スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


カテゴリ:スポンサー広告
「心はいつも古代人」のまま変わらない日本人
 「静かな街を考える会」は「拡声器騒音を考える会」という名称で1984年に発足し、機関誌『AMENITY』第1号を翌85年に発行しました。
 私はその頃のことを知りませんが、創刊号の巻頭を飾っている当時の代表と会員による座談会を読むと、この30年間で日本のスピーカー騒音問題が何一つ改善されていないこと、それどころかますます悪化の一途をたどっていることがよくわかります。

──────

鼎談 “音”と日本人

梅垣洋一(会社員)
志賀壽美子(主婦)
高梨 明(「拡声器騒音を考える会」代表)

高梨 私どもの「拡声器騒音を考える会」は昨年(84年)七月に発会し、志賀さんと梅垣さんには最初からずっと加わっていただいている訳ですが、皆それぞれ忙しく、膝を交えて話し合う機会が余りありませんでした。今日はひとつ、日頃考えていらっしゃる“音”の問題をざっくばらんにお話していただけたらと思います。志賀さんは西ドイツに行っておられたそうですが……。

 静かなドイツ

志賀 ええ、二年半ほど。三つの都市に住んだのですが、いちばん長かったのがアーヘンという町です。

高梨 どうでしたか、西ドイツは?

志賀 帰国して二年になりますが、帰国当初は西ドイツへ帰りたい、と思わぬ日は一日とてありませんでしたね、正直言って……。同じ経済大国といわれる両国なのに、生活環境の豊かさ、美しさ、静けさの面になるとまったく違うのですから。ドイツでは経済成長より人間らしい生活を優先させるという考えが生活のすみずみまでゆき渡っていますし、「子供と犬はドイツ人に育てさせろ」と言われるほど生活そのものが静かなんです。ましてや拡声器騒音なんて。

 日本では街中はおろか、大自然の中でさえ大音響が氾濫していますでしょ。どこへ行ってもうるさいだけですから、私はもう国内旅行はあきらめたんですよ。主婦にとって楽しいはずの買い物だって地獄の責め苦。商店街、スーパー、デパートなんかの頭の上から浴びせてくる喧噪ぶりには気が変になりそうです。

高梨 日本では選挙のときになると、例の「山田太郎、頑張っています。皆様の山田太郎です。山田太郎最後のお願いにまいりました。山田太郎……」(笑)といった候補者名の連呼がありますが、ドイツはどうなんですか?

志賀 たとえ選挙であろうと、街の中を宣伝カーが走りまわって叫ぶなんて、そんなことドイツ人は許しませんよ。私は直接見なかったのですが、選挙中でもソーセージの屋台か何かに風船などを飾ってビラを配る程度だそうです。

梅垣 街頭演説などは?

志賀 まったく無いですね。駅前でも広場でもガーガー、ピーピーは一切なし。それは静かなものです。西ドイツに限らず他のヨーロッパの国々でも、拡声器騒音を耳にしたことは一度もありませんね。ただ、駅や車内で行先や駅名のアナウンスはありますが、それも一回だけでボリュームも押さえてますから。これは騒音とはいえませんでしょう。

 日本では「投票日は○○日です」などと案内の広報車がまわってきますね。つまり、それは選挙というのが国民の貴重な権利の行使だという意識が日本ではまだ育っていない証拠だと思うんです。主権在民だという思想が。

梅垣 狩り出されて投票に行く、という感じですね。

志賀 そう。私なんかへそまがりだから号令かけられると行きたくなくなってしまう。(笑)当選させたくない人を投票できるというなら行くかもしれませんが。まあ、それは冗談として、投票したい人がいないから積極的に棄権するということもあると思います。

梅垣 あの広報車は、選挙に行った人には無用なアナウンスだし、投票する気のない人には余計なお世話ということですね。

 騒音に鈍感な日本人

高梨 ところで、梅垣さんは私たちの会員の中では数少ないサラリーマンな訳ですけれど、概して会社勤めの人というのは市民運動などに携わるパーセンテージが低いような気がするんですよ。どうですか、そのあたり?

梅垣 そうですね……、会社という組織に属していると、市民運動のような仕事以外の場にエネルギーを費やすことは余り好感をもって受けとめられないのは事実だと思いますね。そのため職場で自分の主張を出して、周囲の人たちが騒音にあふれた日本の社会をどう思っているかはなかなか聞けません。せいぜい一緒に外へ出たときに無用なアナウンスがあったりしたら、「うるさいなあ、君はどう思う?」などと雑談的に言う程度です。

 私の感じでは、私の職場で拡声器音をうるさいと感じている人は一割ぐらいじゃないですか。それ以外の人は全く無関心で、これは日本人全体にいえることだと思いますね。

志賀 言われてみて初めてうるさいと気がつく人もいるんではないですか。私が今まで話をした人たちの中にも「そういえばうるさいわねぇ」などとおっしゃる方、ずいぶんいましたよ。

高梨 このところ、街並みをはじめ住環境を見直そうという気運が高まりつつあるのも事実ですよね。街に緑を増やそうとか、商店街をモールにしようとか、また古い街並を保存しようとか、ブロック塀を生垣にしようとか……。

 騒音では「ちり紙交換車」がうるさいと思う人が多いことも統計に出ていますよね。通産省ではちり紙交換のアナウンスが不評なので、親しみ易い音楽を募集したようですが。

梅垣・志賀 (笑)

 ちり紙交換について

梅垣 規制をする人が音に対して鈍感なんですね。「ちり紙交換の声がうるさい? なるほど、声がうるさいなら音楽にしましょう」といった発想しか持っていないんですよ。まず営業する側の利益が最優先だとする考えは、商売をする側はもちろん、規制する側や利用する側の人も同じく持ち合わせていると思います。

志賀 私はこの問題は日本における“サービスは無料である”という意識と欧米のチップ制度との差とも受け止めています。チップというものは、観光旅行に行かれた方には非常に煩わしいものかもしれませんが、実際に生活してみると、自由を求める実に合理的な精神の上に成り立った制度だと思えるのです。そして自由であるためには自立していなくてはいけないんですね。ですから自分でできることはあくまで自分でする。やむなく人の手を煩わせたらそれに対しては心づけをしよう、という考え方で成り立っていると思えるのです。

 日本はどうかというと、きめ細かなサービスを得意とする国民性だからでしょうが、なにしろサービス合戦が非常に盛んで、受け取る側もサービスは無料と思い込んでいますね。

 ですから、ちり紙交換が成り立っている背景には「うるさいけれども、あの人たちは家までやってきてくれて、ポンと放り出した新聞紙を束ねて持って行ってくれる」という利便性を優先させる考え方があると思います。

高梨 ちり紙交換のアナウンスはうるさいので、特定の業者を決め、例えば月曜なら月曜のどこどこに何時に取りに来てくれるようにと業者と取り決めをしている地域も出てきているようですね。ただ問題は、そうすると今度は業者間の競争がより厳しくなり、景品を付けたり「当社とまぎらわしい名前の業者が廻っていますが当社とは関係ありませんので御注意下さい」とアナウンスで廻ったりね。

梅垣 むずかしいですね。

志賀 競争社会ぶりには疲れます。

高梨 話は変わりますが、学校や役所の流す放送をはじめ、バスの中、デパートなど日本中のあらゆるところで「……しましょう」という注意放送があるでしょう。さっき話に出た投票へのおさそい案内もそうだけど……。やっぱり僕なんか異常としか思えないんですけど。

 日本人は12才

志賀 ほんと。あれね、学校のスピーカーで子供たちを条件反射づけているんですよ。私には校内アナウンスの指示で校舎に入る子供たちと、「足もとに気をつけてお乗り下さい」と言われ、黙々と電車に乗り込む大人の姿がだぶって見えてせつなくなります。

 例えばデパートでスリが発生したとしますよね。そうすると、「店内放送で注意を促すべきだ」式の意見が日本ではすぐ出てきますでしょ。でも自分の懐中物でさえ注意を呼び掛けられなければ守れない体質というのは、やはりおかしいのではないでしょうか。

 それから日本では被害に遭ったりすると、自分の責任だとは考えないで、注意をしてくれなかった方が悪いと責任転嫁してしまいがちですね。自分の行動は自分で責任をもつという意識が低いと思います。それは一つには日本が単一民族で非常に安全な国だったという裏づけがあるからかもしれませんが……。

梅垣 昔、「日本人は十二才だ」と言った人がいましたけど、あれは実に名言ですね。それは単にその当時の日本人を指して言った訳ではなく、日本人の国民性、気質を適確に捉えていると思います。今日、至る所に氾濫している無用としか思えないアナウンスは、日本人が大人も子供も含めて小学校程度の判断力しか持っていないという前提のもとに生まれているんです。

高梨 前の人に続いて、すいたドアからお乗りください。

梅垣 そうそう。自分がもし小学生だったら、なるほどと思えるアナウンスもあるんですけど。子供のときには母親から「ドアはちゃんと閉めなさい」とか「靴は揃えて脱ぎなさい」とか言われますね。でも、ある程度の年齢に達すれば、そのような母親の注意をうるさいと思うようになるはずなんです。「わかりきったことをいちいち言うな」というのは、自我の形成のある段階を越えると当然起こってくると思うんですがね。ところが多くの人にそれが起きていないとすると、“日本人は十二才”説の証明になるんじゃないですか?

