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椎名誠氏が本会の活動に言及
 月刊誌『新潮45』2014年1月号で、作家の椎名誠氏が本会について言及しています。連載エッセイ「不眠を抱いて」第10回より。

――――――

 音の遮断、ということも質のいい睡眠に欠かせない大事な環境整備だ。安普請の家で隣りの生活音が常に聞こえてきたり、盛り場近くに住んでいて、深夜までカラオケの音が低音の振動までまじえて聞こえてくる、などという劣悪な環境が現実にあり、そこで寝なければならない人がいる。よほど神経が太くないかぎり質のいい睡眠は得られないだろう。就寝時間である夜の騒音に対する関係者の鈍感ぶりと、そういうことを取り締まる思考や法令などが先進国のなかでは日本はとくに遅れている、と「拡声器騒音を考える会」など生活騒音問題を追及するいくつかの民間団体などが指摘している。

――――――

 「拡声器騒音を考える会」は本会の07年までの名称で、しかも「夜の騒音」だけをテーマにしているわけではないのですが、まあ、それはそれとして椎名氏のようなメジャーな作家に言及してもらえると、本会の一会員としてうれしいです。


 ※追記:「不眠を抱いて」は『ぼくは眠れない』と改題して新潮社から発売中。会の名称は「静かな街を考える会」に訂正されていました。


 もともと、椎名氏と本会には縁があるようで、私はリアルタイムでは知りませんが、本会が1987年11月に横浜で開催したシンポジウム「ニッポンの音・日本人の耳」にもパネリストとして登壇して、こんな発言をしています(機関誌『AMENITY』5号より)。

――――――

 僕は物を書く商売ですが、拡声器騒音のせいで、うるさくて仕事が出来ないというわけではありませんが、昔から音や光、あるいは臭気といった外からの刺激に対して色々考えることがありまして、やはり不愉快な、あるいは苦痛を感じるものはいやなんです。中でも都会生活をしていて一番被害を受けているなと明らかに感じるのは拡声器騒音だと思います。

 最近発生源の人達のポジションを考えてみたら、お役人が多いことに気がつきました。僕の家は東京の小平市ですが、引越して十八年の間に市の至る所に高い柱が立てられ、スピーカーが取りつけられ、しょっちゅうそのスピーカーによって色々な指示を受けているんです。例えば先達は朝八時大音量で、まるで雷鳴みたいに天からのスピーカー音が始まったんです。災害放送かと思って耳を澄ましていたら「今日は交通安全週間の初日です。皆様、車人に気をつけて一日暮らしましょう」って言われちゃったんです。春の防犯デーにも「鍵をかけてから家を出ましょう」といった放送がありました。一体これは何なのだろうと考えました。親切あるいは義務あるいはおせっかいなのか。おせっかいと考えると一番わかり易いんです。

 それから騒音の発生源で最もうるさいのは警察です。昔、日本橋のデパートがある四つ角で高い所から、お巡りさんが拡声器を使ってディスクジョッキーをやっていました。橙で急に横切った車にそのナンバーを言って「危ないじゃないか」って言ったり、「ほらほら、そこの白いコートのお兄さん、そんなに急いでどこ行くんですか」とかね。言われた人はハッとしたりしてとても異様な風景でした。

 地下鉄の車内も異常です。「降りる時は順序よく」「人を押しのけないように」「ドアがあいてから降りるように」(笑)まさかそうは言わないか(笑)、「手をはさまれないように」「電車とホームのすき間に落ちないように」等々。やっぱりおせっかいです。さっきの交通安全週間、防犯デーと同じレベルのおせっかいです。市役所に言われなくても鍵はかけるものだし、手をはさまれる人は言われたからって、はさまれなくなるわけでもないんです。このおせっかいは一体何なのか。我々を幼児扱いしていると考えていいと思います。子供扱いなんですよ、早い話が。このことが必要以上の騒音に結びついているのではないかと思いますね。

