日本の社会は「いらない日本語」ばかりだだ漏れだ
 また、人様の発言の尻馬に乗ったエントリーです。

 不遜な言い方ですが、たまに「これ、おれが書いたんじゃねえか?」と思ってしまう本があります。今回、紹介するのもそんな一冊。『大切なことば、いらない日本語』(2002年)という本です。

 著者の鷲見徹也氏は略歴によると、共同通信社ニューヨーク特派員・大阪支社文化部長・編集委員・福井支局長、横浜国立大学講師などを歴任した方だそう(過去形でいいのかよくわからん)。
 この本は冒頭の「恐怖の絶叫床屋」のエピソードから始まり、日本中に溢れる(スピーカーか肉声かを問わず)空疎な大声や、上滑りしているだけの看板・貼り紙の言葉などについて、「思考力が枯渇している」「言葉が独り歩きし過ぎてすり切れてしまっている」「自閉した詩人が多いようだ」と皮肉たっぷりに活写しています。

 でも、この本の内容を読んで「確かにそうだよなあ」と思う人は、きっと日本人の1%にも満たないでしょう。残りの99%は「大きな声で元気がいいじゃないか!」「いろいろ注意してくれてるんだから、ありがたいことでしょ!」などという人ばかり。

 私はつくづく思うのですが、たとえばそろそろラーメン屋に行くと「わりばしは中心付近をを両手で持ち、左右に引いてお割りください。先端のほうをお持ちになるときれいに割れず、ささくれができるなどして危険な場合がありますのでご注意ください。また、当店の料理はできたてをご提供しておりますので熱い場合がございます。お召し上がりの際は必ずお箸で麺をつかんで持ち上げ、しばらく冷ましてからお口に運んでいただきますようお願いいたします。また……なお……さらに……」なんてアナウンスが流れるようになるんじゃないですかね。
 今だって、ほとんどそれに近いご注意、お願い、ああしましょうこうしましょうの放送ばかり聞かされる(&貼り紙や看板ばかり見せつけられる)毎日なんだから。
 でも、そんな、壊れた水洗便所のような「だだ漏れの言葉」をありがたがる人ばかりじゃ、もうどうしようもない。

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 第1章 媚びる店員、無関心な客

 異様な声出し集団

 朝、十時の開店時にデパートの前を通ると、店長らしき中年の男性を先頭に、入口の両側に店員がずらっと並んで「いらっしゃいませ!」とやっている。実に日本的な光景だ。

 私は、こうした儀礼的なあいさつで迎えられるのはあまり好きではない。《中略》

 だが、世の中の大半の人は、人に頭を下げられるのが大好きだ。だから、こうして迎えてもらうと、いたく快感を覚えるのだろう。《中略》

 組織やグループの成員が、いっせいに声を張り上げるというのは、決して珍しいことではない。《中略》しかし、組織のメンバーでもない客や第三者に向かって声を上げるなどというのは、日本のサービス業ぐらいなものではないだろうか。

 大阪の、ある理髪店でびっくりしたことがある。店に入ると十人ほどの従業員がいっせいに「いらっしゃいませ!」と声を張り上げた。まあ、これはよくあることだからいい。ところが案内された席に座って驚いた。「髪をカットします!」という大きな声が耳元で聞こえてくる。すると、それに合わせて、ほかの従業員のほうからも、「お願いします!」「お願いしまーす!」という声が大音量で響いてきたのである。《中略》

 「髪をカットします!」などと大きな声を張り上げて、何になるのか。いったい何の確認か。たかが髪を切るぐらいのことで、そんなに力むこともあるまい。ましてや、店のほかの人たちが「お願いします!」などとやる意味はどこにあるのだろう。客の髪をカットするのは自分の仕事だろうに。どうしてほかの従業員が客に代わってお願いしたり、同僚にお願いされたりしなければならないのか。全くもって不思議でならない。

 それはともかく、ヘアカットを終えると今度はわが耳元で「シャンプーします!」という気合いが入った声が聞こえてきた。すると、それに合わせて従業員ご一同さまが、あちこちから「お願いします!」「お願いしまあーす!」「お願いします!」。

 何だ、何だ、これは。うるさいといったらない。正気の沙汰だとはとても思えない。いったい自分はどこに足を踏み入れたのか。ここは理髪店ではなかったのか。それとも、どこぞのカルト集団に迷いこんだのか。一瞬、不安になってくる。

 絶叫はまだまだ続く。こんなものでは終わらない。気がついたら“声出し”は、私にだけでなく、すべての客の、すべての作業ごとにやっているのだ。
「××します!」「お願いします!」。「○○します!」「お願いしまあーす!」。そして、客の出入りに合わせて、「いらっしゃいませ!」と「ありがとうございました!」が加わる。