 それに、社会が使うエネルギーも無視できない量だと思います。家庭や学校でしつけや教育を行うのは、子供が社会へ出たときに、社会にそういう無駄なエネルギーを使わせないためじゃないですか。

高梨 評論家の犬養道子さんが『アウトサイダーからの手紙』というエッセイ集の中で、何でこんなキザったらしい書名を付けたかというと、自分にとって日本は気が狂うほどやかましい国だ。だけれども周囲の人を見ると、ほとんどの人が苦にもしていないようだ。自分にはそういう日本人の感覚は全く理解できない。だからアウトサイダーからの手紙なんだ、ってなことを書いていらっしゃいますね。

志賀 そうですね。静かにほっといてくれることがサービスであるとする犬養さんとは全く逆の発想に立った考えが支配的ですね。

 バスの中でもコマーシャル

梅垣 電車やバスのアナウンスは、運行上あるいは安全上必要最小限のことを言えばそれでいいのです。閉じ込められた箱の中でコマーシャルまで聞かされるんですからね。特にバスの車内アナウンス(テープ)はコマーシャルの間に停留所名をはさんでいると言った方が正確ですよ。

 それに昔のコマーシャルはせいぜい、「インテリアの○○店前」程度だったのが、今や民放テレビの洋画並みに枕詞が付いて、「あなたの生活にうるおいを与え、豊かな明日を約束する総合インテリアの店○○はこちらです」となりますからね。

志賀 ほんと、長くなったのよね。

高梨 かつては停留所ごとにコマーシャル一件だったのが、このところ絶えまなく流し出した。

梅垣 そう。乗客はバス会社の私有物ではないと言いたい。コマーシャルを止めたためにバス会社の収益が落ちて値上げをしなければならないのなら、料金値上げを選ぶのが筋だと思うんですよ。

志賀 今は昔の村落共同体と違って、さまざまな職業や生活時間、そして価値観の異なった人間が集まって住む世の中なのに、そういう都市生活での基本的な生活ルールが日本の社会にはまだできていないと思うんです。車内放送にしても、それを迷惑だと感じている人が仮に少数だろうといる訳ですよ。それなのに「放送を必要としている人もいるから」という論法。

 私に言わせれば、初めての路線に乗るのなら、事前に所用時間はどの位で、何時頃到着するか、どこで乗り換えるかなんてことは調べておくのが大人だと思うんですよ。ねぇ、そうでしょう?

梅垣 もちろん私たちはそう思いますよ。でもそう言うと、今度は、あなたたちは目の不自由な人のことを考えたことがあるんですか、という意見が出る。

志賀 でも、目の不自由な人たちは本当にあのアナウンスがみんな必要なのかしら?

梅垣 さあ……?

高梨 仮に盲人の方が細かいアナウンスを望んだとしても、それは見知らぬ乗客に尋ねにくかったりするからでしょう。あるいは周囲の人が自発的に助けないからでしょう。シルバー・シート設置の発想と同じですよ。

志賀 指示されないと何もしない国民なんでしょうか。「雨が降ってきましたので窓をお閉め下さい」なんていうバカバカしいアナウンスが流れてきても、うるさいと文句を言う人もいない……。

梅垣 そうしないと閉めないんでしょう。(笑)

高梨 にわとりと卵の関係ですね。でもだからといって御親切アナウンスばかりやっていると、私たち日本人はいつまでなっても十三才になれませんね。

 横断歩道の音楽

志賀 外国旅行へ出掛けてスリの被害にあう日本人がとても多いでしょう。十二才用の注意アナウンスなどしてくれる国などありませんからね。

高梨 さっきの目の不自由の人たちのため、という話に戻るけどね、僕は日本の福祉政策に根本的に欠けているものは、本当に当事者の望むことをしてない点にあると思うんです。障害者の問題、老人の問題、子供の問題、みんな同じです。お互いが社会の構成員、一緒にやりましょ、という感覚、ないですね。

 ちょっと話をそらしちゃったようで申し訳ないんだけど、たとえばね、横断歩道で鳴る「通りゃんせ」の音楽。あれ盲人の方たちが選んだ曲なのかしら? 僕が目が悪かったら、あんな曲で渡らせてもらうの嫌ですね。「そっと通してくだしゃんせ」なんて、ふざけてますよ。

志賀 仮に盲人の人たちが横断歩道が青のときは音楽を流して欲しいと望んだとしても、必要なときだけ鳴るという具合にはいかないのかしら。とにかく、あらゆる面で日本という国は効率一辺倒。やすらぎというものがないんです。障害者や老人にとってはさぞ辛いでしょうね。

梅垣 あの歩道橋なんか特にね。

志賀 あんなものがある限り日本は先進国なんていえませんよ。

高梨 誰でも年をとるんですがね。

志賀 それから、日本人て文句を言いませんね。耐えることが相変らず美徳なのかしら。

 制服好きの日本人

高梨 僕はね、日本人というのは管理したりされたりするのが好きな国民だと思うんです。私事で何だけど、子供を幼稚園に入れるときにね、僕は制服の決った幼稚園だけは絶対入れたくなかったんです。それで、いろいろ電話で問い合わせたところ、僕の住む区──横浜の港南区っていうんですが──には服装の自由な幼稚園は二つしかないんですよ。

志賀 へーえ。

高梨 幸いそのうちの一つが僕の家から近いところにあって大喜びした訳ですが、小学校を除くと中学生も高校生も制服着てるでしょう。公立の場合は標準服って言うらしいんだけど、拡声器でああしましょう、こうしましょうと、それこそ全体主義国家みたいに注意されて、それに反発を感じない国民性と制服好きとは非常に関連が深いと思いますね。

志賀 まったくその通りですね。久しぶりに日本へ帰ってきて何が気持悪いかって、皆同じ制服や同じようなもの着ていること。服装も自己主張のひとつだと思うんですね。疑問にも思わず従っていられるのは、やはり何かに捉われている証拠で、こういう情況からは創造的な物の考え方は生まれにくいでしょうね。

 とにかく、電気的に増幅された音が街中にあふれているのは日本独特でしょ。なぜだろう、そしてなぜみんな平気なんだろうと考えてゆくと、非常に根が深いみたいですね。

梅垣 私たちの会員の中で、駅の発車ベルを「駆け込み促進器」と名付けた人がいますね。実際、ベルが鳴るとみんないっせいに走り出して人にぶつかったりしますでしょ。ベルやアナウンスが長いので走れば間に合うのを知っている訳です。安全を考えたらあのベルはむしろマイナス面の方が多い気がするんですよ。その辺のことも鉄道会社の人たちに考えていただきたいですね。

志賀 あのベルはもう耳がつんざけそうです。それから駅で音楽や小鳥の声を流しているところがありますね。これらもサービス、親切心からなのでしょうが、テープで流される小鳥の声に心の安らぎを覚える人がいるのでしょうか。余りにも発想が貧弱ですね。悲しくなるくらい。

高梨 夕方の六時になると子供たちに帰宅をうながす放送がありますね。あれなども文句を言いにゆくと、緊急のとき用にチェックしてるんだという答えが返ってきますが、共働きの家庭もあるんですよね。そういう配慮が全くない。

梅垣 毎朝「区民の皆様お早うございます」とやるところもありますね。あれなんか夜中に仕事をする人はたまらないと思いますよ。

志賀 “あてがいぶち”が好きなんですよ。

高梨 「やさしく走ろうTOKYO」なんて標語もありますし、あんなもので交通事故が減るのかどうか知りませんが、アナウンスの洪水と日本人のスローガン好きとも何か根がつながっていそうですね。

