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憲法学者が語る「表現の自由と拡声機」
 明日からの選挙騒音を考えると、それだけでうんざりしてしまいます。

 ちなみに、ここ1カ月の間にうちの周囲を街宣車で走り回ったのは、共産党と公明党が共に5回ぐらいずつ。公明党は住宅地の路上で演説までしやがりました。
 私はJRと東京メトロに乗るとき以外はできるだけ耳栓を我慢するようにしていますが、この公明党の演説が10分ほど続いたところで、仕方なくぶっとい耳栓をハメました。明日から1週間、どうなることやら。ワイハにでも逃げてーなあー。

 いずれにせよ、この時点で共産党と公明党への投票は論外。そもそも私は「NO!選挙カー推進ネットワーク」に参加している議員か、「選挙カーは使いません」と表明した立候補者以外には投票しないと決めているのですが、私の住んでいる市にはそのどちらもいません。つまり、棄権ということです。投票するに値しない政治屋ばかりなんだからしょうがない。

 「選挙カーや政治家の演説がうるさい」と言うと、「表現の自由をなんだと思ってるんだ! 民主主義の根幹なんだじょ!」だのと喚く輩が多いですが、本当にそうなんでしょうか。日本を代表するリベラル派の憲法学者が「民主主義という制度を守るために表現の自由があるわけではない」、「人間は民主主義のために生きているのではない」と発言していたらどうでしょう。

 今年1月に亡くなられた憲法学者で「九条の会」を結成した一人でもある奥平康弘氏が、ちょっと古いのですが1989年に本会の機関誌『AMENITY』7号でインタビューに答えてくださっています。「表現の自由と拡声機」というタイトルで、選挙カーや街頭演説などの政治騒音だけでなく、電車やバスのやかましいアナウンスまで「放送と自由」について幅広く語っていて、そこに出てくるのがこのような発言です。

 以下に、そのインタビューを転載します。たっぷりあって約9000字。もちろん、転載するからには、私は奥平氏の発言をもっともだと受け止めているということです。
 次回は、この内容を踏まえてさらに何か書くつもりです(気が向いたら)。

――――――

表現の自由と拡声機

奥平康弘(東京大学社会科学研究所教授)

聞き手
T
U

<U> 私たちの会のメンバーの間で、いちばん意見が分かれるのが政治活動のスピーカーでして、右翼の宣伝カーを何とかすべきだ、という声があるかと思うと、政治的な演説などのスピーカー使用規制はするべきではない、という意見もあるのです。

 今年(一九八九年)の七月に環境庁が発表した「拡声機騒音規制強化に関する報告書」も、政治的な面でのスピーカー使用は、規制から除外してありますし、環境庁にかつて要望書を出した私たちの会も、同じように政治的なものは外しておいたんですが……。

<奥平> 拡声機の使用規制の問題は、表現の自由というより、正確に言えば表現手段の自由の問題ですね。まず、政治的な演説であろうとちり紙交換だろうと、騒音であるという側面は変わりません。受け手の側からみれば、物干しざおを売るメッセージも、ある政党を売り出すメッセージも同じだと思うんです。ですから私は、公共空間に流される拡声機の音は、すべて規制の対象になり得ると思うのです。また、拡声機の使用規制が表現の自由や政治活動の自由を規制することになるというふうには考えません。

 なぜかという説明をすることは、すなわち、表現の自由とか表現の手段を利用する自由とは何のためにあるのか、あるいは、憲法は何のために表現の自由を認めるのか、ということを話すことになるのですが……。

 表現の自由は、民主主義過程において必要だから、という側面もあるんですが、僕は民主主義という制度を守るために表現の自由があるとか、何かのために表現の自由がある、というだけのものとは考えません。一言で言えば、人間が人間であるために、僕が生きるために表現の自由がある、というふうにとらえているんです。

 もっと言うと、民主主義のために人間は生きているのではなくて、いろんな活動のためにたまたま生きている。その活動を十全たらしめるために民主主義はある。表現の自由は民主主義という脈絡だけで考えるべきではないのです。

