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『うるさい日本の私』角川文庫版の紹介
 本会の会員でもある哲学者・中島義道氏の著書『うるさい日本の私』が、角川文庫から刊行されたそうです。
 その概要を「あとがき」から抜粋。

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角川文庫版へのあとがき

 本書の「歴史」は長い。一九九六年八月に洋泉社から単行本が出たが、それが思わぬ反響を得て、朝日新聞の「天声人語」まで取り上げてくれた。その後、いろいろなメディアで紹介され、私はNHKのラジオ放送に出演したり、講演を引き受けたりした。“The Japan Times”に大きく取り上げられ、“Chicago Tribune”にまで記事が出た。ある映画会社がこのテーマで作品を作るという話を聞き、オランダのテレビ局の取材もあった。その孤軍奮闘ぶりから「戦う哲学者」というニックネームまでいただいた。本書は一九九九年一一月に新潮文庫に、二〇一一年一月には日経ビジネス文庫に入れられた。そして、このたび角川文庫に収録されたというわけである。《中略》

 他の拙著に関して、私は売れることには比較的淡泊であるが、この「三部作」《註:『うるさい日本の私』『騒音文化論』『醜い日本の私』》に関しては、そうではない。なぜなら、私は身体の底から、わが国の街特有のうるささ、醜さに怒っており(具体的には、本書の内容を読んでください)、そして、ほとんどの同胞が(環境問題や差別問題に取り組んでいる人も)このことに無関心であることに怒っているからである。そして、多くの人に読んでもらいたいと心から願っているからである。

 しかし、運動はさらに難しくなっているようである。ことに東日本大震災以降、「絆」とか「思いやり」という美名のもとに、私が提起している問題が抹殺されてしまいがちである。最近のニュースを取ってみれば、保育園が「うるさい」という周辺住民の声により建設が見送りにされたことに対して、子供の声を「うるさい」という人はもっと豊かな心になれないものか、非寛容なぎすぎすした社会になっていくのはたまらない、子供の声が消えた社会は恐ろしい──という「優しい」論調がわがもの顔にまかり通っている。その意見が、「温かい心」や「思いやり」や「優しさ」という衣装を着ているからこそ、これに抗議することは難しいのだ。

 なお、少数ではあるが、同じ問題を真剣に取り組んでいるグループ『静かな街を考える会』を紹介しておこう。彼らは、まさに静かに根強い活動を続けており、定期的に機関誌『AMENITY』を刊行し、それはすでに三三号に達している。代表はイギリス国籍でオーストラリア育ちの翻訳家ディーガンさん。彼は日本に住んでもう四五年を越えるが、一時そのうるささに日本を去ることを考えもしたが、自分と同じ悩みを抱える人種が少数ながらこの国にも棲息していることがわかり、思いとどまり運動を続けている。《後略》

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 ついでなので、出版社による紹介文もそのまま掲載しよう──と思ったのですが、どうも今回の角川文庫版の内容紹介は、いまひとつピントがずれているような気がしなくもない。そこで、ここでは新潮文庫版の紹介文を転載します。

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 バス・電車、デパートから駅の構内、物干し竿の宣伝まで、けたたましくスピーカーががなりたてる、この日本──。いたるところ騒音だらけ。我慢できない著者は、その“製造元”に抗議に出かけ徹底的に議論する。が、空しい戦いから浮かび上がったのは、他人への押しつけがましい“優しさ”を期待する日本人の姿だった。日本社会の問題点を意外な角度からえぐる、「戦う大学教授」の怪著。

──────

 まあ、そんな本です。

 今回の角川文庫版を含め、どの版も本文の内容は変わらず、解説やあとがきが違うだけなので、既存の版を読んだ人は繰り返し目を通す必要はありません。
 でも、まだ読んだことがなく、かつ「なんで日本っちゅうのは、どこもかしこもやかましいんだろう」と少しでも疑問に思ったことのある人は、この機会に手に取ってみてほしいですね。ここだけの話、図書館で借りて読めばただですよ奥さん!