志賀 うーん。そんな風に考えてゆくと日本の街が静かになるには、日本人の意識そのものが変らなければだめみたいですね。

梅垣 そう、先の長い話ですよ。

高梨 今日は、なんだか日本のケチばかりつけたみたいだけど、僕たちもまぎれもない日本人。つまり、自分たちの国を少しでも住みやすくしようということですよね。ま、気長にやりましょう。今日は、ありがとうございました。

──────

 〈日本人の意識そのものが変〉わることを期待して、〈自分たちの国を少しでも住みやすくしよう〉と、〈先の長い話〉とわかったうえで〈気長に〉取り組んだものの、30年経っても、あらゆるところで〈十二才〉用の放送は増え続けています。
 これを書いている今も、防災無線から聞きたくもない童謡を聞かされ、たった1台の救急車が何種類ものサイレンを鳴らし、同時に「はい救急車通ります道を空けてください!」と連呼しながら走っていきました。耳を塞いでやり過ごすしかありません。

 この座談会で話題に出ているさまざまな放送が、音源の種類が増えたり、説明口調のだらだら長いアナウンスになったりしてひどくなる一方、当時はなかったスピーカー騒音も新たに登場しています。代表的なのは街頭の大型ビジョン(当時もあったけれど、新宿のアルタなどごく一部)や、アドカー(アドトラック)でしょうか。

 せっかく右翼の街宣が減ったのに、今度は左翼が「デモは俺たちの権利だ!」と自分たちの正義を叫び続け、その騒音で苦痛を感じる人の権利を圧殺して平気な顔をしています。
 スーパーでは、ラジカセより設置スペースが小さくて済む小型の液晶モニターが登場したせいで、あちらこちらの棚から「買え買え!」とエンドレスの押し売りをしてきます。
 コンビニ、ファミレス、ファーストフード、チェーン店のコーヒーショップや居酒屋、ユニクロ、家電量販店など、けたたましいBGMと宣伝放送、店員の金切り声ばかりの店も比較にならないほど増えました。ラーメン屋など、飯を食うためにあるのか店員の雄叫びを聞くためにあるのか、わからないような店ばかりです。

 政治屋は相変わらず拡声器で絶叫する「どぶ板選挙」を続け、バスやトラックは周囲に誰もいなくても「左に曲がりますご注意ください」の音声を垂れ流し、ICカードが普及すれば、それに合わせて「しっかり1秒タッチして」などと、「こうするんでちゅよ、ああするんでちゅよ」の放送が増えます。
 先日の新聞に載っていましたが、携帯電話の電波は心臓のペースメーカーに影響を与えないと科学的に証明されているのに、東京メトロは「不安に思う人がいる以上、“優先席付近では携帯電話の電源をお切りください”の放送はやめない」とコメントし、迷信を根拠に無意味なアナウンスを流し続けます(この放送をやめると怒鳴り込んでくる、冷静さのかけらもない利用者の問題でもある)。

 まあ、どれだけ愚痴を書いても仕方がないのでこのへんでやめますが、新たなテクノロジーが出現すれば、それだけ「こうするんでしゅよ、ああするんでしゅよ~」という指示の放送が増えていく。そして「不安だからとにかく放送しろ!」「スローガンを叫び音楽を鳴らし続ければ願いは叶うのじゃ!」という、この国の「論より言霊」の呪術信仰も変わらず続いていく。
 テクノロジーが発達するのに、「心はいつも古代人」のまま変わらない日本人の精神年齢は、相対的に12歳よりさらに下がったんじゃないでしょうかね。

カテゴリ:「静かな街を考える会」について
憲法学者が語る「表現の自由と拡声機」
 明日からの選挙騒音を考えると、それだけでうんざりしてしまいます。

 ちなみに、ここ1カ月の間にうちの周囲を街宣車で走り回ったのは、共産党と公明党が共に5回ぐらいずつ。公明党は住宅地の路上で演説までしやがりました。
 私はJRと東京メトロに乗るとき以外はできるだけ耳栓を我慢するようにしていますが、この公明党の演説が10分ほど続いたところで、仕方なくぶっとい耳栓をハメました。明日から1週間、どうなることやら。ワイハにでも逃げてーなあー。

 いずれにせよ、この時点で共産党と公明党への投票は論外。そもそも私は「NO!選挙カー推進ネットワーク」に参加している議員か、「選挙カーは使いません」と表明した立候補者以外には投票しないと決めているのですが、私の住んでいる市にはそのどちらもいません。つまり、棄権ということです。投票するに値しない政治屋ばかりなんだからしょうがない。

 「選挙カーや政治家の演説がうるさい」と言うと、「表現の自由をなんだと思ってるんだ! 民主主義の根幹なんだじょ!」だのと喚く輩が多いですが、本当にそうなんでしょうか。日本を代表するリベラル派の憲法学者が「民主主義という制度を守るために表現の自由があるわけではない」、「人間は民主主義のために生きているのではない」と発言していたらどうでしょう。

 今年1月に亡くなられた憲法学者で「九条の会」を結成した一人でもある奥平康弘氏が、ちょっと古いのですが1989年に本会の機関誌『AMENITY』7号でインタビューに答えてくださっています。「表現の自由と拡声機」というタイトルで、選挙カーや街頭演説などの政治騒音だけでなく、電車やバスのやかましいアナウンスまで「放送と自由」について幅広く語っていて、そこに出てくるのがこのような発言です。

 以下に、そのインタビューを転載します。たっぷりあって約9000字。もちろん、転載するからには、私は奥平氏の発言をもっともだと受け止めているということです。
 次回は、この内容を踏まえてさらに何か書くつもりです(気が向いたら)。

――――――

表現の自由と拡声機

奥平康弘(東京大学社会科学研究所教授)

聞き手
T
U

<U> 私たちの会のメンバーの間で、いちばん意見が分かれるのが政治活動のスピーカーでして、右翼の宣伝カーを何とかすべきだ、という声があるかと思うと、政治的な演説などのスピーカー使用規制はするべきではない、という意見もあるのです。

 今年(一九八九年)の七月に環境庁が発表した「拡声機騒音規制強化に関する報告書」も、政治的な面でのスピーカー使用は、規制から除外してありますし、環境庁にかつて要望書を出した私たちの会も、同じように政治的なものは外しておいたんですが……。

<奥平> 拡声機の使用規制の問題は、表現の自由というより、正確に言えば表現手段の自由の問題ですね。まず、政治的な演説であろうとちり紙交換だろうと、騒音であるという側面は変わりません。受け手の側からみれば、物干しざおを売るメッセージも、ある政党を売り出すメッセージも同じだと思うんです。ですから私は、公共空間に流される拡声機の音は、すべて規制の対象になり得ると思うのです。また、拡声機の使用規制が表現の自由や政治活動の自由を規制することになるというふうには考えません。

 なぜかという説明をすることは、すなわち、表現の自由とか表現の手段を利用する自由とは何のためにあるのか、あるいは、憲法は何のために表現の自由を認めるのか、ということを話すことになるのですが……。

 表現の自由は、民主主義過程において必要だから、という側面もあるんですが、僕は民主主義という制度を守るために表現の自由があるとか、何かのために表現の自由がある、というだけのものとは考えません。一言で言えば、人間が人間であるために、僕が生きるために表現の自由がある、というふうにとらえているんです。

 もっと言うと、民主主義のために人間は生きているのではなくて、いろんな活動のためにたまたま生きている。その活動を十全たらしめるために民主主義はある。表現の自由は民主主義という脈絡だけで考えるべきではないのです。

 そうすると、表現の自由を主張する人は、否応なしに聞かされる側の人の人間的自由を調節しなければならない、ということになる。人間は民主主義のために生きているのではないのだから、プライバシーを侵害する騒音に対し「民主主義のために」という理由で我慢することは、どこかで無理した議論をしていることになる。

 もちろん、ときには「民主主義のために」という議論も必要なんですが、根本的にそれだけでいいのか、ということですね。表現の自由は民主主義のためにあるんだという、非常に傾いた形で表現の自由を考えすぎてしまっているように思います。

 欧米社会では、営業用のスピーカーのみならず、政治的メッセージの拡声機騒音もありません。そのことをどう考えるか。問題はなぜ拡声機を使う必要があるのか。そのレベルで議論する必要があるでしょうね。

