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「日本人の行動様式」とスピーカー騒音
 日本人論や日本文化論などの本を読んで、スピーカー騒音や過剰な接客、標語看板の氾濫をはじめとする景観の問題に関する記述があると紹介しています。

 今回は荒木博之『日本人の行動様式』(1973年)という本。著者は広島大学教授(当時)で専門は民俗学。以下に紹介するような、日常の至る所で出くわすエピソードを積み上げて、日本人の特性は〈他律性〉と〈類型化〉にあるのではないかと分析しています。

 本書はおそらく、日本のスピーカー騒音について本格的に言及した最も初期のものだと思います。それから40年以上。ここに書かれた状況が何一つ変わっていないこと、そもそもいつまで経っても、拡声器でがなり立てる声や音楽がそこら中に轟くこの国の異様な光景に、なんの疑問も抱かない人々ばかりという現実には、今さらながら涙がちょちょ切れてしまいます。

 荒木氏はその後の著書でも、日本人の心情や行動を分析するにあたって、スピーカー騒音についてたびたび触れているのですが、まずはこの一冊から。

──────

 私はひところ高知と松山の間の国鉄バスを利用することが多くあった。

 《中略》私はこのバスの旅を重ねているうちに旅行者たちに共通するひとつのパターンというべきものに気がつき始めたのである。旅行者たちが窓外に目を向けるのは、極端ないい方をするならばバスの車掌が窓外の景観について独特の説明を始めるときに限られていた。「右手をご覧ください」といえば右を向く。「左手をご覧ください」といえば左を向く。「あれは見残しの滝でございます」といえば、一様に身を乗り出して感嘆久しゅうする。あとの時間はみな申し合わせたように眠っているか、週刊誌を読んでいるかのどちらかであった。

………………

 このバスガイドなるシステムはおそらく日本独特のものである。欧米にもガイド的職業はあることはあるが、その仕事は通訳のそれが主たるものであり、日本におけるように制服を着用したバスガイドが、沿線の風物、名所旧跡について延々と用意したテキストを笑顔とともに諳んじてみせるといった例はちょっとない。ロサンゼルスで乗った市内観光のバスなどは運転手がガイドを兼ねていて、そのガイドぶりも目的地にそれぞれ着いたところで、ここはどこどこである、ここでは何分間の時間が与えられるといったことをほんのおざなりに二言三言ぶっきら棒にいうだけであった。

 《中略》この東西の差ははたして、単なる親切、不親切といった対比だけですますことができるのであろうか。自分勝手に見て来いというのは、自分勝手に見て来るのが好きな旅行者を前提としているからではないのか。長たらしいテキストを暗誦してみせるならば、「よけいなおせっかいはやめてくれ」と腹を立てかねない旅行者を相手にしているからではないのか。

 とするならば、このアメリカのガイドも決して不親切という一言できめつけてしまうことはできなくなってくる。彼らはただ客の要望に従って行動しているにすぎないのかもしれないからである。

 同じように日本のバスガイドのいたれりつくせりの案内ぶりを、親切という概念であっさりと片づけてしまうことにも問題があるのではないだろうか。むしろ客の方に懇切丁寧な案内を要求する心があって、その要望に応えているにすぎないのではないか。

 したがって違っているのは東西の観光客の側の心であり、あるいは観光客そのものの方なのではないだろうか。とすればこの東西の観光客の相違の指標となるべきものはなんなのだろうか。

………………

 類型化の力学は、ときに集団の側の一方的な押しつけ行為となって現われることがある。

 私は先に高知─松山間のバス旅行について触れたのであるが、かなわないのはバスに備えつけられているラジオ、ステレオの類である。これを使って終始、歌謡曲、軽音楽の類が流される。渓谷の美しさに、大自然の壮麗さに、心はきわめて形而上的な世界をさ迷っているときに「惚れて、惚れて、惚れていながら……」とやられるのである。

 ある地方都市で朝夕の六時に音楽サイレンなるものを鳴らしていた。城のある山のタワーから拡声機のラッパを四方に向けて流すのである。そこに近い市の中心部などでは耳をつんざくほどの音であったらしい。

 まず観光客の非難が集った。旅の空で疲れ果てて寝入っているときに、けたたましい音響で朝六時にたたき起こすとは何事かというわけである。市民の一部もそれに同調した。しかし当事者である市側はなかなか折れようとしなかった。音楽サイレンは一日の出発に当たって人びとの勤労の意欲をかき立てるものとして市民の強い支持をうけているというのが理由であった。

 この二つのきわめて日本的な行為を支えているものは、やはり同じ類型化の力学であるといっていい。すべての人間は同じ趣味を持ち、同じように歌謡曲が好きである。いやそうあらねばならない。すべての人間は皆朝早く起きて音楽サイレンとともに一日の勤労への決意を新たにするものである。いや、そうあるべきである、という発想である。

 そこには歌謡曲を不快な音と感じ、それを終始流されることはまさに拷問に等しい苦痛であるような人間の存在や、朝六時に音楽サイレンでたたき起こされることによって一日の勤労意欲を逆に喪失してしまうような人間のあることを認めない、いな許そうとしない集団による力の論理が原理として存在するのである。

