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コミュニケーションを形骸化させる「言霊」の氾濫
 もう、どうにもこうにもブログなんぞ書いている余裕がないので、また、人様がスピーカー騒音に言及している文章を紹介します。本会設立時からの会員でもある中央大学教授(フランス思想)・加賀野井秀一氏の著書『日本語の復権』(1999)から。

 本書は、日本語が本来とても「寡黙な言語」であり、しかも「甘やかされた状態」にあると分析。その状況を突破するにはどうすればよいのかという問いを立て、日本語の歴史や文法、日本人のコミュニケーションの在り方について論じています。つっても新書だからそんなに難しい本ではありません。

 その導入部で登場するのが、街中に溢れかえる紋切り型の注意放送や標語看板、そしてコンビニなどに氾濫するマニュアル敬語。ありきたりの言葉を押しつけがましく垂れ流すこれらの言葉は、過剰で冗長に感じられるもののその本質は徹底した形式性にあり、こうした呪術的な「言霊」に依存することが、日本人のコミュニケーションをますます形骸化させていると指摘しています。

──────

第一章 言霊の幸わう国

「ゆるしません白い粉」

 先ほどの《註:成田空港の》税関申告所の話にもどるが、ここで私は、おもしろい事実に気がついた。申告をする人しない人の列をしめす電光掲示板に、たとえば「みんなで退治、麻薬と拳銃」「ゆるしません白い粉」「関税申告は正確に」などの標語が、ずらりと並んでいるのである。

 これは異様なことだ。《略》

 そもそも、関税申告は正確にやるべきものであって、それをどうしてわざわざ、電光掲示板などに表示しなければならないのか。それに、「みんなで退治……」などと書いたからといって、何の役に立つのだろうか。《略》

 とどのつまり、わが国のいたるところには、肉声から文字標語にいたるまで、指図、スローガン、紋切型の表現が蔓延しているのであり、空港はただ、それを象徴的に映す日本の顔となっていたにすぎないのである。

街にあふれる言葉たち

 ことほどさように、空港から出て、都心にむかう電車にでも乗ってみれば、そうした状況はつぶさに実感されるにちがいない。駅の構内には、このたぐいの言葉が、エンドレス・テープでとびかっている。

 「○番線に電車がまいります。危ないですから黄色い線の内側までおさがりください」
 「乗り降り(いや降り乗りだった)続いてお願いいたします」
 「駆けこみ乗車は危険ですから、おやめください」

 車内に落ちついたと思ったら、待ってましたとばかりに車内放送が始まる。

 「本日は○○電車をご利用くださいまして、まことにありがとうございます」
 「この電車のとまります駅は○○、○○、○○……」
 「車内での携帯電話のご使用は、他のお客様のご迷惑になることもございますので、ご遠慮くださいますようお願いいたします」
 「つぎは○○、○○」(かならず二回くりかえし、停車の際にもまた同様)

 これに「ゆれるので注意」「忘れ物に注意」「扉に手をはさまれるな」「ホームと電車の間が広くあいている」「窓の開け閉めに協力を」「ただ今は交通安全週間」「シルバーシートをゆずれ」等々、ああしろこうしろと、親切ととなり合わせの指図が延々と続くことになる。いつだったかは、「お客様のあたたかい思いやりをお願いいたします」などというものまであった。なんと優しきわが祖国よ。

 さて、街に出れば、まだまだこんな生やさしいものではない。商店街を通れば、街灯やアーケードのあちこちにつけられたスピーカーから、たえまなく宣伝が流れてくる。ターミナルの交差点には巨大なテレビ画面が設置されているし、大型店舗は、通りにむけてひっきりなしにコマーシャル・ソングをかけている。デパートに入っても、呼び出し、宣伝、BGM。公園に逃げてみても、やはり出店のラジオ、自動販売機の合成音。あげくのはてに公園事務所からは、迷子のお知らせが流れてくる始末だ。