<U> 選挙運動のスピーカー音に批判的な人は「表現の自由」を尊重しない人、というふうに思われてしまいがちなのが現実に思えますが。

<奥平> 憲法研究者の一人として僕は、「表現の自由を保護するために政治的な表現に関しては拡声機規制をしてはいけないのだ」という憲法論には疑問を覚えますね。それに、政治的なメッセージを、いったいどうやって区別するんでしょうか。区別なんかできませんよ。

 そのようなことを深く考えないで、日本の場合は、政治的自由、表現の自由ということで議論を止めてしまっている。これは、騒音一般に対するセンシビリティのレベルが驚くほど低いからでしょう。

 公職選挙法では、朝八時から拡声機を街中で使っていいようになっているけれど、日本国民たるものは朝八時には起きてあの騒音を我慢しなきゃならない、というのはおかしいと思います。八時なら多くの人が起きてるだろう、というだけのことであって、人によっては真夜中に仕事していて朝はゆっくり眠りたい人もいるんです。

 「今は聞きたくない」という権利は誰にもあるはずです。それを、「いや、今、あんたは聞く必要がある、聞かなきゃいかんのだ」というのが拡声機ですね。また、選挙にはあのようなメッセージをスピーカーで流すことが不可欠なのか……ということを考えていきますと、公選法のシステムそのものがおかしいのではないか、という議論があってもいいですね。昔からこのようなシステムがあったわけではないのですから。名前だけを繰り返すケッタイな選挙が、一般になってしまっているんですよね、現実は。

 僕の恩師であるICU学長だった鵜飼先生が、おととしの五月に亡くなられ、有楽町の銀座教会というところで葬式をしたのですが、葬儀の間中ずっと、すぐ脇の有楽町のどまん中で赤尾敏さんの演説が聞こえ続けていました。それを一緒に聞きながらしか葬儀ができませんでした。列席者たちは「あれが表現の自由かね」とささやいていましたが、厳かに葬式をして亡き人をしのぶという自由よりは、政治的表現のほうが優先するんだというふうに議論を建てなくちゃならないのかどうか。憲法研究者としては、やはり葬式をする自由も確保しなくちゃいかんのではないですか、という議論をどうしてもしたくなる。赤尾敏さんだから悪いと言うのではなく、そういう仕組みというものを考え直すということは意味があると思います。そうじゃないと、日本人の音に対する感性がどんどん悪くなっていってしまう。それは長い目で見ると恐ろしいことじゃないですかね。

<U> そうしたいわゆる「政治的」なスピーカーのほかに、お節介なアナウンスがあまりにも多いと思うのですが……。

<奥平> どうも拡声機騒音の問題の根っこは、表現の自由とか憲法論とかを越えたところにありそうですね。何て言いますか、すき間があれば、そのすき間に何か埋めないと気が済まないというような気持ちが日本人の中にあるからかもしれません。

<U> BGMなんか、そうでしょうね。

<奥平> そうでしょうねぇ。地下鉄のエスカレーターに流されている注意放送、つまり「お乗りの際は黄色い線の内側に……」とか「お子様の手を引いて……」といったテープ放送ですが、あれが夜遅く、誰もいないところで繰り返し流れているのを聞くと、なんか、とても異様な感じを受けますね。

 バスの中で流される、意味のないさまざまな注意放送テープも異常ですね。これはもう、法律論でも憲法論でもないんですよ。しかし、このような放送を異常と思わないで受け入れている社会が、法律論、憲法論を支えているということでもあるんです。

 外国人の書いたものの中に「日本人は深閑とした禅的風景を好む人種であると聞いたが、いざ日本に来てみたら、そんなことはまったくない」とありましたよ。

<U> 龍安寺では、「静けさを満喫してください」というようなテープが絶えず流されているそうですね。今はどうか知りませんが。

<奥平> (笑い)あり得る話ですね。

<U> 私がかつて住んでいた東京の大田区では、火事があると、消火の後に「火事が消えました」という放送を真夜中の三時に触れ回っていたんですよ。

<奥平> そうしてくれるのは結構なことじゃないか、と思う人が多いのでしょうね。一種のパターナリズムの受け皿が日本にあるんだと思います。流すほうと流されるほうの両方に。

<U> 確かにスピーカーから流される内容は悪いことではない。だから、なかなか否定しにくい面がありますね。音を出している側も、プライバシーを侵害しているという意識は皆無ですから……。

<T> そうしたお節介な音がとても多いのですが、奥平先生もおっしゃられたように、こういうのは憲法論や法律論を越えているわけですよね。従ってお節介だからという理由で取り締まることはできないと思います。例えば、デパートの中では必要最小限のこと以外は放送してはならない、というような法律は作れませんよね。だから市民運動などで要望していくしかない気が私も致します。

 他方、先程言われた街頭の拡声機使用規制のほうですが、候補者が公職選挙法上できる運動というのは極めて限定されているわけですよね。だから、宣伝カーによる「誰それです。よろしくお願いします」という連呼にしても、そういう形での運動しかできないという側面もあります。そのような現状に加えて、さらに拡声機使用も全面禁止ということになると憲法上問題ではないかと思うのですが……。

<奥平> おっしゃるように、デパートの中の放送などは、それは悪趣味であるとか、それはうるさいとかは言えますが、法律で取り締まる問題ではないでしょうね。ただ街頭ということになると、人一般を相手にすることになるので、条例なりで規制しなければならないし、現に多少の規制をしている。

<T> 岡山県の「暴騒音規制条例」とか……。この間は「国会周辺の静穏を保持する法律」というのもできましたが、それについてはどう思われますか。

<奥平> 岡山の条例の場合には、かなり多くの憲法学者が憲法違反である、あるいは政治活動の自由を規律してしまっているとして、かなり評判が悪かったのですが、僕がこの条例についてコメントを避けてきたのは、ちょっとこの議論に乗るには慎重に考えていきたいと思っていたからです。

 「暴騒音条例」について言うと、適用除外の挙げ方(第三条)にしても、公務員の行うものは別だというのは非常におかしいし、祭礼や運動会等、住民が慣習として行う行事なら拡声機使用を許す、という点などは、このこと自体が問題になり得るわけですね。また、音の大きさの規制と時間の規制(第四条)で言えば、これはこれで問題を含んでいるように思える。それに、取り締まる側がなぜ公安委員会なのか、なぜ警察なのか、という点も依然として払拭し得ないものがある。公安条例が公安委員会や警察の管轄になっているからだろうけれど……。

 このように問題点は多々あるにしても、地方公共団体がこの種の規制をすることが、直ちに政治的自由を制限することになるから憲法違反だという議論は、ちょっと粗雑にすぎると思うんです。直ちに違憲だと言うには慎重であっていいんじゃないかと思います。

 国会周辺の法律の場合は、市民のための法律ではありませんね。「これらの地域の静穏を保持し、よって国会の審議権の確保と良好な国際関係の維持に資することを目的とする」(第一条)というのであって、僕はこのこと自体に非常にひっかかる。国会の審議のために、また国際関係のためになら規律する、ということが。

 僕たちが拡声機を規律して欲しいのは、国民にとってうるさいからであり、一種のプライバシー侵害になるからです。でも、そう言うと「いや、それはちょっと待ってください。私たちが議論するのは国会の審議が邪魔されるからです」あるいは「外国の人たちとの良き外交関係を保持するために必要なんです。さし当たりそっちだけです」というシングルアウトする論理が憲法論以前にあるんですね。それが気に入らない。

 しかし、これも憲法違反かというと、外交代表機関で働く人たちの活動の自由が妨げられていれば、直ちに違憲とは言えない。

<U> 国会の審議のためや国際関係のためだけでなく、良好な国民生活のためにとか言ってくれればいいんですがね。

<奥平> そうすると、うるさいのは国会周辺だけではないんですよ。これをきっかけに全体に広がってゆくのか、あるいは国会周辺だけで必要にして十分な規律であるから他は知りませんとなるのか。その分かれ目になるような感じですね。

 それから、拡声機の使用をより強く規律する法律なり条例なりが仮に出てきた場合、全面禁止となると問題が出てくるので、何らかの形で、やり方とか目的とか騒音の程度とかを規律するしかないだろうと思います。

 僕は他の国の状況はよく分からないのですけれど、例えば西ベルリンに住んでいるときに、うるさいと気付くほどの拡声機騒音を街で耳にしたことはまったく一度もありませんでした。それは、条例とか法律とかが制限したり禁止したりしているからだとは必ずしも思わないんです。社会の質、人々のセンシビリティといったものが、スピーカーを使わせないんだろうと思います。