 《中略》もう、絶え間なくこのくり返し。頭がくらくらしてくる。《中略》

 さすがにシャンプーが終わったところで、店の人に聞いてみた。

「この店では、いちいち何をしますだの、お願いしますなどと気合いや号令をかけているけれど、ひょっとすると店のオーナーは警察とか自衛隊の出身じゃないの?」と。

 すると彼はこう言ったのだ。「え、そうなんですか? 全然知らなかったですね」

 これはだめだ。わかっていないどころか、話が通じない。日々、鳴り響くコーラスの中で、そうでなくても乏しい思考力が、完全に枯渇してしまったとしか思えない。

 過剰な注意書き、おせっかいな放送

 どうもこの国では、他人に対する親切と、おせっかいの区別がつかない人が多いようだ。日本の社会は「余計なお世話」が多過ぎる。

 久しぶりに年次休暇をとって平日に、低い山へハイキングに行った。私鉄の駅に降り立ったら、駅構内に「登山者のみなさんへ」という呼びかけではじまる地元警察の看板が立っている。その一番目に書いてある注意書きを読んであきれてしまった。なんと、のっけから「単独登山はやめましょう」とあるのだ。

 これはいったい、どういう神経だろうか。《中略》こちらは、学生時代、ワンダーフォーゲル部に入っていたから、曲がりなりにも山の怖さは知っている。《中略》だいたい山というものは、グループで登れば即、安全というものでもない。《中略》むしろ、自立していない人ばかりでグループを組んで山に登るほうが、単独行よりもはるかに危険である。《中略》

「単独登山はやめましょう」という注意書きに欠けているのは、多少の危険はあっても人はだれでも自己責任のもとに行動すべきであるという発想だ。《中略》

 つまり、この看板には、相手を一人前の人間として見る視点が完全に欠落しているのである。裏返して言えば「あなたは責任を取れない人間だから、登るのはやめなさい」と言っているのと同じなのだ。要するに子ども扱い。だから、本当は、成熟した人間に対してはきわめて失礼な看板なのである。

 こうした発想は、日本の社会のありとあらゆるところに見られる。地下街を歩けば「キャッチセールスに声をかけられても無視しましょう。○○警察署」。

 《中略》駅をはじめ、電車の中や駅ビルなどでの過剰なアナウンスは、何年も前からくり返し指摘されながら、いっこうに減らない。

 あるターミナル駅のアナウンス。「エスカレーターにお乗りの際には、黄色い線の内側にお立ちください」というテープがひっきりなしに流れている。黄色い線はステップの三方の隅に塗られているから、内側にしか立てない。外側に立ちたくても、立てるわけがない。いったい、どうやったら立てるのか。そんなことは不可能だ。幼稚園児ぐらいの頭脳があれば、だれにでもわかる。だから、これは全く無駄、無意味なアナウンスである。それなのに、エンドレステープで一日中、しかも、何年もやっている。

 またいわく「お降りの際は、お忘れ物のないようお確かめください」。

「幼稚園の子どもじゃないんだ。忘れているか、いないかぐらい、自分でチェックできるよ」。私はこう、たんかをきりたくなる。

「余計なお世話だ」と駅長室にどなりこむ人が増えれば、こんなアナウンスはとっくの昔になくなっているはずだ。いっこうになくならないのは、こうしたアナウンスを変だとか、おかしいとも思わない人が大多数だからだろう。受け身で過ごすことに慣れ切っている。判断力の放棄、幼児化の極みである。

 どうかすると、このようなアナウンスを「ありがたい」とか、「親切だ」とか、「もっと、やってほしい」と言う人たちがいる。そうした電話や投書が、駅やJR各社に数多く寄せられるのだという。何でも他人まかせ、自立心がないことを恥ずかしいとも思わない。だから、過剰な拡声器騒音はいつまでたってもなくならない。

 JRが、かつて国鉄と呼ばれていた時代のこと。節分の日の朝、山手線に乗っていたら車掌いわく「今日は節分の日です。早く帰って豆まきなどしてはいかがでしょうか」。《中略》

 これを「余計なお世話」と言わずして何と言おう。これ以上の「余計なお世話」はあるだろうか。早く帰りたくても、夜勤の人だっているだろう。豆まきなんか、やらない人がいてもおかしくない。そうした想像力のかけらもないのだ。不思議でならない。

 今でもローカル線などで、沿線の観光案内を自主的にやる車掌を「親切車掌」とか「名物車掌」とか言ってもてはやす。でも、冗談も休み休みにしてほしい。列車に乗るのはなにも観光客ばかりではないはずだ。病の床にいる親元に急ぐ人もいるだろう。女に振られて、心を癒す旅に出ている男もいるかもしれない。これから駆け落ちするカップルや、このご時世だから、家業が傾いて夜逃げしようとする人だっているに違いない。