 そうすると、表現の自由を主張する人は、否応なしに聞かされる側の人の人間的自由を調節しなければならない、ということになる。人間は民主主義のために生きているのではないのだから、プライバシーを侵害する騒音に対し「民主主義のために」という理由で我慢することは、どこかで無理した議論をしていることになる。

 もちろん、ときには「民主主義のために」という議論も必要なんですが、根本的にそれだけでいいのか、ということですね。表現の自由は民主主義のためにあるんだという、非常に傾いた形で表現の自由を考えすぎてしまっているように思います。

 欧米社会では、営業用のスピーカーのみならず、政治的メッセージの拡声機騒音もありません。そのことをどう考えるか。問題はなぜ拡声機を使う必要があるのか。そのレベルで議論する必要があるでしょうね。

<U> 選挙運動のスピーカー音に批判的な人は「表現の自由」を尊重しない人、というふうに思われてしまいがちなのが現実に思えますが。

<奥平> 憲法研究者の一人として僕は、「表現の自由を保護するために政治的な表現に関しては拡声機規制をしてはいけないのだ」という憲法論には疑問を覚えますね。それに、政治的なメッセージを、いったいどうやって区別するんでしょうか。区別なんかできませんよ。

 そのようなことを深く考えないで、日本の場合は、政治的自由、表現の自由ということで議論を止めてしまっている。これは、騒音一般に対するセンシビリティのレベルが驚くほど低いからでしょう。

 公職選挙法では、朝八時から拡声機を街中で使っていいようになっているけれど、日本国民たるものは朝八時には起きてあの騒音を我慢しなきゃならない、というのはおかしいと思います。八時なら多くの人が起きてるだろう、というだけのことであって、人によっては真夜中に仕事していて朝はゆっくり眠りたい人もいるんです。

 「今は聞きたくない」という権利は誰にもあるはずです。それを、「いや、今、あんたは聞く必要がある、聞かなきゃいかんのだ」というのが拡声機ですね。また、選挙にはあのようなメッセージをスピーカーで流すことが不可欠なのか……ということを考えていきますと、公選法のシステムそのものがおかしいのではないか、という議論があってもいいですね。昔からこのようなシステムがあったわけではないのですから。名前だけを繰り返すケッタイな選挙が、一般になってしまっているんですよね、現実は。

 僕の恩師であるICU学長だった鵜飼先生が、おととしの五月に亡くなられ、有楽町の銀座教会というところで葬式をしたのですが、葬儀の間中ずっと、すぐ脇の有楽町のどまん中で赤尾敏さんの演説が聞こえ続けていました。それを一緒に聞きながらしか葬儀ができませんでした。列席者たちは「あれが表現の自由かね」とささやいていましたが、厳かに葬式をして亡き人をしのぶという自由よりは、政治的表現のほうが優先するんだというふうに議論を建てなくちゃならないのかどうか。憲法研究者としては、やはり葬式をする自由も確保しなくちゃいかんのではないですか、という議論をどうしてもしたくなる。赤尾敏さんだから悪いと言うのではなく、そういう仕組みというものを考え直すということは意味があると思います。そうじゃないと、日本人の音に対する感性がどんどん悪くなっていってしまう。それは長い目で見ると恐ろしいことじゃないですかね。

<U> そうしたいわゆる「政治的」なスピーカーのほかに、お節介なアナウンスがあまりにも多いと思うのですが……。

<奥平> どうも拡声機騒音の問題の根っこは、表現の自由とか憲法論とかを越えたところにありそうですね。何て言いますか、すき間があれば、そのすき間に何か埋めないと気が済まないというような気持ちが日本人の中にあるからかもしれません。

<U> BGMなんか、そうでしょうね。

<奥平> そうでしょうねぇ。地下鉄のエスカレーターに流されている注意放送、つまり「お乗りの際は黄色い線の内側に……」とか「お子様の手を引いて……」といったテープ放送ですが、あれが夜遅く、誰もいないところで繰り返し流れているのを聞くと、なんか、とても異様な感じを受けますね。

