日常の生活圏から荒廃していくこの国の景観
 前回のエントリー「JR東日本のトイレットペーパーと日本の景観」の続き。今回もだらだらした、牛のよだれのような、まとまりのない内容になるんじゃないかと思います。

 さて、上記のエントリーで、

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 景観の問題と一口に言うけれど、それにはどんな要素があるのか。箇条書きにすればこうなります。

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール
 など。

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 と書きました。同時に〈(これまでこのブログで)景観についてほとんど書かなかった理由は「騒音は耳を塞いでも防ぐことができない。でも、視覚の問題は目をそらしたりすれば意識から排除することもできる」という、じつに単純な違いがあるから〉とも書きました。

 もちろん、「わしゃ音よりも景観のほうがよほど気になるわい」という人がいてもいいわけで、その一人が東京大学大学院教授(社会経済学)の松原隆一郎氏です。
 松原氏は経済学の教授にして格闘家という異色の学者(総合格闘技団体「大道塾」師範代でもあるらしい)で、私も格闘技雑誌で文章を読んだことはあるのですが、景観について何冊も本を書いている方だとは、ごく最近まで知りませんでした。

 松原氏の景観に関する著書『失われた景観―戦後日本が築いたもの』(2002年)は、こんな導入部から始まります。いきなりですが長々と紹介。

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序章 生活圏における景観荒廃

生活圏の景観問題

 日本における景観の荒廃について考えてみたい。

 とはいえ日本の景観が「荒廃」しているというだけで、いきなり反論が返ってくるかもしれない。事実として荒廃などしていないではないか、という反論である。ゴミは放置されていないし、新しい看板など整然と並んでいる、駅前の再開発はそれなりに進んでいるではないか、と。けれども私は、清潔で新しくはあっても秩序のないことにかけてこれほど突出している景観を持つ国は、世界に類を見ないと感じている。そもそもそうした感覚、つまり景観が荒廃しているという共通の認識がないことじたいについても、絶望的な気分にさせられてしまう。それゆえ景観にかんする考察は、まずは私感から始めるしかない。《中略》

 私はこの頃、自宅周辺を散歩するたびに憂鬱な気分になる。一番気鬱なのは、蜘蛛の巣のように張りつめ、空を覆う電線である。小学校の頃、校庭に寝ころぶと青空は大きく広がり、不安や希望をかき立てられた。その空が今では、電線によって幾つもの区画に切り取られている。不安も希望も、電線のせいで縮んでしまった。高い樹木にしても、空に届かんばかりにそびえるというよりは、電線に絡まりながら窮屈そうにしているように見える。《中略》ああした電線群を見るたびに、目の辺りが不快になりイライラしてしまう。

 近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている。駅におけるアナウンスが無益な過剰サービスだ、役所が子供向けに流す「夕焼け子やけ」も余計なお世話だ、商店の呼び込み音楽は騒音公害だ、といった主張である。私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。ただ、騒音を拒否する主張が、あくまで生活環境の中での実感にもとづいて唱えられていることには好感をもつ。

 景観をめぐる対立についても、近年しばしば耳にするようになった。マンション建設に反対する運動が全国で頻発しているのである。ところがそういった対立で損なわれると公認された景観はというと、歴史的建築物や伝統的な街並み、自然環境のそれが中心である。もちろん私も歴史的建造物が廃棄されず、ビルの高さに制限があり、自然環境が守られるのには賛成である。《中略》しかしそれと同時に、いや利己心の告白を許されるならそれ以上に、自分の生活圏で日々出会う景観の荒廃の方に目が向いてしまうのだ。というのもそうした景観問題が強調されればされるほど、朝晩の通勤途中でちょっと眺めて心和むような樹木が年々電線に覆われていくことには、議論は及ばなくなる。散歩の途上、見やるのが好きな山並みが醜いマンションで浸食されることに対する憤りのやり場がなくなる。歴史的建造物にせよ都心の眺めにせよ自然環境にせよ、日々の暮らしの中で我々が体験するものとは切り離されて論じられている。《中略》

