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選挙と牛丼屋と「日本の権力構造」の謎
 今回も、ブログを更新する時間がなかなかとれないので、人様の著書の紹介を中心にします。

 統一地方選挙などと言って、クソやかましい演説や連呼が始まる時期が近づきました。というか、もう始まっています。うんざりです。

 先週の水曜日、買い物をしようとある駅の駅前に行くと、ロータリーで「みなさん!」「わたしたちはっ!」という、私が最も嫌いな中年女性の甲高いアニメ声(オエ~)の演説が始まったところでした。慌てて目を背けたので詳しくはわかりませんが、「わたしたちはっ!」というおばはんのキンキラ声は共産党の印みたいなものですから、おそらくそうなのだと思います。
 私は、自己陶酔に浸りきった政治屋の演説など見たくないし聞きたくもないので、そのまますぐ横にあったスーパーに飛び込んで買い物を済ませ、反対側の出口から遠回りして帰りました。

 その後、金曜日には家で仕事をしていると、どこからかうっすらと演説らしい声が。たぶん、近所の商店街で政治屋が喚き散らしていたのだと思いますが、内容は聞き取れなかったので、どこの誰なのかはわかりません。
 これが聞こえてから、「そろそろ、住宅地でも政治屋が演説をしたり車で走り回ったりするんだろうなあ」と気が気ではないのですが、幸いにも今のところ現れていません。

 でも、どうせ時間の問題でしょう。私が住んでいる市でも市議会議員選挙があるので、狭い町の中を数十人のアホが拡声器で叫びながら走り回る、地獄のような日々が近づいているというわけです。私が金持ちだったら、選挙期間中だけでもこんな国から逃げ出すんだけどなあ。
 せめて、告示前に「私を議会に送り出してください!」などと、選挙での投票を依頼する違法な事前運動を見かけたら、どんどん選挙管理委員会にチクってやろう。ま、そんなことをしたってなんの意味もないんだけど。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンというオランダ人ジャーナリストが書いた『日本/権力構造の謎』(1990年初版)という本があります。一言で言えば、日本という「権力構造が極めて曖昧で、誰が何をしようとしているのかさっぱりわからない(そのくせ、総体的に見れば妙にまとまっている)」不思議な国を分析した日本論です。
 その分析は政界や官界はもちろんのこと、経済界、宗教界、警察、農協、マスコミから暴力団まで、およそ日本という国を形作っているあらゆる組織に及びますが、結局のところ結論は「わかんな~い」(by深野晴美)です。

 ウォルフレン氏は、日本という国の正体不明な権力構造を<システム>と表現していますが、それを社会学者の橋爪大三郎氏は文庫版(94年)でこんなふうに解説しています。

――――――

 『日本/権力構造の謎』は何を主張しているのか? 《中略》まず第一に、<システム>とは何かを理解することが重要である。《中略》本書の<システム>は、《中略》なかなか正体がつかめないアモルフ(無定型)なもの、という意味なのだ。

 <システム>の反対物は、(西欧社会の近代的な)「国家」である。国家とは、政治的に責任をとる主体《中略》であって、誰がどういう根拠にもとづいてどういう権力を行使しているのかを、はっきり目に見えるかたちにしたものだ。《中略》しかしウォルフレン氏のみるところ、日本にはこうした前提がそもそも欠けている。日本の社会にももちろん権力現象はあるのだが、人びとはそれを権力と意識したがらず、それに法や制度などの明確なかたちを与えることを好まない。民主主義は、権力を法によってコントロールする制度であるはずだった。しかしそうした見かけの裏でも、実はこうしたアモルフな権力が人びとをとらえている。ウォルフレン氏が<システム>と名前をつけて描こうとしているのは、こうした日本の権力のあり方なのだ。

 《註:日本人が、自らがどれだけ西欧社会とかけ離れた社会運営をしているか想像できなくなっているのは》<システム>が現実から目をそむけさせ、権力が知性を麻痺させているせいであると、ウォルフレン氏はみる。

 日本の社会で暮らしていると、時として、そのあまりの閉鎖性、萎縮した思考、自己主張の無さ、無原則、退嬰的な幼児性に、うんざりさせられることがある。

――――――

 では、この<人びとはそれを権力と意識したがらず><知性を麻痺させている><アモルフな権力>=<システム>とは、どのようなものなのか。
 政治がどうの、官僚がどうしたという「大きな話」はとりあえず横に置くとして、日常生活での現れ方をウォルフレン氏はこう書いています。