 たまたま西ドイツにいる間に選挙があったんですが、選挙の前日までその日が投票日だという放送はありませんでした。公職選挙法で規律しているからかどうかは調べてきませんでしたが、たぶんそのせいではないでしょう。騒音を規律する法律なり条例なりがあるから人々はセールス(政治的セールスを含めて)に拡声機を使わないのではなくて、例えば政治家が、日本でやるように拡声機を使えば人々が怒るから、つまりマイナスになって宣伝効果がないからでしょう。そういう歯止めがあるからだと思います。

 拡声機によってやるということ自体がマイナス効果になるから淘汰されてしまうんだ、という側面を、もう少し見直す必要があると思います。そこのところが非常に難しいんですね。日本ではマイナス効果ではない。仕方ないから法律でやりましょ、ということになってしまい、そこから問題が出てきてしまう。

<T> ヨーロッパなどでは、法的な縛りがあるから拡声機を使わないんじゃなくて、他人に迷惑をかけるからやらないのでしょうね。ところが、日本ではそれが期待できないというので、先程の「暴騒音条例」「国会周辺の静穏法」ができたのですが、公務員は適用対象外。立候補者は戸別訪問もビラ配りもできない一方で、もともとお節介な役所や学校の放送は全然取り締まられません。それも問題に思えるんです。

<奥平> さっきも言ったように、騒音の問題に国家が乗り出してきて、ま、非常に不満足な内容ながら規律を始めましたが、これが日本全体の領域でも静ひつを保持できるよう国家がお助けしましょう、という方向へ行くかどうかは分かりませんね。国民の側にも問題があるんじゃないでしょうかね。

<T> 多数派的支配的見解を持つ者はスピーカーを使わなくても、ラジオやテレビ、新聞などで労せずして自己の見解を広めることができるが、少数派非オーソドックスな見解を持つ者は、そうした機会が与えられないのでスピーカーに頼るしかない、という意見もありますが……。

<奥平> その問題は、政治的自由というものを考えるときのひとつのポイントですね。そういうメディアがどうしても自分の手段として必要なんだ、それ以外ではダメなんだという議論が今でも通用するのかどうか。音量、時間帯を含めて、自分にとってアヴェイラブルな手段ならどういうふうに使おうと勝手なのだ、聞きたくない人も他の仕事を止めてでも聞きなさい、という種類の表現手段しかないのかという議論を、もっと突っ込んで考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 今の日本には、プライバシー侵害的な騒音が生活に入り込んでおり、人々はそれを当たり前のことだと考えすぎています。それに異論を述べてみる必要があると思います。それほど日本の拡声機騒音はすごいですよ。

 Tさんのご指摘のように、少数意見の権利はあるんで、だからこそ慎重に考えるんですが、それにもかかわらずなんですよね。スピーカーを持つ少数者と静ひつを欲する人間としての意味、社会の質の問題などを考えてみることも日本では必要だと思います。そのくらいのこと言ってもいいんじゃないかな、やっつけられるかも知れないけれど……。

<T> 現在の日本は規制だらけで、デモやビラまきは無許可でやれば、すぐ警察に取り締まられてしまいます。拡声機の使用を厳しく規制して欲しいと思う一方で、そうするとますます警察の監視下になってしまいそうな……という不安も捨てられないんですよ。

<奥平> 現状における効果が疑わしいという点では、そうですね。公職選挙法がその典型であって、いろいろのものを規制しているから、否応なしに拡声機による車上演説になってしまう。

 また、このシステムの中では拡声機しかないというのも、これまた日本的特色と言わざるを得ません。

 最高裁判所の役割ということでいうと、非常におかしなことですけれど、全部システムの問題なんですね。しかし、裁判ではシステムの一部しか問題にならないんで。

 僕の理解するところでは、戸別訪問の禁止なんて問題があると、それがダメと言うとシステム全体が崩れてしまうんです。公職選挙法が持ってる規律全体が崩れて、自民党政府を始めとした国会が大混乱になってしまうんですね。

 つまり、ちょうど積み木のように、日本的土壌の上にうまい具合にできあがっているブロックのひとつを取り除くように、戸別訪問を禁止する規律、拡声機はこうこうこのように使えというように、選挙運動はこういうものだと思い込まされている積み木の一部を取ってしまうと崩れてしまう。

 僕ら憲法学者はその積み木を取ってくれと要求しているわけですが、システム全体を裁判はできないので、みんなでシステムが崩れるのを防いでいて、その結果、戸別訪問の禁止も大いに結構だし、拡声機を使って候補者の名前を宣伝するのもいいじゃないかというふうになっている。

 システムってこわいなと思います。戦後四十年間の独特の選挙運動の仕組みを作ってしまった。普通の人は選挙をそんなもんだと思っている。外国ではどんな選挙をしているのか、どんなに自由でどんなに静かであるかを知らないわけですから。そういうシステムを有効だと思っているし、裁判所もどこかをいじれば全部がダメになってしまうだけでなく、公選法は違憲だという判決を下そうものなら、国会を怒らせることになるし、自民党を怒らせるのでちょっと荷が重すぎるということになる。そういう争点なんですね、僕の理解によると。

 それぞれの仕組みが、日本式論理からするともっともな論理で組まれている。だからこそその修正を期待するのは、とても難しい。選挙運動の拡声機を規律するというそれだけを問題にしてしまったのでは、今、現にこのシステムが有効に働いていると思っている人々からすると、とんでもない議論だということになる。システム全体として考えれば解けるはずのものが、システム全体を解決するような解き方が制度としてない。最高裁判所は国会や自民党から叩かれても、一度システムの見直しをやってみたらいいと思うんですが。

 それはそうとしても、日本の社会はあまりにもやかましいと思う人が、少数ではあっても増えてきていることは事実だと思います。このことは新聞の投書を見ても分かります。現にJRなんかも、あなたたちの理論に反応を示してきていますよね。

<U> それと逆に、街のBGMなどはますます増えている気がしますね。

<奥平> そうですね。駅などで拡声機からピーチク小鳥のさえずりを流してるのなど、こっけいそのものだと思うのですが、こっけいと思わない人が多いんでしょうねえ。日本人はああいうアーティフィシャルなものに抵抗感がないみたいですね。

<U> コピー食品って言うんですか、カニの味がするが実はカマボコであるというような……。あのたぐいのものも多いですね。

<奥平> 大切なことは結局、社会を規定している力、人の心とでも言いますか、そういった社会の質が法律を作り出したり適用させたり支えたりしているんですね。この面から日本の拡声機騒音を考えると、ほとんどが絶望的なんですが、さっきからの繰り返しになっちゃうけど、そこから出発するしかないですね。

 ところで、会の皆さんは音楽好きが多いのではないですか?

<U> そうですね。職業としての音楽家もいますし、音楽愛好家が多いのは確かですね。

<奥平> 音楽的な感性を育ててゆくのには、今の日本社会はよろしくない社会ですね。

<U> それから、会の中心メンバーに外国人がいるのも私たちの会の特色だと思います。

<奥平> 外国との比較ができますね。そのような方に、この日本の騒音が世界でも特殊だということを言っていただかないと。

<T> さっき話にも出たお節介放送について、もうひとつ言いたいのは、音が管理の手段としてよく使われるようになってきているということです。

 ハックスリーの『すばらしい新世界』には、幼児に絵本を持たせて、同時にサイレンショックを与え続ける。すると幼児は絵本に憎悪を持つようになり、生涯、書物から遠ざけさせられるという話がありますが、これに似たものが現にある。

 伊勢丹では、雨が降り出すと『雨にぬれても』を流し、晴れると『蒼いノクターン』を流してるんです。雨が降り出すと新たに入ってくる客が減るので、現在店内にいる客を大事にして、売り上げを減らさないようにしなさい、と音楽で店員を管理しています。

 そういうのは、うるさいというわけではないんですが、何か嫌な予感がするんですね。予想される方向としては、市民の拡声機使用は取り締まられ街は静かになってゆくけれど、肝心の役所は取り締まられずに、むしろ国家が音を使って国民の精神を管理する、まさに、『一九八四年』の世界のようになってゆくんじゃないかという気がしたりするんです。