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カテゴリ:「静かな街を考える会」について
乗客の「心」にまで踏み込んでくる車掌の放送
 ある日、あるとき、あ~るところで知人と交わした会話。

 「さっき電車に乗ってるとき、車掌が『高齢者や障害をお持ちの方に、優先席を快くお譲りくださるようお願いします』って放送したじゃん」

 「そうだっけ」

 「言った言った。ま、どうせほとんどの乗客の耳を素通りしてるんだろうけどさ。でも、おれはこのアナウンスを聞かされて、一気に不愉快な気持ちになったね」

 「なんで?」

 「つまりさ。『高齢者や障害者に優先席を譲れ』と放送するのは、優先席についての情報や車内のルールを伝達しているんだと考えれば理解できる。本当は車内に『優先席』ってシールが貼ってあれば十分だと思うけど、まあ、放送するのも仕方がないかとあきらめることもできるよ。でも『快く』の一言は余計だろ」

 「なんで?」

 「だって、『快く譲る』か『嫌々ながら譲る』か『淡々と譲る』かは、個人の内面の問題だろ。どんな気持ちで席を譲るかは人それぞれの自由だし、そのときの状況によっても変わってくる。それなのになんで『快く譲れ』と、心の領域にまで車掌がずかずか踏み込んでくる必要があるんだよ。そう思わない?」

 「……」

 「『座席は快く譲りましょう』なんて言われるのは、小学校のホームルームや道徳の時間だけで十分であってさ。どうして、電車の中で大の大人が十把一絡げに『心の持ち方』を説かれにゃならんのよ。しかも、それを言ってるのは学校の先生でも寺の坊さんでもどこかの法王でもない、ただの鉄道会社の車掌なんだぜ。お前はどれだけお偉い人間なんだ、人様の心にまで踏み込んで説教する資格がどこにあるんだ、とおれは腹が立つけどね」

 「ふうん」

 「おれは別に『高齢者や障害者に優先席を譲る必要はない』と言ってるわけじゃないんだよ。ただ、車掌は『優先席は、高齢者や障害者が優先的に座るための席だ』という情報を伝えれば十分なんであって、いちいち『快く』とか人の内面まで指図するなってことなんだ(ドン!)」

 「ふーん」

 「そういえばこの前さ、電車の通路で吊革に掴まってたら、横にいたじょしこーせーが部活かなんかで疲れてたのか、立ちながら舟を漕いでたのよ。で、前の席が空いたから『君、座る?』って譲ってやったわけ。たぶんその娘は『トム・クルーズ似のかっこいいおじさん、ありがとう!』と感謝してただろうな」

 「それはきっと、『カンニングの竹山みたいな暑苦しいおっさんだし、断るのもメンドクセー』と思って座ってくれたんだよ」

 「そ、そうだったのか! 座席は快くお譲られくださるようお願いします!」

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カテゴリ:駅・車内
「情報A」から「行動C」を導き出せない幼稚な日本人
 本だったか、ブログだったか、ウェブサイトだったかで、スピーカー騒音について、じつにスルドイ指摘を読んだことがあります。どこで読んだのかどうしても思い出せないので、ここで要旨を再現するとこんな感じ。

──────

 そもそも人間には、「情報Aを聞いたら、そこから自主的に情報Bを引き出し、行動Cに結びつける能力」が備わっているはずだ。どういうことか。たとえば電車の車内では、よく「ドアが開きます。袖や荷物が引き込まれると危険なので、離れてお待ちください」とアナウンスされる。

 しかし、「ドアが開く」という「情報A」を聞いたら、そこから自主的に「袖や荷物が引き込まれたら危険だ」という「情報B」を引き出し、「離れて待つ」という「行動C」をとるのは、人間として当たり前のことではないか。「乗客には、その程度の思考力も判断力も行動力もない」ことを前提に流すこのアナウンスはおかしいし、そのようなアナウンスを聞かされて「バカにするな」と怒りもしない日本の鉄道の乗客は、やはりどこかおかしいのだ。

──────

 日本の過剰におせっかいで、やかましいスピーカー騒音は、さまざまな切り口で批判することができますが、この意見はその問題の一面をじつに的確に指摘していると思います。
 鉄道会社のアナウンスに限らず、日本の街には、こうした「××すると、××だから、××ちまちょうね」式の幼稚なアナウンスが多すぎる。そのことについて、ほとんど誰も「おかしいぞ」と言わないこの国は、やはりどこかおかしいのです。