 家にこもって静かにしていようと思っても、そうは問屋がおろさない。チリ紙交換車、物干し竿、網戸、アイスクリーム、焼芋、パン、灯油などの販売車が、「毎度おさわがせして……」と、がなりたててゆく。学校や幼稚園からは近隣に校内放送がひびきわたり《略》、夕方になると、市区町村の防災無線が「よいこのみなさん、おうちに帰りましょう」を呼びかける。

 海辺や高原やスキー場に大自然をたずねて行っても、社寺へ静寂をもとめに行っても、やはりそこにも演歌や観光ガイドが流れていたりするのである。

 いささか話が音声言語に傾いてしまったが、文字言語にあっても事情はほとんど変わらない。《略》「とび出すな車は急にとまれない」に始まる交通標語・警察標語が、街のいたるところに貼られている。時には、「交通安全週間」ののぼりが信号機を隠してしまっていたりするほどだ。駅前のロータリーには「核兵器廃絶平和都市宣言」「正しい芽育てる親の目社会の目」などのスローガンが立ち並ぶ。

 電信柱にも、個人の家の塀にも、広報、広告、政治家のポスターがベタベタ貼られ、さらには「世界人類が平和でありますように」「天国は近づいた」などの宗教的なものまで、ミソもクソもいっしょに色彩と標語の一大交響詩をかなでているのである。

 五七調・七五調がこの詩の主流となっているところからすれば、伝統のリズムは健在とも言えようが、おかしな日本語は加速度的にふえている。「お待たせ申し上げました」「発車をいたします」「○○様、おりましたら、事務室までおいでください」「本日はお休みをいただいております」「だれでもお気軽にご利用できます」

言霊の幸わう国

 数年の海外生活の後、こうした音声言語・文字言語がとびかう空間のなかに久々に身をおくと、いかにもわが国は──ロラン・バルトが言ったように──「象徴の帝国」であり、「言霊の幸わう国」であることが実感されるようになる。《略》

 ひとたび言葉に出して言われたことは、それ自身が独立した存在となり、現実を左右する。そんな言霊を信じるどこかの迷信家が「世界人類が平和でありますように」という標語を家の塀に貼ったからといって、何の役に立つのかと人は問うかもしれない。だが、交通安全週間に、かなりの血税を遣ってセスナ機をとばし、地上に向けて「シートベルトを締めましょう」などとやるお役所の発想は、これとどうちがうのか。はっきり説明するのはむずかしかろう。

 セスナ機からのアナウンスは、車の中ではほとんど聞きとれない。たとえ聞きとれたとしても、それによって、あわててシートベルトを締めるような人がいるなどと、本気でお役所は考えているのだろうか。あまりのばかばかしさに、私はしばしば該当部署に苦情電話をいれる。だが、答えはいつも、判で押したように決まっているのである。

 まず、「そんなことを言うのはあなただけです」と少数者排除の姿勢。つぎは、「お説はわかりますが、これを望んでいる方々もいらっしゃいますので」と相対化の反論。では、だれが望んでいるのか、という具体的な問いには答えない。さらに、これは自宅にいる人たちにも向けられた呼びかけなので……、というようなことをも弁じたてる。しかし、車を使わない者だってたくさんいるが、と切り返せば、一般のモラル向上のために、などと言いだす始末。どうにも話にならないので、最後に、セスナ機にかかる税金の額からみたコスト・パフォーマンスについてたずねると、ようやく彼らも歩み寄りの姿勢をしめすとともに、これが有効であることを「確信している」とか「よろしくご理解を」とか、ほとんど理屈にもならない表現でしめくくられることになる。

 こうした応答には一貫して、責任ある役所や血のかよった個人の言葉は見あたらない。そこでは、合理的な議論を避ける不思議な「確信」がすべてを支配し、実効さえ考えぬままに、ひたすらスローガンを唱えさせているのである。一種の呪術、祈願、現代の「雨乞い」、これを言霊と呼ばずして、何と言おう。《略》

