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「縮み志向」の日本人が放つスピーカー騒音
 日本人論や日本文化論などの本を読んで、スピーカー騒音や過剰な接客、汚らしい標語看板や景観の問題に関する記述があると書き写しています。
 これまでにもいくつか取り上げていますが、李御寧著『「縮み」志向の日本人』(1982年初版)という本でも、大変鋭い指摘がされているので紹介します。

 著者の李氏は、朝鮮日報の論説委員や梨花女子大の教授を経て来日し、東大比較文学研究室客員研究員、国際日本文化研究センター客員教授を歴任。後に韓国の初代文化相を務めた方だそうです。
 本書は、主に盆栽や茶の湯、俳句など日本の伝統文化から、日本人を語るキーワードとして「縮み志向」を抽出。この志向が日本人の行動を特徴づけているのではないか、と論じています。
 スピーカー騒音について言えば、<人間と人間との縮みの構造が、日常の社会にあらわれ><必要であれ、必要でないにせよ!><「座」をつくらなければ「気が済まない」><寄合文化>として現れたものと分析しているのですが、とても腑に落ちますね。

 まず、この本の概要がよくわかる箇所から紹介し、中盤からスピーカー騒音や景観などの話題が出てきます。全部で約6000字。

――――――

詰められないものは「つまらないもの」

 (前略)弁当が示している縮み志向の特色とはいったい何でしょうか。くり返していえば、弁当は広くて大きいお膳の拡がりを、ホカイ(行器)とかワリゴ(破籠)とか、一定の小さい囲いのなかに縮めることなのです。したがってこの場合の「縮み」とは、「詰める」と同義語になるのです。ここでわれわれは縮みの志向には、「詰める」といういまひとつの重要な型があることを知るようになります。

 ちょっと見にはなんでもないことのようですが、「詰める」という、このありふれたことばに、さまざまな日本文化を育んでいった力学が含まれているのです。駅とか列車のなかばかりでなく、ちゃんとした和食堂のメニューのなかにも弁当が堂々と重要な地位を占めているのです。弁当の味は「詰めた」味なのです。

 日本人は何を見ても、すぐ扇子のように折畳んだり、入れ子のように入れ込んだり、姉さま人形のように手足を取って単純化しようとするのと同じ伝で、散らばっているのを見るとなんでも箱に入れてしまわなければ気がすまないのです。ですから、日本では「詰める」ということばは、「甘え」などとは比較にならぬほどいろいろな日本的含蓄性に富んだ意味を持つ述語として使われているのです。集まることも「詰め合う」というでしょう(ただ集まるだけではなく、狭い場所に人がたくさん集まるというニュアンスが強い)。ある場所にはりつくことを「詰める」といい、そこに「詰所」ができます。またドラマや小説などで緊張を盛りあげるクライマックスを日本語では「大詰め」といいます。

 (中略)詰めるとは、物にあらわれれば、弁当のようにより狭い空間により多くのものをコンパクトにして、そして量を質にかえることですが、この型の「縮み志向」から生まれたのが、むかしの茶室・庭・マンダラ、今日のトランジスタをはじめカメラ・電子腕時計・VTRといった日本の目玉商品です。(後略)

 しかし、詰めるとは例のように、物質的な面ばかりでなく、精神面にもまったく同じ作用をしているということを忘れてはならないでしょう。日本人が人を評価するとき、よくその基準となることば――「あの男はしっかりしている」という表現は、「あの男は気が張り詰めている」ということなのです。食物を詰めれば弁当になり、心を詰めれば「しっかりした男」となるのです。なるほど、弁当箱を持って出勤するあの小市民たちは、とてもしっかりした「弁当男」なのでしょう。

 ですから、日本人はただ「見たり」「思ったり」「息を吸ったり」してはダメなのです。何かを真面目に真剣に一所懸命にしようとする場合には、必ずもっと「詰め」ていかなければダメなのです。そうすれば「見る」のは「見つめる」ものとなり、「思う」のは「思いつめる」となり、息は「息をつめる」となるのです。

