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音にとりかこまれ、言葉には出会わなくなった時代
 もう、毎日がアウフヘーベンでチュッパチャプスしているので、ブログを書く暇がありません。失礼して人様の本の文章を紹介。
 作家・精神科医なだいなだ氏の『信じることと、疑うことと』(1985)から。

「沈黙に耳を」

 自分の言葉が届かなくなったのを感じた人は、《略》他方では声を大きくすることを考えたのでした。そこで、大きい声を出すために、ハンドマイクなるものに頼るようになった。ぼくはそんなふうに考えます。

 拡声器の音の大きさは、だから、自分の言葉の届かぬことに対する焦りとともに増大してきたのです。自分が分かってもらえないと感じた時、相手のこころを捕らえる言葉、表現力のある言葉を探そうとしなくなり、ただひたすら、声を大きくした。

 ぼくたちの耳は、それらの言葉を、いつしか騒音ととらえるようになりました。何ホーンでしか測らなくなった。言葉を音として測るということは、心理的に言葉に耳を塞ぐことです。

 ぼくの家は、法政大学の近くにありますが《略》、学生のスピーカーを使っての演説がよく聞こえてきます。ぼくは、この十年間、それに付き合わされたのでした。

 言葉というものは、普通の雑音と違い、どうしても耳につきます。仕事の邪魔になって泣きたい思いをしました。ところで、あれだけ聞かされたぼくに、彼らのしゃべった言葉の中のなにが残ったでしょう。あの、例の、特異な抑揚で叫ばれる「ワレワレワー」だけです。十数年《略》こころならずも、ぼくは彼らの演説に付き合わされてしまったわけですが、あれだけの数の言葉を聞いて、ぼくの記憶に残ったのが「ワレワレワー」しかなかったとは、淋しい現実だと思いませんか。

 肉眼で聴衆の表情を見ることをせず、拡声器であてどなく声を投げた結果が、自分自身の言葉を音にしてしまい、言葉でなくさせたのです。「ワレワレ」という言葉が象徴的です。私が貴方に声をかけるのではないのです。「ワレワレ」が叫んでいるのですから、聞き取る必要はないというのでしょう。「ワレワレ」には聞き手など必要がないのです。

 マイクを通して話す人間は、聞くものの表情を見ることができません。また、自分の話しかけている人間の声を聞くことも不可能です。ハンドマイクなどが普及した結果が、聞く耳を持つ人間の消失につながったのは、ぜんぜん不思議でもなんでもありません。「ワレワレ」という叫びは、こうして、あなたと私、君とぼく、お前とおれ、といったような関係のなかに落ちてくる、沈黙を、覆いかくしてしまったのです。

 こうして、ぼくたちは音にとりかこまれていますが、言葉には出会わなくなりました。そして、その結果、沈黙に耳をすますことが必要な時代に生きねばならぬことになったのです。

 これは、そのほかの大衆運動家たちについてもいえることでしょう。彼らも喋ることばかりを考え、同時に聞き手たろうとする努力をしてきませんでした。いいぶんを通すことだけを考えて、聞くことを考えませんでした。当然、それは聞かせることを、考えないことでもありました。

 聞く人間が少なくなったとき、彼らの考えたのは、動員をかけることでした。上の方から、何人出せと指令して、聴衆を確保しようとした。自分の魅力ある言葉で、聴衆を集めよう、より沢山の大衆を引きつけよう、とはしなかった。これでは、喋るものと聞くものとの、呼吸が合うはずがありません。結局、ここでも「ワレワレ」の言葉であるスローガン選びが、重視されるばかりとなりました。路線論争なんていわれますが、論争なんてものはありません。どちらのスローガンを選択するかの、争いでしかありません。

 こうして、動員された聴衆を前に喋ることは、もはや、コミュニケーションの名には値しません。これは儀式です。内容より、順番とか、形式とかの方が重要になっていくのです。

 彼らは、動員をかけるより、彼らの話を聞きにきてくれない大衆の、無言の言葉、沈黙の表現に耳を傾けるべきであった。そうすれば、大衆から遊離することはなかった筈です。

 《略》話したがりやの大衆運動家などは、勝手に挫折感を味わわせておきましょう。

 《略》ぼくたちは、お互いの間で聞くのが下手になったばかりでなく、ニュースなどにも、実に下手な対応しか、できなくなりました。そのため、情報に支配される危険が、ますます大きいものになってきたのを感じるのです。

 《略》ぼくたちは、これからは、ただ、伝えられたニュースではなく、ニュースの伝えられない部分にまで、目と耳を向けねばなりません。まったく忙しいことになってきました。

 話すことばかりを考えすぎた現代人は、今、聞くことを学びなおさなければならないところにきています。しかし、騒音の多い現代、音に耳を向けては耳がこわれかねません。だからこそ、沈黙に耳を傾けることが、ますます必要な時代になってきた。ぼくはそう考えるのです。(一九八四年六月)
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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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