景観私感

 景観に対しての私の感じる苛立ちについて、もう少し続けさせていただきたい。ある地方都市に、空路で行ったときの話である。空港は郊外にあり、中心地区に向けてタクシーで走ると、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。沿道の景観が東京郊外のそれと酷似していたからだ。ラーメン店のけばけばしい景観、全国展開しているガソリン会社のスタンド、中古車の販売所。それらは日頃東京に住んでいて見慣れた光景であり、だからこそ身体を動かして地方にやってきたという疲労感が視覚とズレてしまう。《中略》

 地方といえば、観光地の景観にも悲惨なものがある。車で行く場合にとりわけ気になるのが、看板だ。《中略》否応なく看板の字が目に飛び込んでくるのである。《中略》せめて看板のデザインくらいは、ただ目立つものではなく、土地土地の風土に合わせる工夫ができないものだろうか。

 《中略》さらにいおう。東京の住宅地では古い住宅が突然更地となり、マンションや建売住宅に建て替えられるというのは日常茶飯事である。《中略》一律に旧家の建て替えが悪いとは言いようがない。けれども、消失することにより町の印象が一変してしまう、「臍」のような家屋が存在するのも事実なのである。そうした家が何の前触れもなく消え去ると、過去との時間の連続が切れたように感じてしまうのだ。生活圏における景観がいかに移ろいやすく保ちがたいかを、如実に示す例であろう。

 視野を電線で区切られず、そぐわぬペンキを塗られず、景観により自分の居場所が分かり、せめて旅先では看板の洪水にみまわれず、暮らしている町では過去との連続を実感していたい──私が景観に望むのは、そうした些細なことである。それは私にとっては心身の健全さにかかわることと思えるのだが、それが世の共感を得られぬ望みであるのか、贅沢にすぎる願いであるのかは、よく分からない。ともあれ私が「景観が崩壊しつつある」というときに想定しているのは、もっぱらこうした生活圏における景観の変化と、それから体感される不快感のことなのである。少なくとも私の身体は、それを不快と感じるのだ。

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 本書はこの後、四つのケーススタディー(「均質化する郊外の風景」、「山を切り崩し海を埋め立てる経済優先政策で荒廃する神戸市の景観」、「全国でも珍しい条例“美の基準”を制定した神奈川県真鶴町の理想と現実」、「電線の地中化問題」)を取り上げて、日本の景観について論じています。

 さて、紹介した「序章」に〈近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている。《中略》私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。ただ、騒音を拒否する主張が、あくまで生活環境の中での実感にもとづいて唱えられていることには好感をもつ。〉とあり、巻末の参考文献に中島義道氏の『うるさい日本の私』も挙げられていることから、松原氏は「静かな街を考える会」の存在や拡声器騒音の問題点をある程度理解した上で、このように書かれているようです。

 もちろん、人それぞれ感受性に違いがあって当然なのだから、松原氏が〈私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。〉と言うのはまったくかまわない。
 「駅のアナウンスも夕焼け小焼けも呼び込みの音楽もいいことじゃないか!」と、(圧倒的多数の音に鈍感な人たちのように)騒音を擁護されると困ってしまいますが、氏の言うとおり〈生活環境の中での実感にもとづいて〉考えていけば、多少、ベクトルの違いはあっても、この国の景観と拡声器音の両方に「ちょっと汚すぎる(うるさすぎる)んじゃないか」という問題意識が芽生えるのは当たり前のはずだからです(「はず」なのに、な~んにも感じない人たちばかりであること、何よりもそこが問題なのですが)。

 その上で、松原氏が本書(他の景観に関する著書でも)で述べている景観論と、(あくまでも)私個人の景観に対する不快感には、小さいようでそれなりに大きい開きがあるもんだなあ、やっぱり人間いろいろだなあ──と、まあ、そんなふうに感じることを、これからうだうだ書いていこうと思っています。