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カテゴリ:駅・車内
選挙なんて棄権したほうがいいんじゃないっすか
 参院選が始まって1週間近くたちますが、今のところ、私の住む住宅地には1台も選挙カーが現れません。

 毎日毎日、朝、目が覚めるたびに「きっと今日こそは、選挙カーに仕事を邪魔されるんだろうな」と思い、びくびくしながら一日を過ごすのですが、とりあえず今は「今日も来なかった」「また来なかった」「全然来ないぞラッキー!」の繰り返し。でも、どうせそのうち「やっぱり来た!」と椅子からぴょんと跳び上がる瞬間が、必ずどこかでやってくるんでしょう。

 実際の選挙カーの騒音より、それに襲われる瞬間がくることを心配しなければならない毎日。まるで刑の執行に怯える死刑囚のようですが、選挙カーや街頭演説といった乱痴気騒ぎだらけの選挙制度が罷り通っているこの国にはあきらめと鬱憤しかないので、私は今回の選挙に投票するつもりなどさらさらありません。「いつものように」棄権します。選挙で投票したのなんていつが最後か、まったく覚えていないくらいです。

 あのう、「選挙こそ民主主義の根幹なんだから投票しろよ!」などという、教条的なものの見方をする人たちばかりなのは承知の上ですが、私はむしろ、選挙なんてどんどん棄権したほうがいいんじゃないかと思いますよ。
 だって「この人の政策には納得できる。投票して政治を任せたい」と思う候補者がいなければ棄権するのは当たり前のこと。納得できる商品がなければ購入しない、それは政治家選びだろうがエロDVD選びだろうが同じです。選挙というのは、商品棚に並んだ政治家を税金で買うという「買い物」なんだから。
 誰も彼もが「日本の政治を変えなきゃ!」などとしたり顔で言いますが、本気でそう思うなら、中途半端に投票(買い物)するより堂々と棄権(買わないと判断)して、国政選挙でも地方選挙でも、投票率が10%を切るくらいまで低くなってしまえばいいんです。

 そこまで投票率が落ちると何が起こるか。国際社会(笑)から「日本人は自分たちの国を『民主国家』とか言ってるけど、投票率が一桁ってどんだけ後進国なんだよ!」と笑いものになるでしょう。
 この国が「外圧」がないと何も変わらない国であるのは明らかなんだから、「世界の民主主義ランキング」で200位とか、いっそそこまで下がらないと「政治改革」だの「信頼される政治」だの実現できるわけありません。そのためにも投票率なんて極限まで落ちてしまえばいい。
 「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」の例えのとおり、政治屋たちが「世界の首脳からこんなに笑われるなんて、ケツの穴を見られるより恥ずかしいよ~!」と思うぐらいの荒療治をしたほうがいいんです。
 まあ、今の政治屋に「恥」という感覚があるかどうかは疑問なのかもしれませんが。あったとしても、それは「ウチ」に対する恥の意識であって、「ソト」に対してはまったくの厚顔無恥。「旅の恥はかき捨て」が日本人の伝統的な「恥」の意識だとすれば、国際社会(笑)から何をどう言われようが、この国の政治屋は屁とも思わないのかもしれません。

 それにしても、東京では参院選が終わると立て続けに都知事選だとか。選挙のたびに数十億円を無駄にして選挙カーが走り回るのは本当に迷惑です。それもこれも、舛添なんて胡散臭い奴をムードと知名度だけで選ぶから。だったら最初から棄権して「お前なんか信任されてないぞ」と数字で示しておけばよかったじゃないか、といういい見本です。
 選挙のとき、「ますぞえ」と用紙に書いて投票した有権者が最も多かったから、あんなのが当選してしまった。「舛添辞めろ!」と大合唱していた世間の中で、その自覚を持った人がいったいどれだけいたのでしょう。

 「投票率なんて下がればいい」に加えてもう一つ「暴言」を吐くならば、もう、都知事なんて日本人の大好きな「象徴」にしてしまえばいいんです。「象徴としての都知事」ってやつ。「あなたが都知事にふさわしいと思う人は?」とかなんとか適当な人気投票を実施して、1位になった人物は強制的に「実権」もなければ「義務」も「責任」も「報酬」もない「象徴としての都知事」に就任させる。
 そうすると、おそらくビートたけしとかジャニーズあたりのタレントが「象徴としての都知事」、言い換えれば「書類上だけの都知事」になるでしょうが、それでいいじゃないですか。ただのペーパー知事なんだから誰だっていいよ。私なら高田純次に投票するかな。