――――――

 たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。

 日本人は、自分が生活していくうえでの大部分のことはだれかが決めて管理してくれるという考え方を、子供の時から無意識のうちに教え込まれる。また、日本人を取りまく環境は、一般的に、臨機応変に行動することを奨励しない。心身を休めて楽しむ場合にも、えてして規律を重んじる。学校の行事から花見にいたるまで、集団行動はほぼ例外なく苦心して準備され、本番はといえば予定どおりに進行される。外部者の目から見ると、どんな楽しみもすべて周到な準備のためになくなってしまう。

 交番やパトカーの拡声器から突然発せられる指示の論説調からもそれ《註:日本の警察は「保護者」のようであること》がわかる。小都市によってはアパート群のある地区で、警察が午前七時に広報用のスピーカー網を通して朝の挨拶をし、美容体操の音楽を流したり、元気づけのおしゃべりやさまざまな注意事項を放送して、住民に地域社会の連帯感を感じさせたりもする。

 人びとの側では、警察が不必要に高圧的な指示をしてもとかく従ってしまう。歩行者は、一歩か二歩で渡れるような狭い道でも、交通遮断で車が通れない道路でも、赤信号が青になるまでおとなしく待つのが普通である。

 警察の介入を人びとが認容する好例は、花見時に東京の上野公園にいけば見られる。公園には、会社員をはじめ多勢の人が集まり、桜の下に敷物を広げピクニック気分で飲んだり歌ったり、手拍子をうったり、会社のパーティの慣例どおり花見の宴が開かれる。ところが、一方で警察も大きな区画を数カ所確保して、思いのままにメガホンを通して勧告や警告を発する。この状態が夜の八時半頃まで続き酒宴も最高潮というところで、警察がみんな家に帰りなさいとどなりはじめる。驚くべきことに、三〇分もしないうちに上野公園にはほとんど人がいなくなるのだ。警察側の独断的な規定であっても、ほとんど全員がそれに従うのである。実際にはこの公園は一日二四時間開いているのに。

 とくに都市部の日本人は、つねに市民というより臣民であると感じさせられるようになっている。彼らは、おだてと訓戒の環境に暮らしている。彼らは始終、危険について警告され、ものごとの適切なやり方を改めて注意され、やさしく叱られる。《中略》巡回するパトカーや大きな交番に備えつけられた拡声器は、心配性の母親を想い出させる。それはいつも、アブナイ、危険だと警告する。その不満げな声の調子まで、ますます日本の母親に似てくる。そして歩行者は、手に負えない子供扱いをされていると感じさせられるのである。

 通勤サラリーマンが毎日通る駅構内で、絶え間なくスピーカーから流れる余計な指示は彼らが通路やプラットフォームをふさぎはせぬかと駆り立てる音響のムチと化すのである。のべつ聞かされる警察の訓戒や右のような事態は、職場外に権威が存在することを日常的に感じさせる。耳から侵入してくるだけで、襟をわしづかみにされるわけでも顔を懐中電灯で照らされるわけでもない。しかし人びとは、権威の存在をやさしく想起させられるのである。

 ドライバー用には特別の警告法がある。一部の県の道路脇に立つほぼ実物大のコンクリートやプラスチック製の警官がそれである。雨風で痛んでいようとも、完全な制服を着ている。場所によっては、ビニールに大きく印刷された警官の絵にかえたり、ヘッドライトが当たると交通係の警官の反射ベルトと赤い夜警用の警杖とが光る凝った造りにかえた所もある。

 世界でもっとも人出の多い場所のひとつである東京の銀座で毎日、旗やのぼりをはためかせ拡声器をつけたトラックが戦略的な地点に陣取る。有名な戦前の国粋主義者で、自分のことを「日本のヒットラー」と称したこともある赤尾敏のトラックである。筆者が一九六二年に初めてそこを通った時にも、彼はいつもの場所で声を嗄らして叫んでいた。一九九〇年二月に亡くなるまで彼は、言論の自由の名の下に、群衆の耳をつんざかんばかりに音量をあげて、左翼と世界共産主義の恐ろしさについて訓戒した。銀座の買い物客はこの老衰気味の右翼古老を無視したが、警察が何年も続けて通行者に演説するこれと同等の機会を、左翼の活動家にも与えるとは、とても考えられない。