 まず、序章には〈近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている〉とあるのですが、これ、全然高まってなんかないっすよ。この本が出版された02年の時点を振り返っても、「いずれは拡声器騒音が減るんじゃいないか」と希望が持てる、夢のような「高まり」があったとはとても思えません。
 むしろ氏も書かれているように「歴史的建造物を守ろう」「伝統的な街並みを保存しよう」などと、景観に関する意識のほうは(「歴史建築物を保存して観光客を呼ぶ」というカネ目当てであっても)多少なりとも広まっているのに、拡声器騒音についての人々の意識は年々鈍感になっていくばかりです。
 でなければ、駅に駅メロという名の騒音が氾濫し、繁華街といえば街頭ビジョンだらけになり、アドトラックが我が物顔で走り回る国になるわけがない。

 例の新国立競技場の問題にしても、エンブレムがどうしたとかくだらない話題に埋もれたのかもしれませんが、そもそも競技場のデザイン自体がよくないとか、周囲の景観に与える影響が大きすぎる、という論点があったはずです。
 ところが、拡声器騒音についてこうした指摘をする人は、あいかわらずほとんど現れません。繁華街で早朝から深夜まで街頭ビジョンが轟いたり、家のすぐ横で大音量の防災無線が鳴り響いたりする異様な音環境について、そこで働いたり住んだりしている人ですら「おかしい」「いいかげんにしろ」「も~やめて!」(懐かしの横山弁護士)と言わないのです。
 拡声器騒音問題より景観問題のほうが、まだしも世間に認知されているとしか思えない。なんとも複雑な気持ちにさせられます。

 ただ、景観の問題が認知されていると言っても、それはごく一部を対象にしたものでしかないのも事実でしょう。
 前回のエントリーで〈一般に、多くの人が「景観を守ろう」「美しい風景を残そう」と言い始めるのは、「由緒ある神社の横に高層マンションを建てるな!」「自然豊かなこの川にダムは必要ない!」などという、じつにわかりやすい問題が持ち上がったときだけです。〉と書きましたが、僭越ながら松原氏も「日常の景観が荒廃しているという共通の認識がない」と、同じように嘆いているわけです。

 ところが、ここから先に私と松原氏でちょっと違う点がある。氏が本書で主に取り上げている日常景観の問題は、私が挙げた「要素」に当てはめると、

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙

 に、ほぼ絞られているようです。その他の要素、

●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール

 については、他の著書も含めてそれほど言及していません。
 このうち「政治家のポスター」と「ガードレール」はとりあえず省いておきますが、注意・道徳・スローガンを押しつけてくる看板、のぼり、垂れ幕、ポスターや貼り紙などについて、松原氏はあまり「見苦しい!」と気にしてはいないようなのです。
 どうしても、ここがもやもやしてしまう。

 注意・道徳・スローガンの看板の話がほとんど出てこない理由は、どうやら氏が社会経済学者で、景観の問題を論じるにもその観点から分析することに焦点を当てているからのようです。
 郊外の景観が均質化し汚らしくなるのは、人口分布の変化やフランチャイズ制というビジネスの手法が広がったから。(氏の出身地である)神戸の街が醜く変貌したのは、経済発展を何より優先する市の姿勢に問題があるから。真鶴町が制定した「美の基準」が機能しないのは、開発を進めたい不動産業者の反発や制度上の難しさがあるから。電線を地中化できないのは、コストを理由に国や地方自治体、電力会社が工夫を怠っているから。
 まあ、乱暴にまとめればそんな分析が主となっています。もちろん、もやもやすると言いつつも、これらの指摘は頷けるものばかりですが。

 ところで、ひとまず「もやもや」は置いといて、松原氏が指すような(もちろん私も同様に思う、そして多くの人は何も感じていない)「日常の生活圏における景観の荒廃」とは、具体的にどのような風景のことなのか。
 数カ月前、仕事でJR横浜線中山駅に降りたとき、「きったねえええええ!」とのけぞって思わず撮影した駅前商店街の写真があります。

JR横浜線中山駅南口商店街.jpg

 この景観がどれほど醜いか(醜いと思いませんかねえ?)──という話から、こんなブログを読む人なんかいないだろうなと思いつつ、次回に続きます。
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■プロフィール

Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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