 日本人の技術と力は「詰める」所に出てくるらしいのです。だから日本人にとっては、詰めることができないものは、つめられないもの、すなわち「つまらないもの」になってしまうのです。「つまらない」ということばの原義だけの話ではありません。実際、村の枠の集団に詰められない人を、村八分にするでしょう。民主主義など、形の上ではうまくいっているのですけれども、その内容を吟味していけば、いまでも日本人の社員教育は、むかしからのあのおケイコのやり方と同じく、精神とか知識を「詰め込み」主義でやっているのが目立ちます。(中略)

 個々人の多様性をその根本の哲学に持ってこそ、はじめて民主主義は成り立つものですが、日本人は個人一人一人がお膳の上にあがってはいられません。集団の枠に詰められて(これが日本独特の団結力というものですが)、はじめてその力を持つ。ですから、日本の知識人たちから韓国は独裁主義だと批判されていますが、韓国人一人一人の思考方式は日本人とは違っていて、「一億総評論家」とか「一億総白痴」とかの表現は出てきようがありません。一億をまるで一人のように縮め、詰めて、弁当箱の枠に入れる全体主義的考え方は、不思議にも東洋でただひとつ自由民主主義の模範といわれている日本のものなのです。

………………

肌で感ずる触れ合い文化

 ことばこそ四畳半ですが、茶室の畳は一枚ずつその使用する機能によって、貴人畳、客人畳、踏込畳と分割され、茶客に与えられた空間は、たったの畳二枚です(中略)。

「正坐の文化」と同じく、茶室の圧縮され、限られた空間でつくられたのが、あの日本的な寄合文化=触れ合い文化なのです。町のような広い空間までも、日本に来ると「触れ合いの町」になります。

 そうしてみると、日本人ほど「肌で感ずる」とか「触れ合う」という触覚言語で抽象的な人間関係まであらわそうとする民族も、そうそういません。日本の広告のコピーとか何かのキャッチ・フレーズにいちばん多く登場するのが、まさにこの「触れ合い」ということばです。郵便局では手紙を出すのが「心の触れ合い」だと宣伝され、駅には観光案内が「触れ合いの町」として飾られています。(中略)

 日本語では異性関係においてのみならず、(中略)心を許すとか信用するとかを「肌を許す」といいます。また力をつくして他人の世話をするのを「ひと肌ぬぐ」というのです。

イデオロギーを超える心

 ですから人と人を結ぶのは、頭ではない。心でもない。それよりもっと具体的で実感のある触覚的な肌ざわりである――ということを「日本論」を開いた本居宣長も認めているそうです。彼は、中国文化は道徳的な価値にもとづくものであり、日本文化は美と感情にもとづくものだと指摘していますが、それは人間関係にもそのまま適用される話なのです。人間関係ばかりでなく、抽象的な思考よりも具象的な感性のほうがずっと重視される人々の間では、イデオロギーのちがいよりも肌ちがいのほうが、より恐ろしいものとなります。

 そこで「保守党はイデオロギーや理屈で寄り合っている政党ではない。人間的な触れ合い、党への愛情、そういうものが基盤になっている……お互いの情愛で結束してゆくのが自民党なのだから、話し合いでいこうという機運があれば結構ではないか」(「朝日ジャーナル」一九七六年九月一日号)と、自民党元幹事長の保利茂がのべた理念なき政党評は、日本人のユニークさの源泉を論じているグレゴリー・クラークさんをひどく驚かせたようです。欧米の政治家が自分の政党にイデオロギーがないということをこのように、しかも誇らしげに描写することをだれが想像できようか、と。(中略)