 右翼には大いに自由が与えられていて、拡声器から騒音をまきちらしながらトラックで公道を巡回し、はたまた混雑した路上で耳をつんざくような演説をする。実際、右翼は、警察が見て見ないふりをするので、社会党主催の会合の邪魔をしたり妨害するのも許されている。また、すでに見たように、右翼の威嚇は、日教組の大会会場さがしを困難にさせている。

 「仕方がない」――日本人が日常使う表現のひとつである。ちょうど「暑いねぇ!」とか「おお寒!」とか言うように、自然現象を認めることばだ。権力者の命令に従うことは、大体“仕方がない”ことなのである。社会秩序と政治体制の区別がはっきりしていない事実もこのあきらめを助長する。しかし、従順さは強制という目に見えない社会的威嚇によって支えられており、正統性とまったく関係がないのである。《中略》これまで見たように、日本人の考えでは、個人的な部分と社会・政治的な領域の境界がはっきりしないし、<システム>の代替宗教的な役割も漠然としている。これでは<システム>の正統性を問うのは、一般の日本人にとって、母親の正統性を疑うようなものである。

 一番よく使われる《註:抑圧された日本人の》緊張解放の一法に、集団で酔っぱらうことがある。酒を飲む集まりは、日本社会という圧力釜に付けられたいくつかの安全弁のひとつだ。一部の会社で今なお見られる急進派労組の小グループの騒々しいが儀式的なデモはもうひとつの別の安全弁である。

 右翼への反対活動は、大部分が集会できまりきったスローガンを叫ぶことであり、理性的な議論はめったに聞けない。彼らのイデオロギーにすっかり染まった語調は、日本の左翼に典型的なものだといえる。

 日本では、日々の確実性をある程度保証するため、社会生活をできるだけ予測できるものにしなければならない。そこで、日本人のコミュニケーションはひじょうに紋切り型になりがちだし、物事はこうあるべきで、人はこう振る舞うべきだということを相当強く意識するように育てられる。人間関係をとりまく環境は、“柔らかい”面と“硬い”面を兼ね備えている。両方の面が互いに補足しあうのだが、両者が一貫性のある論理的な枠組みにはならない。柔らかい側面では、柔軟性が親密な個人的な関係を左右する。この世界は“ウェット”で、情緒的で、個々の特異な状況に寛容である。しかし、親愛感の少ない“硬い”側面では、物事はありきたりで硬直した不変の類型に当てはめられる傾向がある。《中略》身近な社会環境内の柔らかく、ウェットな世界の変化と推移についてゆくだけで大変な努力を要するので、あたかも、その先にある非個人的な世界の方は単純化してしまいたいかのようである。

 日本人は、周辺の世界や人々が期待どおりでないと、気分を極端に害したり、既成概念に当てはまらないものをさっさと無視する傾向がある。これは人間に共通の特性であるが、日本人の場合、その程度が極端である。《中略》予想できない事に対する不安感が、極度に柔軟性を欠く態度や振る舞いをとらせるのだ。

 学生“デモ隊”の分隊が今も時どき、大きな集会に参加しているのを見かける。彼らはまったく同じヘルメットをかぶり、似たような服装で、鋭い呼子とかけ声のリズムに合わせて、まるで恍惚状態のようにスローガンをとなえて行進する。そうしながらもまるで魔術のように彼らは密着した隊形をくずさない。胸と背中、肩と肩を密着させ、わずかな間隔をおいて男子学生に女子学生が続く。長い列は、体をうねらせて進む一匹の蛇のようだ。世界中のどんなコーラス・ラインもパレードの部隊も、これ以上のお手本はないだろう。だが、学生は実質的なことを何も達成しない。また、はじめからそのつもりもない。デモのためのデモなのである。