 それからもうひとつ。日本人の感覚・感性は世界的に見て、ちょっと特殊・異常じゃないかと思いますね。音に対して極めて鈍感な民族だと考えます。だいたい大きな音に対しては聞いていないんじゃないか。右翼が大きな音をたてて走ってますけど、今日はひとつじっくり聞いてやろうなんて人はいないでしょう。そうするとあの送り手と受け手の関係っていうのは最も悲しい超日本的な鈍感と押しつけの構造であって、もしかして幼児化より更に問題のある日本人の感性にまで結びついてくるのではないだろうか。声の出るハサミとか、水をやると「ありがとう」って言う植木がある(笑)そうですが、もうここまで来るとどうしようもない。

 この間小っちゃな子がピヨピヨサンダル、歩くとピヨピヨって音がするのありますよね、あれをはいてお母さんに手を引かれて歩いていました。子供に良かれとはかせているんでしょうけど、そうすると子供は自分の囲りが常にピヨピヨピヨピヨと言っているわけで、騒音発生源の鈍な精神を作って行くと思いますね。あれを履いていると、父とあるいは母と散歩に行っても、例えば秋の虫の音なんかが聞こえないわけですよ。常にピヨピヨの音をしながら歩いている散歩の風景っていうのは殺伐としたものだと思います。普通の音のしないサンダルはかせて、今、虫が鳴いているじゃないか、じゃ一体何の虫なんだろうって所から親子の会話が出てくるんですよ。そういうものをぶちこわして行く商品、しゃべるハサミ、植木、音の出るサンダル、この状況はもしかすると発生源のはっきりしている拡声器騒音なんかよりも、問題の根は深いような気もしますね。

シンポジウム.jpg

――――――

 シンポジウム、なんて派手なことがやれていたというのが、一番の驚きです。今よりも30年近く昔のほうが、まだしも「音」について考えよう、警戒していこう、という意見がわかってもらえる世の中だったというわけです。
 こういうシンポジウムやパネルディスカッションなどは、90年くらいまでに何回か開催されたようですが、そんなことをしても何も変わらない、世の中は相変わらず人を幼児扱いし、やかましくなる一方だ……という挫折感しか残っていないのが現状です。

 この発言の中に出てくるしゃべるハサミや植木、なんていうのは、私はちょっと記憶にないのですが(ほんとにそんなものがあったのか?)、うれしいことにピヨピヨサンダルは最近、ほとんど見かけないような気がします。でも、昔よりましになったのはそれくらいで、そのほかの「音」はますますエスカレートするばかり。

 椎名氏は、本会の会員でもある哲学者・中島義道氏の著書『醜い日本の私』文庫版(09年)の解説でも、「音」や「景観」の問題を指摘しています。

――――――

 (前略)

 中島氏が一九九六年に洋泉社から出版した『うるさい日本の私』のなかで、日本の公共施設などでのけたたましい拡声器騒音のことについて鋭く、しつこく、怒濤の寄り身で語っているのを初めて読んだとき、ぼくはひそかに快哉を叫んだ。

 (中略)

 拡声器騒音。

 わかりやすい例でいえば、そこらにあるエスカレーターのまわりに一日中流れている「あぶないですから前をむいて、ステップ台の真ん中に立って、手すりにつかまって、お子様の手をひいて……」などとエンドレステープがずっと繰り返し喋っているようなやつだ。

 夕方になると、暗くなるなら子供は帰りなさい、とか、(大人に対して)火災になるから火は消すように、とかスピードを出すと危険であるからブレーキを踏みなさい、とか混雑しているので人込みに気をつけて歩きなさい、とか電車が止まったら開くドアに手を挟まれないように注意しなさいなどと、繰り返し流されるテープによる拡声器の「命令だらけ」の街の風物? である。大音量のわりには誰も聞いていないやつである。

 公共施設などにいくとこの手の「ああしろ、こうしろ」のおせっかいアナウンスがいたるところにあり、それが干渉しあって何がなんだかさっぱりわからないような場所が沢山ある。けれど、この公共の空間を侵す異様なそれらに対して日本の大人たちはびっくりするほど寛容だ。いや、違うのだ。ただひたすら無関心、つまりは絶望的に鈍感なのだ。