 バスの中で流される、意味のないさまざまな注意放送テープも異常ですね。これはもう、法律論でも憲法論でもないんですよ。しかし、このような放送を異常と思わないで受け入れている社会が、法律論、憲法論を支えているということでもあるんです。

 外国人の書いたものの中に「日本人は深閑とした禅的風景を好む人種であると聞いたが、いざ日本に来てみたら、そんなことはまったくない」とありましたよ。

<U> 龍安寺では、「静けさを満喫してください」というようなテープが絶えず流されているそうですね。今はどうか知りませんが。

<奥平> (笑い)あり得る話ですね。

<U> 私がかつて住んでいた東京の大田区では、火事があると、消火の後に「火事が消えました」という放送を真夜中の三時に触れ回っていたんですよ。

<奥平> そうしてくれるのは結構なことじゃないか、と思う人が多いのでしょうね。一種のパターナリズムの受け皿が日本にあるんだと思います。流すほうと流されるほうの両方に。

<U> 確かにスピーカーから流される内容は悪いことではない。だから、なかなか否定しにくい面がありますね。音を出している側も、プライバシーを侵害しているという意識は皆無ですから……。

<T> そうしたお節介な音がとても多いのですが、奥平先生もおっしゃられたように、こういうのは憲法論や法律論を越えているわけですよね。従ってお節介だからという理由で取り締まることはできないと思います。例えば、デパートの中では必要最小限のこと以外は放送してはならない、というような法律は作れませんよね。だから市民運動などで要望していくしかない気が私も致します。

 他方、先程言われた街頭の拡声機使用規制のほうですが、候補者が公職選挙法上できる運動というのは極めて限定されているわけですよね。だから、宣伝カーによる「誰それです。よろしくお願いします」という連呼にしても、そういう形での運動しかできないという側面もあります。そのような現状に加えて、さらに拡声機使用も全面禁止ということになると憲法上問題ではないかと思うのですが……。

<奥平> おっしゃるように、デパートの中の放送などは、それは悪趣味であるとか、それはうるさいとかは言えますが、法律で取り締まる問題ではないでしょうね。ただ街頭ということになると、人一般を相手にすることになるので、条例なりで規制しなければならないし、現に多少の規制をしている。

<T> 岡山県の「暴騒音規制条例」とか……。この間は「国会周辺の静穏を保持する法律」というのもできましたが、それについてはどう思われますか。

<奥平> 岡山の条例の場合には、かなり多くの憲法学者が憲法違反である、あるいは政治活動の自由を規律してしまっているとして、かなり評判が悪かったのですが、僕がこの条例についてコメントを避けてきたのは、ちょっとこの議論に乗るには慎重に考えていきたいと思っていたからです。

 「暴騒音条例」について言うと、適用除外の挙げ方(第三条)にしても、公務員の行うものは別だというのは非常におかしいし、祭礼や運動会等、住民が慣習として行う行事なら拡声機使用を許す、という点などは、このこと自体が問題になり得るわけですね。また、音の大きさの規制と時間の規制(第四条)で言えば、これはこれで問題を含んでいるように思える。それに、取り締まる側がなぜ公安委員会なのか、なぜ警察なのか、という点も依然として払拭し得ないものがある。公安条例が公安委員会や警察の管轄になっているからだろうけれど……。

 このように問題点は多々あるにしても、地方公共団体がこの種の規制をすることが、直ちに政治的自由を制限することになるから憲法違反だという議論は、ちょっと粗雑にすぎると思うんです。直ちに違憲だと言うには慎重であっていいんじゃないかと思います。

 国会周辺の法律の場合は、市民のための法律ではありませんね。「これらの地域の静穏を保持し、よって国会の審議権の確保と良好な国際関係の維持に資することを目的とする」(第一条)というのであって、僕はこのこと自体に非常にひっかかる。国会の審議のために、また国際関係のためになら規律する、ということが。

