き〉る方向に舵を切ったようです。
 しかし、たった一人の(しかも耳の遠い)おじいさんが〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったからといって、それがなぜ「周囲の住民すべてが『子供が大声で遊ぶこと』を認めた」という解釈になるのか。
 私には、ここがわからない。

 〈周りには子どもがいない静かな環境〉というからには、この投書の主が住んでいるのは、いわゆる「一般的な住宅地」だろうと想像できます。「周囲数十mに、この主婦とおじいさんの家しかない」というような場所であるとは考えにくいです。
 ならば、「たった一人の耳の遠い隣家のおじいさん」が〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったとしても、そのせいで他の住民にとって耐えがたい騒音が発生した可能性は十分にあるでしょう。

 もちろん、これはあくまでも可能性であり、「本当に周囲の住民の誰一人、この主婦と子供たちの大声に困ることはなかった」という可能性もあります。それならそれで結構なことです。この主婦が〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと〉という方針で子育てをしたからといって、それが現実的にどの程度の「大きな声でのびのびと」だったかは判断のしようがないのだから、結果として誰も困らなかったのであれば万事オッケーです。

 しかし、一般的な住宅地なら、家の中や庭先であまりにも〈のびのびと〉し過ぎた場合、周囲に「あの家は親も子供たちも、とても耐えがたい大声ばかり発している。うるさくてたまらない」と感じる住民が出た(そして、それに黙って耐えていた)「可能性」だって十分にあり得るでしょう。
 たった一人の「耳の遠いおじいさん」からの手紙で、そうした「辛い思いをしている人がいる可能性」を頭の中から完全に吹き飛ばしてしまうこの主婦は(そして、このようなストーリーに安易に感動してしまう人たちは)、想像力があまりにも不足していると言えるのではないでしょうか。

 もちろん、ここで疑問を呈したことはすべて「可能性」の問題であり、事実がどうだったかはわかりません。子供を育てるのに〈「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育て〉をしていたこの主婦が、一転して〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと〉と態度を変えたといっても、どの程度〈気を使って〉いたレベルから、どの程度の〈大きな声でのびのびと〉への移行だったかは、読み手に判断のしようがないからです。

 しかし、「騒音問題はコミュニケーションで解決する! 大切なのは絆だ! つながりだ!」と呪文のように唱えるのが大好きな人たちは、すぐにこの投書のような情緒たっぷりのストーリーを持ち上げて、「だから、子供の声をうるさいと言うのはおかしいんだ!」と一般化しがちです。
 「たった一人の耳の遠い隣家のおじいさん」が〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったことを一般化するのなら、「たった一人の住民が、『ちょっとうるさ過ぎますよ。勘弁してくださいよ』」と言った(そういうケースは私自身も含め世の中にいくらでもある)ことも一般化しなければおかしいはずなのに、「涙を誘うええ話」に夢中になる人たちが、そのように考えることはまずありません。

 騒音問題の解決に、コミュニケーションが重要な役割を果たすのは当然です。けれど、今回の投書のような「一杯のかけそば」的お涙頂戴ストーリーを元手に近隣騒音を語ることに、いったいどんな意味があるのでしょうか。
 私はこの投書のようなストーリーを、まるで「宗教か!」というほどうやうやしく祭り上げる行為こそ、子供の声を含む近隣騒音やスピーカー騒音問題を解決することの難しさを露わにしていると思いますね。
 もっとも、A教授はまったくそうは考えていないようですが。

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カテゴリ:子供・学校・保育園
『うるさい日本の私』角川文庫版の紹介
 本会の会員でもある哲学者・中島義道氏の著書『うるさい日本の私』が、角川文庫から刊行されたそうです。
 その概要を「あとがき」から抜粋。

──────

角川文庫版へのあとがき

 本書の「歴史」は長い。一九九六年八月に洋泉社から単行本が出たが、それが思わぬ反響を得て、朝日新聞の「天声人語」まで取り上げてくれた。その後、いろいろなメディアで紹介され、私はNHKのラジオ放送に出演したり、講演を引き受けたりした。“The Japan Times”に大きく取り上げられ、“Chicago Tribune”にまで記事が出た。ある映画会社がこのテーマで作品を作るという話を聞き、オランダのテレビ局の取材もあった。その孤軍奮闘ぶりから「戦う哲学者」というニックネームまでいただいた。本書は一九九九年一一月に新潮文庫に、二〇一一年一月には日経ビジネス文庫に入れられた。そして、このたび角川文庫に収録されたというわけである。《中略》

 他の拙著に関して、私は売れることには比較的淡泊であるが、この「三部作」《註:『うるさい日本の私』『騒音文化論』『醜い日本の私』》に関しては、そうではない。なぜなら、私は身体の底から、わが国の街特有のうるささ、醜さに怒っており(具体的には、本書の内容を読んでください)、そして、ほとんどの同胞が(環境問題や差別問題に取り組んでいる人も)このことに無関心であることに怒っているからである。そして、多くの人に読んでもらいたいと心から願っているからである。