 日本での人間関係は、イデオロギーとか法律とかいう抽象的な論理によって決められるのではない。保利さんのように「触れ合い」「話し合い」でいくのです。でも、誤解しては困ります。「話し合い」といっても、何かを討論したり、理屈っぽい議論をするあの「弁証法」を生んだ西洋のそれではありません。日本でいう「話し合い」とは(中略)、ほかならないあの「寄合文化」を意味するのです。

………………

売る人と買う人の「座」

 茶の座、芸能の座作をつくった人間と人間との縮みの構造が、日常の社会にあらわれたのが村の「講」や「結」、「祭り」であり、現代の企業にあらわれたのが日本の会社の独特なマネジメントです。芸能ではなく、日常的な社会の集団の「座」は「組」という他のことばで呼ばれますが、折詰め弁当型のその縮みの構造は同じものです。

 生産する人と消費する人、売る人と買う人、情報を流す人とそれを受ける人、現代の社会において複雑きわまりない「主客」の関係を巧みに「お手々つないで」乗り切ってゆく日本のユニークな団結力を分析してみると、これまで話してきた「座」がでてくるのです。

 欧米人は日本のデパートが独特だといいます。数千、数万回くり返されるあいさつ。“いらっしゃいませ”の制服を着た親切な店員たち、たんにものを買う場所だけではなく、展覧会をはじめとするいろいろな催しや、待ち合わせ場所にも使われる日本のデパートの雰囲気には、売る人と買う人との間に奇妙な座がつくられているといえるのです。何よりもエレベーターという狭い空間の一瞬の出会いにおいても、案内嬢は表示があるのに各階ごとにそれをくり返して座づくりを計っています。

 また日本のどの店でも何かを買い、金を払うと、例外なしに「千円おあずかりしました」「一万円おあずかりしました」と手に金を受けながら、必ず確認して復唱します。そしておつりを渡しながら「××円お返しします」というのです。ぴったりの金を払ったときには「ちょうどいただきました」です。石橋を叩いて渡るこの確認主義は一見無意味に見えますが、それで売る人と買う人の一種の座をつくっていく方法なのです。そしてときおり小さな店に「誠に勝手ながら、本日は休ませていただきます」という貼り紙がついているのを見ると、微苦笑を禁じえません。自分(主)の商売を休むのに相手(客)にお願いすることなど、世界の他のどこにも見られないことです。(後略)

外国人が見た日本の駅

 空港や駅というのは、卵の形みたいに世界共通です。機能が同じですから、形態も同じになってくるのです。しかし、日本の駅のホームでは、他の国ではめったに見られないことが、毎朝くりひろげられています。ただそれがあまりに当然なことと見過ごされてきたために、それが日本的だということすら忘れさられているにすぎません。それはホームや電車内に見受けられる無数の文字と音です。広告の話ではなく、乗客に対する案内、注意、要望事項のことです。

 際限がありません。まずドアには「戸袋に手がはさまれないようにして下さい」があり、「急停車することがありますから、吊り革におつかまり下さい」とあります。これで終わるのではありません。電車の発車停車のたびに、いちいちマイクで(実際、それはよく聞こえもしませんが)アナウンスがあります。たんに駅名を告げるだけでなく、朝には「お早うございます」、夕方には「お疲れさまでした」と丁寧にあいさつをするのです。そして「電車とホームの間があいていますから、足元にご注意下さい」とか、「まもなくドアが閉まります」「発車します」、はなはだしくは「網だなにお忘れ物がないようお降り下さい」というしまつです。ドアの閉まるときや発車のときは、きちんとベルや電子音の最新式のブザーが鳴ります。それでも足りずに人の声で二重に叫ぶわけです。

 ホームを見てみましょう。乗車口の表示や「あぶない……かけ込み乗車はやめましょう。階段付近は混雑しますからホームの中程にお進み下さい。駅長」とかがあり、「ここからホームが狭くなりますから注意して下さい」というのまであります。文字を読むよりは、見るほうがずっと早いのにです。盲目でないかぎり子供でもホームが狭くなっているのはわかるでしょう。