 人生、人さまざま。だからこそ、この世は面白い。それを知らずして、列車に乗ったからといって、「進行方向、右側に見えますのは……」などとやられたら、たまらない。

 レジ言語神経症

 スーパーに行くと、レジの人が口にする言葉が気になって仕方がない。《中略》

 だいたい、千五十円の買い物の際、千百円出すと「千百円から、お預かりします」と言われる。

 まず「千百円から」の「から」って何だろう。「から」はものごとの起点を表す。千百円は起点だとして、はたして何の意味があるのか。なぜ「千百円、お預かりします」ではいけないのか。

 それに「お預かりします」は、おかしいではないか。「預かる」という言葉は、「自分のものではないけれど、とりあえず受け取って保管しておく」という意味だ。《中略》

 それだけならまだしも、次がある。今度は「レシートをお返しします」とくる。不思議な表現だ。これも、おかしい。こちらは、ますます不愉快になる。

 「お返しする」というのは、もともと所有権がこちらにあって、それを返すということである。だいたい、もらう前はこちらに所有権はない。あれは店がくれるものだ。所有権はもらった後でしか発生しない。だから「レシートを差し上げます」でなければならない。それなのに、なぜ「お返しします」なのか。《中略》

 こんな疑問を、スーパーの店員にぶつけてみても、たぶんまともな回答は返ってこないに違いない。《中略》

 となると、相手に期待して「レジ言語神経症」を治そうと思っても無理だ。ここは自力で治すしかない。

 そこで思いついたのだが、「千百円から、お預かりします」も「レシートをお返しします」も、表現を柔らかくする一種の婉曲表現なのではないかということだ。つまり「(あなたが出した千百円の中から)千五十円いただきます」「レシートを差し上げます」ではどうも直接的なので、それを避けた表現というわけだ。

 それにしても、客に対してずいぶん媚びたものの言い方ではないだろうか。そもそも、対等な関係で物を売り買いするのに、なにも必要以上に婉曲表現で言い表す必要はない。「千五十円いただきます」「レシートを差し上げます」で十分なはずである。別に文句をつける客はいないだろう。いるはずがない。それなのに、言葉に過剰なクッションを付ける。婉曲表現がいつの間にか独り歩きしている。歩き過ぎて言葉がすり切れてしまっている。

 第4章 コミュニケーションの秘訣は距離のとり方

 張り紙にもお国柄

 駅や公共の場所に張られているポスターやメッセージには、張る側と、それを見る側の客や利用者との距離感がさまざまに表れている。国や文化によっても、その表現が違うのが面白い。《中略》

 ニューヨークでは、市の注意書きも「○○することは、ニューヨーク市条例の第××条により禁止されています」と法的な裏づけがはっきり書かれている。法的根拠が明確でない日本の「当局のお達しにより」などとはだいぶ違う。

 言ってみれば日本の社会は「情感アピール型」である。注意書きを書いた人間と、それを見る側の距離のとり方が情緒的だと言っていいだろう。たとえばある地下鉄駅のトイレ。洗面台の下の張り紙に「いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます」とある。特別、皆がきれいに使っているようには見えない。《中略》

 一方で、特定の個人、つまりトイレを汚す人たちに対しては、何も語っていないし、呼びかけてもいない。まるで、トイレを汚す人なんかいないかのような装い方である。《中略》

 ところで、日本の社会は全く無意味な注意書き、看板が多過ぎる。「落石注意!」にはじまって「犯罪のない明るい町にしましょう。××町内会」といった看板の類だ。電柱に取り付けられた「みんなの力できれいな街に! ○○商店街」などと書かれたのぼりは、およそ美意識に欠けていて、ないほうがよっぽどいい。

「犯罪のない明るい町にしましょう」といった看板なんて、皆に何かを言っているようで、実はだれにも、何も言っていない。優しい呼びかけではあるが、具体的なメッセージは何もないに等しいのである。だいたい、この看板を見れば、町内の家に泥棒に入ろうとしている男は思いとどまるとでも思っているのだろうか。自分の町内で犯罪が起きなければ、隣の町で犯罪が起きようと構わないということか。

 要するに独り言と同じ。言葉がだれにも届いていないのだ。無意味にして無駄。それなのに、あの町、この町で、今日もだれかがだれにも届かない言葉を書き連ねている。日本の社会は、自閉した「詩人」がよほど多いに違いない。

 第5章 これでも日本語のつもり

 コインロッカーに「死体は入れないで」

 最寄り駅の構内に、コインロッカーが設置された。《中略》ボックスの扉に張られている「コインロッカー使用にあたっての約款」という紙を何気なく読んでみたら、吹き出しそうになった。「入れてはいけないもの」のなかに、現金、有価証券、貴金属、書画、カメラなどの「貴重品」、当人にとって大切な「書類」「資料」と並んで、なんと「死体」まで書いてあるのだ。