………………

 ふたたび旅の話をしてみよう。駅および車中のアナウンスについてである。世界を旅しての印象のひとつに、日本における駅や車中におけるアナウンスほど懇切丁寧なる例はちょっと見当たらないということがある。ことに車中におけるそれは出発間もなくの、停車駅および到着時間の案内にはじまって、途中の駅に近づくごとの乗換線、接続列車の案内を噛んで含めるように、くり返し、くり返し放送する。そして最後は長途の旅へのねぎらいと忘れ物がないようにとの心配りの言葉をもって終わるのである。

 従来はこのパターンは観光バスの案内嬢の名所案内のセリフとともに日本人のきわめてゆきとどいた親切心の発露としてとらえられていた。たしかにそういった見方もまったく根拠のないこととは思われないが、単に親切心とのみ割り切って能事終われりとすることはあまりにも皮相にすぎる見方であるように思われる。

「日本人は親切だ、あの車内アナウンスの丁寧さぶりはどうだ」といって讃めてくれる外人もあるかもしれないが、私の知り合いの英国人などは、一緒に旅行していて車内アナウンスが始まると決って「ノイズィジャパン(うるさい日本)」などと苦りきった顔で吐き棄てるようにいったあとで、英国人がいかに騒音に対して気を配り、人の迷惑にならぬように心をくだいているかという一席をながながと聞かせてくれるのが常であった。これが平均的欧米人の反応なのである。

ひとり歩きできなくなった日本人

 そういえば、欧米にはこの種の車内アナウンスはまったくない。下車駅は各自の責任において乗り越しをせぬようたえず気を配っておかなくてはならない。不慣れな旅行者は地図を頼りにつねに自分の位置を確認しておくか、あるいは隣席の乗客、たまに巡回してくる車掌などに聞いてみるかしかしかたがないのである。

 この東西の差は、ふたたび親切と不親切という単純な対比ですますことができないのはさきに東西のバスガイドの比較に際して指摘しておいたとおりである。

 むしろ日本人に、車内のアナウンスにみられるような懇切丁寧さを求める心があって、鉄道側がその需要に対する供給を行なっているにすぎない、いわば経済原則に基づく行為であると考えるほうがいい。

 これに対して、欧米の列車に車内アナウンスが存在しないのは、彼らがつねにみずからの責任において行為することを求められ、また彼ら自身もそれを欲しているという事実によっている。彼らが子どものときに受けたしつけがつねに「ひとりで歩くこと」であったとするならば、彼らがみずからの力で旅を歩き、また歩くことを願っていることはこれまた当然のことといわなければならない。

 これに対して、つねに他の律するところに従って動くことを求められ、またそのようにだけ動くように仕向けられた人間は、他の律するところに従って動くという行為がくり返しくり返し行なわれた結果、歩くことを止めた人間が、ついにはまったく歩行不能な人間になってゆくのと同じように、自力で歩む機能が退化し消滅してゆくことになる。

 いわば着替えから食事、幼稚園の送り迎えまで母親につきっきりで世話を焼いてもらった子どもがついにはなにひとつ自分の力で処理することができない過保護の子どもとなってゆくように、つねに他の律するところにのみ従って生きてきたムラ人たちは、全体社会としてのムラ的共同体を離れ、類型的行動パターンの通用しない世界に放り出されたとたん、まるでヨチヨチ歩きの幼児のように、こまかな旅への指示と配慮なしにはまったく歩くことのできない人間と化してしまうのである。

 私のいつも利用しているバスがつい最近ワンマンバスに切り換えられた。その車内アナウンスがたいへんなものである。「整理券を取れ、釣り銭はいらぬように、高額の両替えはお断り、小額の両替は停車中に運転手に申し出で各自両替機の受け皿から受け取れ、危険物の持込みお断り、車内は禁煙、座席の空いているときは立っていないで座れ、座席の上に荷物はおくな、六歳以下の子は一人は無料、それ以上は一人につき半額、やむをえず急停車することがあるから釣り革をしっかり持て、下車の人は押しボタンで知らせろ云々」世界のどこにこれほどことこまかく噛んで含めるように世話を焼くところがあるだろうか。これをしも過保護といわず、なにを過保護というのであろうか……。

 こういったワンマンバスあるいは列車が日本中いたるところを走り廻って、日本人の一億総過保護化に力を貸しているかと思うと、なにかいても立ってもいられない気がしてくるのである。こうした過保護の氾濫のなかで日本人はついには歩くことさえできなくなるような廃疾の子となってゆくのではなかろうかという不安からである。それともそれは私だけのいわれなき杞憂にすぎないのであろうか。

………………

 旅人としてムラ境をあとにしたムラびとたちが、いかに懇切丁寧なる案内人を必要とする頼りなき幼児的旅行者であるかは、前章において説いたところであるが、われわれがムラ的依存母胎を離れたときにどれほど行動への指示と配慮を必要とする存在であるかの実例はそのほかいたるところに見受けることができる。

 デパートのエスカレーターの声の案内嬢もそのひとつである。「危険ですから赤いてすりをお持ちください」「黄色い線の内側にお乗りください」「よい子のみなさん、エスカレーターのうえで遊ばないようにいたしましょう……」云々と、これまた列車やワンマンバスの車内放送と同じくかゆいところに手の届くような導きの案内である。

 バスやタクシー乗り場などによく備えられてある行列誘導のための柵も同じことである。横断歩道のところに備えられている黄色い旗も同じである。手をあげて渡れという指示もそうである。こういった指示によってわれわれの行為はつねに方向づけを与えられ、導かれてゆかねばならないことになっている。

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