 しかし、運動はさらに難しくなっているようである。ことに東日本大震災以降、「絆」とか「思いやり」という美名のもとに、私が提起している問題が抹殺されてしまいがちである。最近のニュースを取ってみれば、保育園が「うるさい」という周辺住民の声により建設が見送りにされたことに対して、子供の声を「うるさい」という人はもっと豊かな心になれないものか、非寛容なぎすぎすした社会になっていくのはたまらない、子供の声が消えた社会は恐ろしい──という「優しい」論調がわがもの顔にまかり通っている。その意見が、「温かい心」や「思いやり」や「優しさ」という衣装を着ているからこそ、これに抗議することは難しいのだ。

 なお、少数ではあるが、同じ問題を真剣に取り組んでいるグループ『静かな街を考える会』を紹介しておこう。彼らは、まさに静かに根強い活動を続けており、定期的に機関誌『AMENITY』を刊行し、それはすでに三三号に達している。代表はイギリス国籍でオーストラリア育ちの翻訳家ディーガンさん。彼は日本に住んでもう四五年を越えるが、一時そのうるささに日本を去ることを考えもしたが、自分と同じ悩みを抱える人種が少数ながらこの国にも棲息していることがわかり、思いとどまり運動を続けている。《後略》

──────

 ついでなので、出版社による紹介文もそのまま掲載しよう──と思ったのですが、どうも今回の角川文庫版の内容紹介は、いまひとつピントがずれているような気がしなくもない。そこで、ここでは新潮文庫版の紹介文を転載します。

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 バス・電車、デパートから駅の構内、物干し竿の宣伝まで、けたたましくスピーカーががなりたてる、この日本──。いたるところ騒音だらけ。我慢できない著者は、その“製造元”に抗議に出かけ徹底的に議論する。が、空しい戦いから浮かび上がったのは、他人への押しつけがましい“優しさ”を期待する日本人の姿だった。日本社会の問題点を意外な角度からえぐる、「戦う大学教授」の怪著。

──────

 まあ、そんな本です。

 今回の角川文庫版を含め、どの版も本文の内容は変わらず、解説やあとがきが違うだけなので、既存の版を読んだ人は繰り返し目を通す必要はありません。
 でも、まだ読んだことがなく、かつ「なんで日本っちゅうのは、どこもかしこもやかましいんだろう」と少しでも疑問に思ったことのある人は、この機会に手に取ってみてほしいですね。ここだけの話、図書館で借りて読めばただですよ奥さん!

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カテゴリ:「静かな街を考える会」について
乗客の「心」にまで踏み込んでくる車掌の放送
 ある日、あるとき、あ~るところで知人と交わした会話。

 「さっき電車に乗ってるとき、車掌が『高齢者や障害をお持ちの方に、優先席を快くお譲りくださるようお願いします』って放送したじゃん」

 「そうだっけ」

 「言った言った。ま、どうせほとんどの乗客の耳を素通りしてるんだろうけどさ。でも、おれはこのアナウンスを聞かされて、一気に不愉快な気持ちになったね」

 「なんで?」

 「つまりさ。『高齢者や障害者に優先席を譲れ』と放送するのは、優先席についての情報や車内のルールを伝達しているんだと考えれば理解できる。本当は車内に『優先席』ってシールが貼ってあれば十分だと思うけど、まあ、放送するのも仕方がないかとあきらめることもできるよ。でも『快く』の一言は余計だろ」

 「なんで?」

 「だって、『快く譲る』か『嫌々ながら譲る』か『淡々と譲る』かは、個人の内面の問題だろ。どんな気持ちで席を譲るかは人それぞれの自由だし、そのときの状況によっても変わってくる。それなのになんで『快く譲れ』と、心の領域にまで車掌がずかずか踏み込んでくる必要があるんだよ。そう思わない?」

 「……」

 「『座席は快く譲りましょう』なんて言われるのは、小学校のホームルームや道徳の時間だけで十分であってさ。どうして、電車の中で大の大人が十把一絡げに『心の持ち方』を説かれにゃならんのよ。しかも、それを言ってるのは学校の先生でも寺の坊さんでもどこかの法王でもない、ただの鉄道会社の車掌なんだぜ。お前はどれだけお偉い人間なんだ、人様の心にまで踏み込んで説教する資格がどこにあるんだ、とおれは腹が立つけどね」

 「ふうん」

 「おれは別に『高齢者や障害者に優先席を譲る必要はない』と言ってるわけじゃないんだよ。ただ、車掌は『優先席は、高齢者や障害者が優先的に座るための席だ』という情報を伝えれば十分なんであって、いちいち『快く』とか人の内面まで指図するなってことなんだ(ドン!)」

 「ふーん」

 「そういえばこの前さ、電車の通路で吊革に掴まってたら、横にいたじょしこーせーが部活かなんかで疲れてたのか、立ちながら舟を漕いでたのよ。で、前の席が空いたから『君、座る?』って譲ってやったわけ。たぶんその娘は『トム・クルーズ似のかっこいいおじさん、ありがとう!』と感謝してただろうな」

 「それはきっと、『カンニングの竹山みたいな暑苦しいおっさんだし、断るのもメンドクセー』と思って座ってくれたんだよ」

 「そ、そうだったのか! 座席は快くお譲られくださるようお願いします!」

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カテゴリ:駅・車内
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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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