<奥平> そういう社会になる可能性ということで考えると、日本人のハードルは低いですよね。そういうものに対する抵抗も、エネルギーも、意欲も……。

<U> 天皇崩御の日なんてのは、マスコミの体質が戦前から変わっていないということを示したと思います。

<奥平> 大勢順応主義というと、そういうことを含めて日本人て何だろうと、よく分かんなくさせられます。

 僕、この前ちょっとイタズラに書いたことなんですが、一九三〇年代の日本というのは、外から見たらものすごく変な国だったと。あのホメイニ率いるイランのイスラム共和国と、そんなに違わなかったと思うんですよ。とにかくメチャクチャに天皇を崇拝しなくちゃならないと。

 しかし、あの中で、僕も子どもだったから、あれがおかしいなんて全然考えなかったわけですね。今のイスラムの人たちはそうだと思う。日本の天皇報道や拡声機騒音も、それに非常に近いんじゃないかと思います。

 ただ、日本の三〇年代と今日とひとつ違うのは、今なら「外国から見ればおかしいですよ」と、さっき言ったような比較の観点で見ることができるという点です。だから、まんざら捨てたものでもありません。

<T> 『世界』八九年一月号に執筆された「日本国憲法と『内なる天皇制』」ですね。

<奥平> そうです。最高裁の判決を批判するようなときは、あえてアメリカの最高裁の判決を持ってきて、叩いてみるというのが僕のひとつの方法なんです。常に有効な方法とは思いませんが、人間として当たり前じゃないですよ、人間の社会では通用する判決ではないですよ、ということを説明するときに、肩ひじ張らず言える利点があります。

<T> 元号も不便で、しかも日本でしか通用しないのは明らかなのに皆使っている。似てますね。

<奥平> そうですね。典型ですね。とにかく皆さんの会の意見は、この日本では少数意見であることは確実だし、当分の間は少数意見のままだろうけれど、ファンダメンタリズムが全面的に展開しないで済むんだ、というふうに思うんですね。誰かが頑張っているんで、まったく変になることはない、と。

 戦後四十年の歴史は、ある意味ではそういうものだったんじゃないか、という感じが致します。世の中の支配的意見にはならなかったけれども。環境問題ひとつ例にとっても言えることだと思います。

<U> お忙しい中、ありがとうございました。

――――――

カテゴリ:「静かな街を考える会」について
久米宏氏のラジオで「音」を語る
 2009年5月9日、本会の会員である哲学者・元電気通信大学教授の中島義道氏がTBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」に出演し、日本の町にあふれる「音」について久米氏と語っています。

 このときの録音が本会のホームページにアップロードされているのですが、今まで聞いていませんでした。「そういえば」と思って聞き、ついでに文字起こしをしたのでここに掲載します。
 音声を聞きたい方はこちらです(約20分)。

――――――

久米 (冒頭のはがき紹介は省略)今日のテーマは「好きな音、嫌いな音」。日本の町にあふれる音に苦痛を感じて声を上げて闘っている方がいらっしゃって、哲学者で『うるさい日本の私』をお書きになってらっしゃいます中島義道さんとお電話がつながっています。どんな音が気に障ります?

中島 よく誤解されますけど、日本社会は人々のしゃべる声も比較的小さいし、車の音とか比較的静かなんですよ。ヨーロッパに行くと怒鳴り合っていたり、ものすごい人間同士の叫び合いなんかあるんですが、日本人は非常に静かで、それなのに至る所から注意放送とかスピーカーの音が撒き散らされているという状況ですね。

久米 ヨーロッパ暮らしが長いから、よけい気になるということなんでしょうか。

中島 それもありますね。向こうに5年くらいいて帰ってきて25年くらいですけれども、それまでは気がつかなかったですね。帰ってきて非常に驚いてしまって、これはどうしたことかと思って。不思議なのは私がいらだって仲間たちもいるんですけれども、ほとんどの人がいらだたないということにいらだちましたね。

久米 最近はタクシーに乗ると「お客様のためを思って申し上げます、シートベルトをお付けください」とかあるんですよ女の声で。

中島 私、高い女性のああいう慈しみ深いというか、あの声が大嫌いなんですね。新幹線なんか乗るとそうですよね。

久米 山手線でも、ラジオネーム電車通勤46歳さんから「次は渋谷です、渋谷ですと録音された音が入ったあとで、英語でザ ネクスト ステーション イズ シブヤ ネクスト ステーション イズ シブヤ、駅が近づくと今度は車掌さんが渋谷でーす渋谷でーす、のべつまくなしにうるさい」と電車の中は。こういう音にうるさいといらだたない日本人にいらだつ。

中島 そうですね。それは理由があると思っていて、私も半分くらいあきらめていて、25年やってますけどね。前は日本人は鈍感だからとか、感受性が鈍いとか、アホだからとかいう議論はしたんですが、それじゃどうしても駄目でですね、結局、発想を逆にしまして、日本人の持っているものすごく他人に配慮するとか、やさしいとか、傷つけないとかいうことが氾濫の原因だと考えるのが一番いいと思ってるんですよ。つまり、日本人は隣の人に「ちょっと窓開けてください」とか「詰めなさい」ってなかなか言いにくいですよね。自分も言われたくないんですよ人から。席を譲って断られると困る人が多いわけですが、むしろそのへんがポイントで、すべて車掌さんが言ってあげるんですね。ヨーロッパですとスーパーで閉店時間になりますと、勝手に電気消して「出ろ」と言いますけれども、日本では「蛍の光」流して――あれ私大嫌いだけども――延々と放送が流れるわけですよね。ああいう人を傷つけないというものが、かなりの原因だと思ってますけどね。

久米 たとえば駅のエスカレーターとか動く歩道なんかでも、終わりになるときに「そろそろ終わります」とか、いろんなピンポーンピンポーンなんて音がしたりして、つまり近くにお子さんが、他人のお子さんでもいいんですけど、お年寄りがいた場合には、そばに立っている人たちが「足元気をつけましょうね」って言ってあげればいいんだけれども、そういうことをしないから、しょうがないから公共の放送に頼るんだということですね。

中島 それから、いわゆる弱者に合わせている社会ですから、これは非常に難しいんですけれども、ヨーロッパでも障害者はたくさんいるし、老人もたくさんいますが放送はないわけです。つまり日本の場合には、もっともわからない人に全部合わせていますから、私が抗議しますと「わからない人もいるんです」と言われるんですよね。「わかる人もいるんです」と言っても通じないんですよね。ですから、わかる人の立場を一切考えてくれない社会で、これ問題ですよね。

久米 どうすればいいですかね。

中島 たぶん、どうやっても駄目ですね。つまりはっきり言いましてですね、私たちも「運動」にはなり得ないんですよ大衆運動とか。なぜかというと、結局はほとんどの人が音に対して無関心、ではなくて受け入れているんですね。最近で言いますと、学校帰りに「下校時間になりましたから子供たちを見守りましょう」と、世田谷区でも大音響で流れるわけですけど、私があれに対して「するな」と言うのはかなり反社会的に見られてしまうわけでしょ。つまり「やさしさの暴力」という言葉を使いたいんで、やさしいという暴力なんですよ。「やさしいからいけない」となかなか言えませんからね。この難しさがありますね。

久米 僕、5年前まで自由が丘という町に住んでいたんですけど、午後になるとセスナが飛ぶんですよ。で「ひったくりに注意しましょう」と放送して、あれは驚きました。確かにひったくり増えてたんですけど、セスナから放送することはないだろうと思いましたよね。

中島 世田谷でも「振り込め詐欺に注意しましょう」というのが、朝と夕方に車で走ってますね。振り込め詐欺の被害者は確かに気の毒だけれども、それはある程度の場合には、自己責任で(対処)しなさいということが、なかなか通じない社会ということで、これは広い意味において日本人のやさしさ(の問題)ですよね。

久米 どうしようもない、というお話ですけれども、たとえば横断歩道で弱者の近くにいる人たちが黙って助けてあげる、注意してあげるということが、もし自分たちでするのがなんか嫌だから公共に任せよう、音に任せようとしちゃうと、ますますしなくなっちゃうということになります。

中島 そうですね。ですから欧米経由のいわゆる弱者思想が入ってきて日本化してしまうと、向こうでは放送ないんですけれども、日本では多くなるんでしょうね。そのとき私たちの運動にとって一番の敵が、実はそういう人権主義者だったりして、「盲人のことを考えなさい」とか「何もわからない人もいますよ」という声が、私たちに対して一番抗議してくるという構造ですよね。