 「拡声器」という文字からしてすでに醜悪なイメージを持つ機械で、本来静かであるべき公共の空間に一方的に巨大な音(声)をだす暴力的無神経さに疑問をもつ人が、文人や芸術家と言われる人にあまりいない、というのもどういうことなのだろうか。

 ぼくが知っているかぎりでは、作家の城山三郎氏を中心に「拡声器騒音を考える会」というような組織があって、市民活動をしていた。そのグループが出しているパンフレットなどを見て頼もしく思ったものだけれど、今は「静かな街を考える会」と名を変えて継続しているようだ。

 (中略)

 本書の第一章では、ごく普通に東京の町のありふれた商店街を例にして、その醜さを淡々と書いている。「音」のときもそうだったが、この章を読んで、何がなんだかさっぱりわからない人も多いのだろうと思う。そしてそういうマジョリティにこの本の「本意」を理解してもらうのは大変な事だと思う。

 (中略)

 「わからない人」にはいくら説明しても絶対わからないだろう。それは「音」の本と同じである。

 この本で、コンビニにおけるアルバイト店員のバカ丁寧な対応言葉をとりあげている。

 どんな客がきてもあのカウンターにいる娘らは両手を前に組んで「いらっしゃいませ、こんばんわあ」などという。その機械人形のような、丁寧ではあるけれど日常では彼女たちはおそらく絶対使っていない現実ばなれしたその言葉が誰にでも同じ調子で発せられる風景に、中島さんは煩悶する。

 (中略)

 たしかにアメリカのデリカテッセンなどに入ると、店主は絶対に笑顔など見せない。色黒で大柄なぼくなどはむしろ敵意に満ちた警戒の目でみられるのが普通だ。アジア人のわけのわからない男が店にくるのは迷惑だ、という露骨な顔をして警戒して見ている。カウンターの下には恐らく銃がある。そこには限りない人間のリアルな感情そのものが働いていて「嘘」がない。

 もうすこし緊張感のないヨーロッパのスーパーなどでも店員はいたってぶっきらぼうで、感謝の言葉なんかない。労働に疲れているからだ。でもそのほうがいかにも同じ「人間」で、こちらへの対応は冷淡ではあるけれど不快ではない。

 日本のコンビニのわけへだてない果てしない丁寧言葉の「気持の悪さ」は「人格」と「感情」のない人間との没コミュニケーションに触れることの気持の悪さだ。同じことは旅客機の客室乗務員の、世界にも例のない、終始絶え間のない満面の(意味のわからない)笑顔と、絶対に客にさからわない隷属的な対応にも通じる。共通しているのは「嘘」への不快感だ。

 (中略)

 結局今後もこの本で述べられている「マイノリティにとって腹だたしいもの」はそれを「正しいと思っているマジョリティ」に絶対打ち勝つことはできないのだ、ということを納得させられて、いまいましくページを閉じなければならない。

 でも、希望はある。こういう本が「文庫」となって、元の単行本よりはもっと沢山の人の目に触れる可能性がある、ということだ。

 (中略)

 (追記) 「静かな街を考える会」が存続していることを知り、ぼくも入会を考えている。

――――――

 結局、椎名氏からは入会したいという連絡は今に至るまできていないようですが、まあ、これは解説を書いたことのリップサービスなんでしょう。
 それはそれでしょうがないことですが、まさにここに書かれているとおり、日本の「音」や「景観」の「醜さ」がわかる人とわからない人、それに腹を立てる人となんとも思わない人(むしろ、その醜さを喜んでいる人)は、完全に二分されるんでしょう。
 その比率は1対9どころか、0.01対9.99より圧倒的なもので、私のようなごく一部の人間が「拡声器うるさい」「日本の接客はおかしい」「建前ばかりの看板だらけで汚らしい」といくら言い続けても、虚しいっちゃ虚しいばかりです。

 椎名氏が書いているとおり、いまいましさだけがつのるなか、本当に「希望」なんてものが見えてくる日がくるのかなあ、と自問自答してしまいます。
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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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