言霊には逆らえない

 そのうえ、言霊には霊力があって、反対意見を出しにくくさせる。かつて、一億一心が火の玉になっている時に、わが国の敗戦を予測するものがいれば、それはすぐさま国賊よばわりされ、やがて敗戦の際には、おまえが縁起でもないことを言うから負けてしまったじゃないかと屁理屈をこねられたという。《略》

 言霊信仰は、気にくわない予測は認めたがらないし、布教の方法に異を唱える者は、教えそのものに反対する者だとみなす傾きがある。チリ紙交換車がうるさい、と言えば、リサイクルに理解のない人間であるとされてしまう。だから、だれもが、あえて異を唱えようとはしなくなり、状況の冷静な分析は、なおざりにされるのである。

 選挙運動での連呼にしたところで、ほとんどの人は内容空疎なものと思っていながら、それを黙認しているのは、「言論の自由」というまことしやかな言霊に反対していると見られたくないからにちがいない。同様にして、「平和」「民主主義」「青少年の健全育成」「思いやり」などといった大義名分は、手垢のついた貨幣のように人口に膾炙し、その実、だれもが毒にも薬にもならないお題目として、右の耳から左の耳へと素通りさせてしまっているのである。こうして、あたりにとびかう言語については、たかがアナウンス、たかが言葉、と見すごしてしまうのだが、思えば危険なことではあるだろう。《略》

巧言令色すくなし仁

 デパートのエスカレーターのところに流れているあの「お子様は手をつないで中央に……」というアナウンスもまた、いかにも客の身を案じる措置のように見えながら、実際はデパート側の、安全管理をしているというアリバイ工作の一環をなしてもいる。こんなふうに書くと、読者のみなさんは、私が意地の悪い見方をしているように思われるかもしれないが、実のところ、これはさるデパートの管理部長さんから直接聞いた話なのである。

 「いやあ、あれが要らないということは、私どもにも重々わかってはいるんですがね。流しておかないと、万一事故がおこった場合に、こちらの責任が問われるんですよ」

 同じ事情は、駅の構内放送にも、市区町村や警察の広報にも、おそらくあるにちがいない。つまり、おためごかしの自己保身、心のこもらぬ形式性といったものが生じる素地は十分にあるわけだ。《略》

ソフトな管理のメカニズム

 さて、こうした安全対策や広報の領域でこそ、言霊の機能は存分に発揮されることになる。ここにおいて言葉は、多くの場合、「~しましょう」というソフトな管理の姿勢をとってくる。いわく、「投票に出かけましょう」「シートベルトを締めましょう」。為政者や管理者のこのような物言いは、そのまま、教育者のものでもある。「みなさんはしっかり勉強して、りっぱな大人になりましょう」「先生の言うことをよく聞きましょう」。やがてこのスタイルは、社会生活のすみずみにまで反映されてゆく。「ゴミは決められた日に出しましょう」「芝生に立ち入らないようにしましょう」云々。これはまた先ほどの「今は~の時代と言われている」などと同じく、誰が言っているのかわからないままに、かなりの力で、わが同胞の行動を規制しているように思われる。《略》

なぜ日本語だけが形骸化するのか

 今日もまた、近所のコンビニエンス・ストアでは、店内放送で紋切型の言語がとびかい、むっつりと押し黙った人々がレジに列をつくっている。レジ嬢は、まるでロボットか自動販売機であるかのように、かん高い声でマニュアル言語・マニュアル敬語を連発する。この間、客の男の子は、小型のヘッドホンをつけたまま、終始無言。商品を投げるようにしてカウンターに置くだけで、やがて、つり銭をポケットに入れ、表情ひとつ変えずに店をあとにするのである。これまたロボットみたい。《略》

 では、なぜ日本人や日本語だけが、こうした情報化社会のなかで寡黙になっていったり、マニュアル化に拍車をかけたりするのであろうか。それは以下の章で、少しずつ明らかにしていくつもりだが、まずは、日本語が本来非常に寡黙な言語であったことから語りはじめることにしよう。
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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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