久米 それは機械任せとか、役所任せとか、公共に任せるってことは、結局、日本人のお上に任せる姿勢と根本は同じなんじゃないですかね。

中島 お上もそれでいいと思ってますので。お上というのは商店街でもどこでもお上で、私、商店街の音楽も全部嫌いで、千歳烏山でもさまざまな「寝たばこに注意しましょう」まで入るわけですね。私、言われたくないんですけれども、(ほとんどの人が)そう言われて体に浴びて別にそれで不快ではない、むしろ快感だっていうことで共謀構造ですよね。お上と買い物している人たちが、お互いに支え合って成り立っているわけですよね。あるいは、季節感って日本人すごく好きですよね。あれがやはり放送で、たとえば4月になると「さくら さくら」が流れてぴらぴらぴらぴらセルロイドがあってという、あれで季節感を感じるという日本人の感性も問題だと思いますね。

久米 本物ではなくてね。

中島 日本人が非常に大切にしている伝統的文化を守ってきた感性が、こういうふうなものに間接的に加害性を持っていると思うんですけれどもね。

久米 季節感の押しつけみたいなものなんですかね。「春をみんなに味わってもらいたいからサービスしてあげたよ」みたいな。

中島 そうですね。日本人のほとんどが「あれ、うるさいからやめてくれ」って怒鳴り込めば、やめるに決まってるわけですよ。秋葉原でもどこでも私は買い物できませんが、バーゲンセールのときに静かにしてて客が集まればいいけども、一番うるさいですね。逆になればいいけども(うるさいからこそ人が)集まりますね。こういう共謀構造ですから、私たちはどうしようもないですねはっきり言って。

久米 25年間の運動で、疲れ果てていらっしゃるようなんですけど。

中島 いや、全然疲れてないんです。

久米 これからも闘っていこうと。

中島 そうですね。原因がわかってくると、悪い意味でいろいろこちら側もテクニックを磨いてきて面白いですよね。無駄なことはしなくなりますから。

久米 何か日本の町で、これだけは残してもいいなという好きな音あります?

中島 私ね、ほかの方々がいろんなことおっしゃってるから、言いたくないんですよ。私「日本の音風景100選」とか大嫌いで、これだけ音漬け社会で錯乱炸裂しているのに、その中から選り分けていい音を探すっていう発想が嫌いなんですよ。ですからそういうのには荷担しませんけどね。

久米 町中で、この音だけは残しといてもいいというのはありませんか?

中島 あるけど言いたくないです。

久米 (笑)ヒントだけでもありません?

中島 つまりね、台風でもなんでもいいんで、自然の音はすべていい音ですよはっきり言って。でも、人は今、逆になっていて、商店街ではなんともない人も「カエルの音がうるさい」とか「カラスを撲滅してくれ」とか言ってるそうですけども、逆転してるんですよね。自然の音がうるさいと言って、商店街のスピーカーはなんともないというふうになっていて。ご存じですか、京都のお寺も3分の1が(鐘を)鳴らしてないんですよ。周りの人がうるさいからと言って。私もいろいろ市役所の人、知ってますけども苦情だらけで、問題なのは日本人は非常に苦情を言う国民なんですね。世界で一番、商品に対して要求が高い国民ですよね。区役所に行っても市役所に行ってもものすごい苦情だらけで、その中で「テープ音がうるさい」という苦情がないわけですから。

久米 ないんだ。

中島 ほとんどないんですよね。(でも)犬の声がうるさいとかいう苦情はたくさんあるわけです。そういうことを知ると、じゃあどういうふうに考えればいいかって次の段階に行きますよね。

アシスタント 火の用心とか、昔からのそういうのも駄目なんですか。

中島 昔の豆腐屋さんのラッパとか、金魚金魚とかいうのはよかったわけですよね。それが急にすべてテープになってしまって、中で売ってる人はふんぞり返ってるわけですよ。ああいう雰囲気が。つまり、音というのはデシベルとか物理的な問題ではなくて、その背後の人間の態度というものを読み取ってしまうんですよ。だから野良犬はうるさくなくても、飼い犬だとうるさいんですよ。そういう人間心理が微妙に動くところなんですよ。

久米 なるほどね。どうもありがとうございました。今、火の用心の話しましたけど、港区の中村さんというのが火の用心で週に2、3回やってるんですけど、数年前にあるマンションの住人から「うるせーお前」と怒鳴られて、それ以来、そのマンションの前を通るときは拍子木だけ打っている。心の中で「火の用心」って言ってるそうです。それから埼玉県深谷市のちり紙交換歴50年「昔は朝、6時30分から『まいどおなじみ』ってやってたんですけど、今は平日は共働きで留守が多いんで、土日に限ってやっている」んだそうです。最近、僕、特に感じるんですけど、勤務時間がみんなバラバラなんで、昼間寝る人っているわけですよ。そういう人たちにとっては、昼間だからって何かやられたら「昼間は寝る時間だから静かにしてもらいたい」という人が予想のほか多いんです。だから昼間は大音量出していいっていう時代ではなくなってきているんですよね。セスナの飛行宣伝、これは東京はできないんだそうですが、大阪はOK。平日のみ土日は禁止で、酒屋さんとか肉屋さんとか自動車教習所、神社の宣伝。

アシスタント えー。

久米 セスナで上空300mを最短10分、最長2時間、1時間8万円だそうです。

――――――

 最後の最後で「火の用心にうるさいと言われた」とか、「ちり紙交換が土日しかできなくなった」とか、騒音を出している側に同情を誘うようなはがきを紹介していますが、こういうものの考え方こそが「やさしさの暴力」であり日本人の鈍感さであり、スピーカー騒音の元凶だということに、久米氏は気づいてくれたのでしょうか?

カテゴリ:「静かな街を考える会」について
『AMENITY』32号発行のお知らせ
 本会が年に一度発行している機関誌『AMENITY』32号が完成しました。購読のお申し込みは本会のホームページからどうぞ。
 購読料は発送1回につき何冊でも1000円、同時にバックナンバーを注文しても、発送1回あたり1000円でお送りします(送料を負担していただく場合あり)。

 32号の内容は下記のとおり。

●東京近郊鉄道会社へのアンケート 香山弘行……1
 鉄道会社10社に、車内アナウンスや駅メロのあり方についてアンケートを送付。その返信を掲載し、今後の鉄道アナウンスがどうなっていくのかを考察しています。なお10社のうち、JR東日本だけがアンケートを無視し返信してこなかったとか。

●拡声器音をめぐる2つのエピソード(転載) 永幡幸司……12
 福島大学准教授・永幡幸司氏の原稿の転載。拡声器を使った選挙演説や募金活動の配慮のなさ、矛盾点を指摘しています。

●プールやジムでのBGM騒音 福田、原田、大嶋……14
 スポーツジムや市民プールなどで流れるBGMがいかに迷惑か。そんな声を集めました。

●意見広告について 竹内昭子……16
 本会の会員が、信濃毎日新聞(2013年10月20日付朝刊)に自費で出稿した意見広告(選挙カーの使用や街頭演説に反対)の後日談。

●日本人の方が苛々する騒音に寛容なのか(転載) ダニエル・クリーガー……18
 駅、車内、スーパー、飲食店、右翼の街宣など、日本のあまりの騒がしさを不思議に思う。英文サイトからの転載(翻訳)。

●音霊 言霊 鈴木捺保……20
 日常のさまざまな騒音や、日本の景観の汚らしさに苦言。

●日本人のノイズ感覚の変化についての考察 其の二 石上和也……22
 電子音楽の作曲家が、日本人の音感覚やノイズ感覚の形成過程を考察。

●もうちょっと静かになりませんか、JRサン(転載) 猫池……28
 JR東日本の駅や車内のアナウンスがいかにうるさいか。ブログからの転載

●防災行政無線の屋外スピーカ(その二) 五味広美……32
 屋外スピーカーからの音声放送は、災害対策として役に立ちにくいにも関わらず、行政はなぜ防災無線を使うことに固執するのか。情報公開を請求した自治体の資料などをもとに考える。

●合成音声システムでより静かな放送(転載) カトリオナ・ケリー……41
 合成音声の技術が発達すれば、ボリュームを上げることなく聞き取りやすいアナウンスを流すことができるという報告。英文サイトからの転載(翻訳)。

●インタビュー 町田市の防災無線の運営について 福田隆太、C.J.ディーガン……42
 東京都町田市の防災無線の運用方法について、市職員にインタビュー。「災害時以外、原則として防災無線を使わないほうがいい」という方針だそうです。