 とにかく「静かに仕事がしたかった」などと、公用車で湯河原の別荘通いをするねずみ男に言っておきたかったのは、「わざわざ湯河原まで行くくらいなら、お前が東京を『静かに仕事ができる環境』にすればよかったんだろーが!」ということです(←結局、腹を立てているのはそこ)。
 まあ、もういなくなった人のことなんか、それこそどうでもいいんですけれども。久しぶりの更新なのに、くだらないことを書いてしまった。

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カテゴリ:政治家・団体・デモ
住宅地の「静穏保持」はどうでもいいというこの国
 東京・信濃町の路上で見かけた看板。

静穏保持法.jpg

 「このあたりは『静穏保持法』指定地域だから、拡声器の使用はやめろ」という内容。静穏保持法とは何かというと、概要がウィキペディアにまとめられているので見ていただくとして、要は「国会周辺や政党の事務所、大使館周辺では拡声器を使うな」という法律です。

 現実には、国会周辺では「正義をこじらせてしまった人たち」が、拡声器を使ってわあわあ騒ぎ続けているわけで、ああいったデモと静穏保持法との整合性がどうなっているのか、私にはよくわかりません。政党の事務所や大使館周辺で拡声器を使った場合、ただちに警察がすっ飛んでくるのかどうかもよくわからない。それに、そんなことはとりあえずどうでもいい。

 腹が立つのは、「国会や政党の事務所、大使館周辺では静かにしろ」という内容です。これは裏を返せば「それ以外の場所では、静穏を保持しなくていい」と言っているのと同じことですからね。
 国会や政党の事務所、大使館を特別扱いして、「良好な国際関係を維持し、国会の審議権を確保するために静かにしろ」と言うけれど、それ以外の「普通の人たちが暮らしている」駅前や繁華街、そして住宅地の環境はどうでもいいのか。
 日本ではこの静穏保持法のほか、騒音規制法暴騒音規制条例環境確保条例など、拡声器騒音を規制する法律や条例が(一応)整備されているのに、そうした規則を適用して、住宅地の拡声器騒音を止めさせるのは難しいのが現実。ただ建前だけの法律になってしまっています。

 それに、駅前や住宅地で迷惑なスピーカー騒音の代表例といえば、なんといっても政治屋の演説。「事務所の周りでは静かにしろ」と自らを守る特権を作り、その一方で、拡声器を手に絶叫を続ける連中の騒音です。
 いやもう、今年は6月に参院選がある、もしかすると衆院選と同時かもしれないということで、うちの周囲では年明けから政治関連の騒音がひどいのです。

 言うまでもなく、一番しつこいのは共産党。近くの商店街では、月に数回は共産党の(たぶん)市議会議員が何事かを喚き散らし、その声が300m以上離れた私の家まで聞こえてきます。共産党の下部組織(後援会)の年寄りが、住宅地を練り歩きながらハンドマイクで叫ぶのも毎月のこと。
 駅前では夕方になると、毎日、共産党(こちらもおそらく後援会)のジジババどもが、歩道を占拠して脳天から声を張り上げています。先日は、関連団体「東京土建」の車が宣伝放送を流しながら走り回りましたが、これも頻度が高くなる一方。

 共産党だけではありません。今年に入って、覚えているだけでも公明党が2回、住宅地に車を止めて演説。15分ほどがなり立て、少し移動してはまたがなり立てを1時間以上繰り返しました。民進党(だっけ?)の宣伝カーも走り回ったなあ。

 こうした政治屋どもの演説や宣伝放送を聞かされると仕事にならないので、轟音が流れている間は耳を塞いで耐えるしかありません。駅前で遭遇してわざわざ遠回りしたり、反対側の改札口から駅に出入りしたりするのも面倒で仕方がない。

 選挙が参院選だけなら、選挙カーが現れる回数も少なめなので、家にいればなんとか耐えられるかもしれません。しかし、すでに選挙が始まる前から「静穏を保持できない」住宅地では、うんざりするような状況になってしまっているのです。

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■プロフィール

Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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