 僕たちが拡声機を規律して欲しいのは、国民にとってうるさいからであり、一種のプライバシー侵害になるからです。でも、そう言うと「いや、それはちょっと待ってください。私たちが議論するのは国会の審議が邪魔されるからです」あるいは「外国の人たちとの良き外交関係を保持するために必要なんです。さし当たりそっちだけです」というシングルアウトする論理が憲法論以前にあるんですね。それが気に入らない。

 しかし、これも憲法違反かというと、外交代表機関で働く人たちの活動の自由が妨げられていれば、直ちに違憲とは言えない。

<U> 国会の審議のためや国際関係のためだけでなく、良好な国民生活のためにとか言ってくれればいいんですがね。

<奥平> そうすると、うるさいのは国会周辺だけではないんですよ。これをきっかけに全体に広がってゆくのか、あるいは国会周辺だけで必要にして十分な規律であるから他は知りませんとなるのか。その分かれ目になるような感じですね。

 それから、拡声機の使用をより強く規律する法律なり条例なりが仮に出てきた場合、全面禁止となると問題が出てくるので、何らかの形で、やり方とか目的とか騒音の程度とかを規律するしかないだろうと思います。

 僕は他の国の状況はよく分からないのですけれど、例えば西ベルリンに住んでいるときに、うるさいと気付くほどの拡声機騒音を街で耳にしたことはまったく一度もありませんでした。それは、条例とか法律とかが制限したり禁止したりしているからだとは必ずしも思わないんです。社会の質、人々のセンシビリティといったものが、スピーカーを使わせないんだろうと思います。

 たまたま西ドイツにいる間に選挙があったんですが、選挙の前日までその日が投票日だという放送はありませんでした。公職選挙法で規律しているからかどうかは調べてきませんでしたが、たぶんそのせいではないでしょう。騒音を規律する法律なり条例なりがあるから人々はセールス(政治的セールスを含めて)に拡声機を使わないのではなくて、例えば政治家が、日本でやるように拡声機を使えば人々が怒るから、つまりマイナスになって宣伝効果がないからでしょう。そういう歯止めがあるからだと思います。

 拡声機によってやるということ自体がマイナス効果になるから淘汰されてしまうんだ、という側面を、もう少し見直す必要があると思います。そこのところが非常に難しいんですね。日本ではマイナス効果ではない。仕方ないから法律でやりましょ、ということになってしまい、そこから問題が出てきてしまう。

<T> ヨーロッパなどでは、法的な縛りがあるから拡声機を使わないんじゃなくて、他人に迷惑をかけるからやらないのでしょうね。ところが、日本ではそれが期待できないというので、先程の「暴騒音条例」「国会周辺の静穏法」ができたのですが、公務員は適用対象外。立候補者は戸別訪問もビラ配りもできない一方で、もともとお節介な役所や学校の放送は全然取り締まられません。それも問題に思えるんです。

<奥平> さっきも言ったように、騒音の問題に国家が乗り出してきて、ま、非常に不満足な内容ながら規律を始めましたが、これが日本全体の領域でも静ひつを保持できるよう国家がお助けしましょう、という方向へ行くかどうかは分かりませんね。国民の側にも問題があるんじゃないでしょうかね。

<T> 多数派的支配的見解を持つ者はスピーカーを使わなくても、ラジオやテレビ、新聞などで労せずして自己の見解を広めることができるが、少数派非オーソドックスな見解を持つ者は、そうした機会が与えられないのでスピーカーに頼るしかない、という意見もありますが……。

<奥平> その問題は、政治的自由というものを考えるときのひとつのポイントですね。そういうメディアがどうしても自分の手段として必要なんだ、それ以外ではダメなんだという議論が今でも通用するのかどうか。音量、時間帯を含めて、自分にとってアヴェイラブルな手段ならどういうふうに使おうと勝手なのだ、聞きたくない人も他の仕事を止めてでも聞きなさい、という種類の表現手段しかないのかという議論を、もっと突っ込んで考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 今の日本には、プライバシー侵害的な騒音が生活に入り込んでおり、人々はそれを当たり前のことだと考えすぎています。それに異論を述べてみる必要があると思います。それほど日本の拡声機騒音はすごいですよ。