――――――

 25年前の本なので、時代とともに多少変化した部分はありますが、日常生活の中ですら(日常だからこそ)<始終、危険について警告され、ものごとの適切なやり方を改めて注意され、やさしく叱られる>この国の「権力構造」のあり方や、それを「おいおい、子供じゃないんだからいいかげんにしてくれよ」と思わない人たちばかりという現実は何一つ変わっていません。
 例えば、いきなりですが「松屋」(牛丼のほう)の話です(笑)。

 以前のエントリーに書きましたが、うちの近所の松屋は、やはり近くにある「すき家」より店内の大音量BGMや店員の絶叫接客がひどくなかったので、年に数回食べに行くことがありました。もちろん「すき家よりまし」というだけなので、積極的に行ったわけではありません。
 でも、それも2年ほど前まで。最近は「絶対に行かない店」になりました。理由は店内放送です。

 ある日、牛丼をかき込んでいるとBGMに重ねて「お帰りの際は、お忘れ物にご注意ください」というアナウンスを聞かされました。そして「券売機では、お釣りのお取り忘れにご注意ください」などと何種類もの「注意放送」が立て続けに。確か「お帰りの際は、足元にご注意ください」だの「席をお立ちの際は、置き引きにご注意ください」だの、それまで聞いたことのないアナウンスが、繰り返し流されるようになったはずです。

 私は「牛丼を食っているだけなのに、なんでこんなにバカ扱いされにゃならんのだ」と情けなくなったものですが、周囲の客や店員を見てもな~んにも感じていない様子。不愉快だと店員に苦情を言ってもしょうがない、そんなことはわかりきっているので「二度と行かない」ようにするしかありません。

 「権力」と言うと、日常生活とはなんの関係もない天上の話に思えるかもしれません。しかし権力というのは、それをなんらかの形で他者に「実感」させなければ意味がありません。日本の場合、その権力構造が独裁的な政治体制や宗教による押しつけではなく、「互いが互いをバカ扱いする」ことで成り立っている不思議な国で、しかも、誰もがそれに違和感一つ覚えないところに特徴があるのでしょう。
 ただ牛丼を食うだけなのに、何種類もの「注意放送」を聞かされて、しかも「いらっしゃいませこんにちはあああああ!」「ありがとうございましたまたおこしくださいませえええええ!」と、しつこいほどに叫ぶ松屋のような異様な光景は、まさにウォルフレン氏が指摘した<おだてと訓戒の環境>そのもの。「たかが牛丼屋」の話じゃないんです。

 私が不満なのは、こうした現代の日常生活に根差した指摘を、日本の「知識人」と呼ばれる人たちがまったくと言っていいほどしないことです。この本はその内容からして、国家がどうした政治がどうしたという話が大部分を占めていて、今回紹介した「では、その権力構造が日常にどのように現れているか」にはあまり触れていません。それでも、上記ぐらいのボリュームはあるし、抜粋しないだけで他の箇所でも数多く書かれています。

 ところが、日本人で本書を(肯定的にせよ、否定的にせよ)評する知識人や日本論を展開する学者に、日常のどこにでも溢れているこのグロテスクな「権力構造」を切り口にする人はほとんどいません。
 政治がどうの教育がどうのとご立派なことを論じるのもいいけれど、結局のところ、そのような制度を支えているのは日々の生活です。どこへ行っても頭の上から「ご注意ください!」「~しましょう!」とアナウンスが鳴り響き、ただ道を歩くだけで数十m置きに「飛び出し注意!」「不審者に注意!」「ひったくりに注意!」と、無数の看板で<手に負えない子供扱い>される暮らし。そのおかしさに気づかない人たちが「日本とは何か」なんて論じても、まるで意味がないんじゃないかと私は思うんですけどね。そんなもん、たこの入っていないたこ焼きみたいなものです。

 選挙カーの騒音は、最近では「うるさい」「無意味だ」と言う人が多少なりとも増えたような気がするのですが(それでも、なくなる様子はまったくありません)、<心配性の母親>のような注意放送や看板の氾濫は、ますますひどくなる一方です。
 「青になりました。左右をよく見て渡りましょう!」(吉祥寺の信号)、「手洗いとうがいを心掛けましょう!」(某スーパー)などと、いちいち放送で指示されるような「権力構造」に、この国の知性溢れる(はず)の人たちや「意識高~い系」の人たちは、どうして怒らないのだろう。そもそもそれが最大の「謎」です。
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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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