 実際、「天井が低いのでスキーをお持ちの方はご注意下さい」とか、「こんどの電車は××駅を出ました」とか、「次の××駅ではドアは左側が開きます」とかに対して、人々はほとんど無関心です。聞きも、見もしません。そういったものに耳をそばだてたり、眼をやったりするのは、われわれのような「外人」で、それも日本語のわかる外国人だけであって、はじめて日本を訪れた人には「絵にかいたモチ」にすぎません。では、それはいったいだれのために鳴らす鐘の音なのでしょうか。

 そうです。ただ乗る人と乗せる人の「座」をつくらなければ「気が済まない」からなのです。パリであれロンドンであれニューヨークであれ、どこであろうと、電車はひとりで走り、乗客はひとりで乗ったり降りたりします。みんな自分が勝手を知ってやるのです。ところが、東京の駅のホームだけは幼稚園の運動場のようであり、そして乗客をさばく駅員たちは、その先生みたいにかゆいところまで手が届く親切ぶりです。つまり、東京の駅のホームには電車と乗客の間に「座」があるのです。それが必要であれ、必要でないにせよ!(中略)

 寄合文化は狭い茶室に客を詰め込むのが楽しいことになっています。それがまた座をつくることの原型です。その触れ合いはいいことだ、だから車内に人を「詰め込む」ことは、西欧人みたいに、そうびっくりすることではありません。鉄道規則には「強いて定員を超過してはいけない」というのがありますが、座の法則がそれより強かったのです。

………………

 身近なもの、手ごろなもの、肌に触れられるものはよく知っている縮み志向の日本人は、いったん自分の国から外の拡がりの空間に出ていくと、意識構造も、行動様態も、突然変わることがあります。つまり繊細で美しいものを好み、礼儀正しい日本人が、広い海に出れば、倭寇のようになるのです。しかし、その倭寇までもやはり日本人的で、外の世界には、よく耐えることができません。明の官軍と勇敢に闘って杭州湾の舟山列島を占領しますが、三ヵ月も経つと、それを捨てて、そのまま引きあげるという次第です。

内と外の二つの世界

 ここから日本特有の「内」と「外」の観念が作られるのです。「内」とは縮みの空間で、自分がよくわかる具象的な世界。経験し、肌身に感じられる小さな世界なのです。それに対して「外」は拡がりの世界で、抽象的な広い空間です。だから、日本人は何を見ても、すぐ内と外に分けて考え、行動する傾向があります。どの国でも、そういう区別はありますけれども、その程度が問題です。

 (中略)世界から見ると、日本はウチです。ですから、外国でよく非難の的になる。ジャルパックの海外観光客よりは国内の旅行者のほうがもっとエチケットをよく守ります。ソトに出れば出るほど日本人の本来的な特性は稀薄になって変わっていくのです。何よりも「旅の恥はかきすて」ということばがあるように、外と内の倫理は別なものになるのです。

 日本人は坪庭のようにウチの庭を作るときは天才ですけれども、広い空間に設計された公共のソトの庭である公園は、どうもうまくありません。ハイドパークであれ、セントラルパークであれ、日本のそれとは比較になりません。個人の家の床の間にはよく洗練された美が漂っていますが、広い都市づくりには全体的な均衡も美もありません。ウチの日本とソトの日本はこれほどに違うのです。「枯野の露に残る虫の音」(良阿)という付句があります。小さい虫の音はのがさずに識別して鑑賞する敏感な耳をもっている日本人でも、いざ公共の場所の大きなスピーカーから吐き出される騒音には無神経なのです。新宿に行ってごらんなさい。世界中の都市で、あんな不作法なスピーカーによる商品の宣伝や政治演説がカクテルされている街はまずないでしょう。ですから、日本人は「人工の庭園は国宝として大切に保存していながら、瀬戸内海などの自然の景観を破壊し、大事にしないのは、なぜだろうか」というサイデンステッカーさんの嘆きが起こるのです。

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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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