 Tさんのご指摘のように、少数意見の権利はあるんで、だからこそ慎重に考えるんですが、それにもかかわらずなんですよね。スピーカーを持つ少数者と静ひつを欲する人間としての意味、社会の質の問題などを考えてみることも日本では必要だと思います。そのくらいのこと言ってもいいんじゃないかな、やっつけられるかも知れないけれど……。

<T> 現在の日本は規制だらけで、デモやビラまきは無許可でやれば、すぐ警察に取り締まられてしまいます。拡声機の使用を厳しく規制して欲しいと思う一方で、そうするとますます警察の監視下になってしまいそうな……という不安も捨てられないんですよ。

<奥平> 現状における効果が疑わしいという点では、そうですね。公職選挙法がその典型であって、いろいろのものを規制しているから、否応なしに拡声機による車上演説になってしまう。

 また、このシステムの中では拡声機しかないというのも、これまた日本的特色と言わざるを得ません。

 最高裁判所の役割ということでいうと、非常におかしなことですけれど、全部システムの問題なんですね。しかし、裁判ではシステムの一部しか問題にならないんで。

 僕の理解するところでは、戸別訪問の禁止なんて問題があると、それがダメと言うとシステム全体が崩れてしまうんです。公職選挙法が持ってる規律全体が崩れて、自民党政府を始めとした国会が大混乱になってしまうんですね。

 つまり、ちょうど積み木のように、日本的土壌の上にうまい具合にできあがっているブロックのひとつを取り除くように、戸別訪問を禁止する規律、拡声機はこうこうこのように使えというように、選挙運動はこういうものだと思い込まされている積み木の一部を取ってしまうと崩れてしまう。

 僕ら憲法学者はその積み木を取ってくれと要求しているわけですが、システム全体を裁判はできないので、みんなでシステムが崩れるのを防いでいて、その結果、戸別訪問の禁止も大いに結構だし、拡声機を使って候補者の名前を宣伝するのもいいじゃないかというふうになっている。

 システムってこわいなと思います。戦後四十年間の独特の選挙運動の仕組みを作ってしまった。普通の人は選挙をそんなもんだと思っている。外国ではどんな選挙をしているのか、どんなに自由でどんなに静かであるかを知らないわけですから。そういうシステムを有効だと思っているし、裁判所もどこかをいじれば全部がダメになってしまうだけでなく、公選法は違憲だという判決を下そうものなら、国会を怒らせることになるし、自民党を怒らせるのでちょっと荷が重すぎるということになる。そういう争点なんですね、僕の理解によると。

 それぞれの仕組みが、日本式論理からするともっともな論理で組まれている。だからこそその修正を期待するのは、とても難しい。選挙運動の拡声機を規律するというそれだけを問題にしてしまったのでは、今、現にこのシステムが有効に働いていると思っている人々からすると、とんでもない議論だということになる。システム全体として考えれば解けるはずのものが、システム全体を解決するような解き方が制度としてない。最高裁判所は国会や自民党から叩かれても、一度システムの見直しをやってみたらいいと思うんですが。

 それはそうとしても、日本の社会はあまりにもやかましいと思う人が、少数ではあっても増えてきていることは事実だと思います。このことは新聞の投書を見ても分かります。現にJRなんかも、あなたたちの理論に反応を示してきていますよね。

<U> それと逆に、街のBGMなどはますます増えている気がしますね。

<奥平> そうですね。駅などで拡声機からピーチク小鳥のさえずりを流してるのなど、こっけいそのものだと思うのですが、こっけいと思わない人が多いんでしょうねえ。日本人はああいうアーティフィシャルなものに抵抗感がないみたいですね。

<U> コピー食品って言うんですか、カニの味がするが実はカマボコであるというような……。あのたぐいのものも多いですね。

<奥平> 大切なことは結局、社会を規定している力、人の心とでも言いますか、そういった社会の質が法律を作り出したり適用させたり支えたりしているんですね。この面から日本の拡声機騒音を考えると、ほとんどが絶望的なんですが、さっきからの繰り返しになっちゃうけど、そこから出発するしかないですね。

 ところで、会の皆さんは音楽好きが多いのではないですか?