●関東地区の2014年初の会合……46
 2014年1月におこなわれた本会のミーティングを要約。

●随筆 静寂(転載) 出浦照國……51
 昭和大学客員教授・出浦照國氏からの寄稿。フランクフルトなどヨーロッパの都市から日本に帰国するたび、「なぜ、日本の街はこんなに騒々しいのだろう」と疑問を抱き続けてきた。

●小うるさい日本の私 永井広……54
 スピーカー騒音は思考停止を招くだけ。「同じ」ことを考える人間ばかり作ろうとすると日本社会の問題点を指摘。

●九州の片隅から 古賀知行……58
 28店舗のうち営業しているのが10店舗しかない寂れた商店街でも、BGMを流さないと気が済まない日本人の病巣。

●防災無線 誤報の数々(新聞の切り抜き)……60
 災害警報やJアラートなど誤放送の数々。

AMENITY32号.jpg

カテゴリ:「静かな街を考える会」について
「日盲連」から本会代表へのインタビュー
 町にあふれる過剰なスピーカー音を少しでも減らしてほしい。それが本会の活動主旨ということになりますが、そうしたスピーカー音の中には、視覚障害者のために鳴らす案内音・サイン音(視覚障害者は「音印」とか「耳印」と言うようです)というものがあります。

 言うまでもないことですが、視覚障害者にとって必要な案内音までなくせということはありません。ただ、音の大きさとか、どのような音色で流すのか、といった点にはもっと工夫の余地があるのではないか。
 そもそも、日本の町は駅だろうが商業施設だろうが、どこに行ってもおせっかいで、やかましいスピーカー音だらけ。その氾濫する音の中で視覚障害者のために案内音を流しても、音の洪水に埋もれてしまって、本当に役に立っているのかどうか端から見ているとどうもよくわからない。
 そうした疑問について聞いたり、意見交換をしたりするために、視覚障害者との対話は本会としても重要だと考えていました。

 本会が年に一度発行している機関誌『AMENITY』30号(2012年)に、視覚障害者団体「社会福祉法人 日本盲人会連合」(日盲連)情報部部長・大橋由昌氏へのインタビューが掲載されています。上記の疑問に答えてもらい、「音」について率直な意見交換をしています。

 そのインタビューの後、今度は逆に日盲連から本会の代表C.J.ディーガンさんへのインタビューがあり、その様子が日盲連の月刊音声雑誌『声のひろば』で公開されていました。
 ところが、いつの間にか『声のひろば』のバックナンバー公開が過去3カ月分のみになり、インタビューを掲載した号は聞くことができなくなってしまったようです。
 それではもったいないので、ここに音声ファイルをアップし、ついでにインタビューの内容を書き起こしておきました。

 『声のひろば』インタビュー(約11分).mp3

――――――

「その音は必要ですか?」
静かな街を考える会、C.J.ディーガンさんからのメッセージ

大橋 「静かな街を考える会」というのは、どういう会なんでしょうか。

ディーガン 名前からすると、ただ街を静かにするというだけのように思われるかもしれませんけれども、会が作られたときの名前は「拡声器騒音を考える会」で、数年前に今の名前に変えました。町の暗騒音とか電車の音とかではなく、人為的な音、放送とかメロディーとか、そういうものを意味しているんですが。文化騒音とも言いますけれども、無理やり聞かせられる音というものなんです。うちの会の目的は、そういった音を少しでも小さしてもらおうという主旨の運動です。

大橋 私ども視覚障害者としますと、なるべく耳印、音印がほしいわけですけれども、そういったこととの兼ね合いではいかがなんでしょうかね。

ディーガン たとえば次の駅がどこなのか、どちら側のドアが開くのかについては個人的に私もそうですし、ほかの会員の多くも必要ではないかと思っているんです。目が見えても、あまり乗らない路線でそれくらいの放送があれば助かるわけです。だからなんでもそういった放送をゼロにしようということではなくて、よけいな音をなるべく出してほしくないんです。

大橋 確かに、僕は渋谷の駅を利用しているんですけれども、こんなに大きな音はいらないよなというところはよくありますけれども、ああいうのが特に気になるわけですよね。

ディーガン そうですね。どうしても放送とかメロディーが耳に入ってしまえば、当然ですが脳まで到達しますので、思考の邪魔をされるわけです。

大橋 (本会からのインタビューで)すごく感じたのが、地下鉄の駅の中で階段のほうを教える「ピヨ、ピヨ」という小鳥の音は非常に不自然で、頭の中に響いてよくないという話を初めて聞きまして、そういう感覚の方もいるんだということで、むしろ無機質なピンポーンとかいう音のほうがよろしいということですよね。

ディーガン そのとおりです。

大橋 それは、会の方の共通した認識なんでしょうか。

ディーガン 共通した認識と言ってもいいですね。誰も鳥の声がいいとは思っていないですね。

大橋 そうですか。私たちもこれから音を出してほしい――たとえばハイブリッド車の疑似エンジン音にしてもそうですし、そういう音を出してほしいという一方で、必要最小限の音にしてほしいという、みなさん方の要求もあるんだということが、今日、わかりましたので、これからお互いにそういうところから、接点をどう見いだしていくかというところでしょうかね。

ディーガン そうですね。電気自動車とかハイブリッド車は非常に静からしいので、音が必要だということを私も認めますが、一番恐れているのは、メーカーごとに競合して「うちの車の音はこうだ」とメロディーを出したりすることなんです。本当のエンジン音、あるいはブザーみたいなものであれば問題ないです。もちろん音量の問題はありますけれども、音量そのものがいつも問題とは限らなくて、音が小さくても――たとえば隣にステレオヘッドホンをつけて音楽を聞いている人がいて、その音が漏れたときに、実際は小さな音なんだけれども、やっぱりすごくイライラすると思うんです。そういう意味で「意味のある音」、メロディー、放送、増幅された人の声、そういうものが一番我々にとって邪魔な存在で、もちろん必要な場合もありますけど、よけいなものが多過ぎると思ってます。

大橋 会は全国組織ということですけれども、ディーガンさんは代表になって何年くらい。

ディーガン 7、8年前です。会を作ったのは私じゃなく横浜に住んでいる人なんですが1984年で、その人は残念ながら「何をやっても音がなかなか減らない」と精神的に疲れちゃって辞めてしまったんです。

大橋 今日、僕もカルチャーショックの部分はあるんですけど、私たちはいろんなところで音印を要求してますので、そういう意味で拡声器に限らないですけど、あまり意味のない音を出してほしくないという団体の方がいらっしゃるということで、ひょっとしたらかなり意見対立があるのかなと思って半分身構えていたんですけれども、お互いの認識の一致点もあるんです。要するに電車の中のアナウンスにしても、「お忘れ物にご注意を」とか「足元にご注意を」とかは言わなくてもいいことであって。ただ、私たちとしては駅名であるとか最低限のものはほしいということを申し上げたら、それはよくご理解いただけたんで、私たちも騒音の町を望んでいるわけではないので、これからもみなさんのご意見なども聞きながら、私たちはやっぱり音印は要求していきますし、まあ過度な要求はしていく必要はないと思っているんですけれども。ディーガンさんとしてはどういうご要望がこれから私どもにありますでしょうかね。

ディーガン 先ほどの、特に鳥のさえずりの疑似音がすごく嫌で、そういうことをJRや鉄道会社に言って、別のピンポーンとかブザーとか、もっと無機質な音に変えさせていただけたら非常にうれしいんですけれども。

大橋 私たちとしては、別に方向を知るには小鳥の音で絶対にやってくれという要求ではないので、そのへんは何かのときに言えると思うんですけれども。とても貴重なご意見はお伺いしました。最後に何かコメントなどありましたら。

ディーガン たとえば、駅の近くの大型スクリーンいうのは都条例で違法なんです。我々はもう何度も都とか市とかスクリーンが設置してあるところに行って訴えましたけど、全然聞き入れてもらえなかったんですが、逆に目の不自由な方でそれが邪魔だと思う方がいらっしゃいましたら、ぜひ違法だと訴えていただければと思います。

カテゴリ:「静かな街を考える会」について
TOP PAGE

<<次のページ 前のページ>>

 
■パンくずリスト

TOP PAGE  >  「静かな街を考える会」について

■プロフィール

Author:H・K
市民グループ「静かな街を考える会」会員H・Kのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

■最新記事
■カテゴリ
■月別アーカイブ

■全記事表示リンク
■ブログ内検索

■会員の著書
■リンク
■RSSフィード
■QRコード

QR

■アクセスカウンター

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。