「貴重品」や「書類」「資料」は、まあわかる。《中略》「なくなった」とクレームをつけられても困るから、はじめから「入れてはいけないもの」としている。

 それでは「死体」はどうだろうか。「コインロッカーに入れておいた死体がなくなった」とクレームをつけられても困る。そんなもの、だれも責任を取れない。こればかりは、別のもので我慢してもらうというわけにはいかない。そこで、「入れてはいけないもの」のなかに「死体」と書いたのだろうか。そんなわけはない。ところが、現実はそうなっているのだ。《中略》

 でもこの項目はどこかおかしい。それは、この約款を作った人は、現金とか、カメラとかの「貴重品」と「死体」を同列に見ていることだ。つまり「死体」を単なる「モノ」としか見ていない。「死体」というものの本来の意味を見事にはぎとっている。《中略》だから、この約款に書かれている「死体」という言葉には全くリアリティーが感じられない。《中略》

「貴重品」のほうは、「入れるな」と書かれていても、何かの都合で入れておきたい人や入れざるを得ない人はいるだろう。こちらは「入れてはいけないもの」のなかに列挙されているのだから、万一、鍵を落としてロッカーに入れたものを盗まれたりしたら、自分で責任を取ればいい。

 だが問題は「死体」のほうだ。たとえ「入れるな」と書かれていなくても、普通の人はまず入れない。たとえ入れてみたくても、好奇心がいくら旺盛でも、たいてい、そんな手持ちがない。

 人を殺してしまったため、どうしても入れなければならない人、つまり百万人に三人ぐらいの人は、いざとなったら小さな字で書いてある約款なんかをじっくり読んでいるひまはない。もとより、そんな心のゆとりはないだろう。だから、「入れてはいけないもの」のひとつとして書かれてあっても、必要とあれば入れざるを得ない。

 つまり、どちらにしても「入れてはいけないもの」のひとつとして「死体」と記すのは無意味なのである。だが、この約款を作った人は、そのへんのところがごっちゃになっている。

 この約款を作った人は、「入れてはいけないもの」のなかに「死体」と書いておけば、それだけで何かの抑止力になっていると考えている。「そうか、このコインロッカーには死体を入れてはいけないのか。それでは、別の駅で当たってみよう」とか、「仕方がないから、この際、コインロッカーはあきらめて、車で郊外の林に捨てに行こう」とか、考えをあらためさせる力を持っていると確信しているのである。《中略》

 と、ここまで約款の「死体」に対して思いを至らせたところで、約款を作った人はいったい、どんなことを考えているのか知りたくなって、コインロッカーを管理している会社に電話をしてみた。

「約款を読んでいたら、入れてはいけないものに『死体』と書いてありますが、たとえこんなこと書いてなくても死体なんて入れる人はいないと思うし、入れる人は、書いてあっても入れるんじゃないですか?」と。

 すると、電話の向こうから穏やかな担当者の説明が聞こえてきた。

「コインロッカーの約款というのは、管理している会社によって、預かり期間とか少しは独自性があるんですが、でも、だいたい決まりというか、定型がありましてね。そうですか、ウチの約款に『死体』と書いてありましたか。実は私、読んでないんで気がつきませんでした」

 たぶん、よその定型を借りてきてそのまま印刷したのだろう。「死体」という、ある意味で最もリアリティーに富んだ言葉が書かれていながら、当事者がその言葉の存在に全く気づいていない。約款にはずらずらと文字が連ねてあるものの、要するにそのすべては意味がないのだ。きっと、約款はコインロッカーの単なる守り札でしかないのだろう。内容はどうでもいいのだ。

 第6章 納得していなくても平気で言えるのはなぜ?

 プライバシーを守れない「声」

 日本人の場合は、空間距離を、大きな声を出すことで縮めるという特徴がある。《中略》

 自分の家のように、プライベートな場所でなら大きな声で呼び合ってもいっこうに構わない。しかし、公共の場所では、大きな声を出すことで相手との距離を縮めようとするのは、きわめて不作法なことだ。そういうことを、日本では、家庭でも、学校でも、どこでも教えない。だから夏休みなど、ホテルのロビーで、親が子どもを呼ぶ大きな声が響きわたる。

 外国に行っても同じこと。ニューヨークのホテルのロビーや空港で「社長! 社長! こっちですよ!」などと、大きな声で叫ぶ日本人の声を何度聞いたことか。ほかの人たちが顔をしかめているのに気がつかない。

 公共の場所で遠くから人に声をかけることは不作法であることを知らない人が多いせいか、銀行などでも「案内」と書かれた腕章を着けた行員が、ATMに歩み寄る客に対してだいぶ離れたところから「いらっしゃいませ!」とやっている。客としてきちんと遇するつもりなら、本来、ドアの近くで相手の顔を見ながら、声をかけるべきなのだ。

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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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