<U> そうですね。職業としての音楽家もいますし、音楽愛好家が多いのは確かですね。

<奥平> 音楽的な感性を育ててゆくのには、今の日本社会はよろしくない社会ですね。

<U> それから、会の中心メンバーに外国人がいるのも私たちの会の特色だと思います。

<奥平> 外国との比較ができますね。そのような方に、この日本の騒音が世界でも特殊だということを言っていただかないと。

<T> さっき話にも出たお節介放送について、もうひとつ言いたいのは、音が管理の手段としてよく使われるようになってきているということです。

 ハックスリーの『すばらしい新世界』には、幼児に絵本を持たせて、同時にサイレンショックを与え続ける。すると幼児は絵本に憎悪を持つようになり、生涯、書物から遠ざけさせられるという話がありますが、これに似たものが現にある。

 伊勢丹では、雨が降り出すと『雨にぬれても』を流し、晴れると『蒼いノクターン』を流してるんです。雨が降り出すと新たに入ってくる客が減るので、現在店内にいる客を大事にして、売り上げを減らさないようにしなさい、と音楽で店員を管理しています。

 そういうのは、うるさいというわけではないんですが、何か嫌な予感がするんですね。予想される方向としては、市民の拡声機使用は取り締まられ街は静かになってゆくけれど、肝心の役所は取り締まられずに、むしろ国家が音を使って国民の精神を管理する、まさに、『一九八四年』の世界のようになってゆくんじゃないかという気がしたりするんです。

<奥平> そういう社会になる可能性ということで考えると、日本人のハードルは低いですよね。そういうものに対する抵抗も、エネルギーも、意欲も……。

<U> 天皇崩御の日なんてのは、マスコミの体質が戦前から変わっていないということを示したと思います。

<奥平> 大勢順応主義というと、そういうことを含めて日本人て何だろうと、よく分かんなくさせられます。

 僕、この前ちょっとイタズラに書いたことなんですが、一九三〇年代の日本というのは、外から見たらものすごく変な国だったと。あのホメイニ率いるイランのイスラム共和国と、そんなに違わなかったと思うんですよ。とにかくメチャクチャに天皇を崇拝しなくちゃならないと。

 しかし、あの中で、僕も子どもだったから、あれがおかしいなんて全然考えなかったわけですね。今のイスラムの人たちはそうだと思う。日本の天皇報道や拡声機騒音も、それに非常に近いんじゃないかと思います。

 ただ、日本の三〇年代と今日とひとつ違うのは、今なら「外国から見ればおかしいですよ」と、さっき言ったような比較の観点で見ることができるという点です。だから、まんざら捨てたものでもありません。

<T> 『世界』八九年一月号に執筆された「日本国憲法と『内なる天皇制』」ですね。

<奥平> そうです。最高裁の判決を批判するようなときは、あえてアメリカの最高裁の判決を持ってきて、叩いてみるというのが僕のひとつの方法なんです。常に有効な方法とは思いませんが、人間として当たり前じゃないですよ、人間の社会では通用する判決ではないですよ、ということを説明するときに、肩ひじ張らず言える利点があります。

<T> 元号も不便で、しかも日本でしか通用しないのは明らかなのに皆使っている。似てますね。

<奥平> そうですね。典型ですね。とにかく皆さんの会の意見は、この日本では少数意見であることは確実だし、当分の間は少数意見のままだろうけれど、ファンダメンタリズムが全面的に展開しないで済むんだ、というふうに思うんですね。誰かが頑張っているんで、まったく変になることはない、と。

 戦後四十年の歴史は、ある意味ではそういうものだったんじゃないか、という感じが致します。世の中の支配的意見にはならなかったけれども。環境問題ひとつ例にとっても言えることだと思います。

<U> お忙しい中、ありがとうございました。

――――――
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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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