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これからは「他人に自分の気分を決めてもらう時代」?
 また、人様の発言の尻馬に乗ったエントリーになりますが、月刊誌『新潮45』2月号を読んでいたら、臨床医の里見清一という方のエッセイにこんな一文がありました。

――――――

 もともと大衆の「気分」で動くのが民主主義であって、これはどう考えてもその欠点であるから、「気分」をけしかける人間は眉唾と考えておけば間違いは少ない。だから、左右問わず、デモやなにかで「怒れ!」とか使嗾(しそう)する奴らは信用しがたいというのが私の判断基準である。絶叫デモはテロと同じという石破幹事長の発言は、さほど間違っていないと私は思う。

――――――

 石破幹事長の「絶叫デモはテロと同じ」発言に、「さほど間違っていないと思う」と消極的であっても同意している人を、初めて見ることができました。
 私は「石破の主張に反対の賛成な~のだ!」というエントリーで書いたように、「『絶叫デモはテロと同じ』はその通り。ただしそれを言うなら、まずお前たち政治家が選挙カーからの連呼や街頭演説をやめろ!」と思っているのですが、文化人だの知識人だの論客だので同じように発言している人を、これまで見たことがありませんでした。やっと会えたねby辻仁成!

 まあ、私は新聞は朝日を読んでいるだけ(なぜ朝日かというと、いしいひさいちの『ののちゃん』があるから)、雑誌は特に読んでいない(『新潮45』はちょっとした理由があって、最近目を通すようになっただけ)、おまけにテレビのニュース番組はほとんど見ません。だから、もしかすると他にも「デモはテロ」発言に同意している人だって少しはいるのかもしれませんが、自分では初めて見つけたのでとてもうれしかったですね。

 このエッセイの主題は気分に流されることの危うさで、「日本人は、自分で自分の気分すら決められなくなっているのかもしれない」という内容なのですが、もう少し引用します。

――――――

 「気分」を良くすることは、それ自体は大事であるが、これを基準にして物事を決めるのは危うい、という結論になる。言うまでもなく「気分」は移ろいやすいからである。しかし最近、もっと恐ろしいことを聞いた。日本人は、自分で自分の気分を決めることができなくなってきているというのである。

――――――

 この後、「倍返しだ」とかなんとかいうセリフが流行ったドラマ(私は見たことないので知らん)の人気を例にあげ、

――――――

 日本人は、自分で「何が面白いのか」を判断できなくなってしまったようだ。(中略)これが本当とすると、これからは「他人に自分の気分を決めてもらう時代」ということになる。どうだ怖いだろう。

――――――

 と続きます。

 私は、日本人は最近になって「自分で自分の気分を決めることができなくなってきている」のではなく、昔からそうなんだと思います。そこはちょっと違うのですが、でも、最近はさらに加速度をつけ「他人に自分の気分を決めて」もらいたがるようになっているとは思います。
 そういう病状の深刻化に拍車をかけている「病原菌」の一つは、間違いなく町中にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音です。

 ちょっとコンビニやスーパーに買い物に行ったり、飯を食いに出かけたりしただけで、大音量の音楽や異様なまでにハイテンションな宣伝放送で、「みんな楽しいでしょ~! 幸せだよね~っ! ランランラン!」という気分を無理やり押しつけられるのが日本という国です(わしゃちっとも幸せじゃないよ)。少し静かな店を見つけたのでネットで評判を見てみると、「BGMが小さくて寂しかった~!」「あれじゃ買う気がしない!」「もっとにぎやかな店にしてほしい!」「店員さんに元気がな~い!」などと、びっくりするような口コミがあふれているのは当たり前です。

 防災無線や商店街のスピーカーからも音楽を聞かされ、最近では役所や図書館などで音楽を流すことも増えてきました。今の季節は灯油の移動販売車が、やかましいアナウンスとともに『たき火』だの『雪やこんこん』だのを鳴らしながら走り回りますが、これだって「季節の風物詩」とか言って喜ぶ人ばかり。「灯油の音楽を聞くと、冬だって感じするよね~」などと言うのですが、こういう人は「音楽を聞かされないと冬だと感じられない」のでしょうか? それなら一度、検査を受けに病院に行ったほうがいい。

 反面、例えば電車に乗ると「足元にご注意ください」「ドアが開きますご注意ください」「電車とホームの間が広く開いていますご注意ください」「揺れますのでご注意ください」などと、絶え間ない注意放送で「怖いだろ! 恐ろしいだろ! お前はなんでもかんでも注意してやらないと駄目なバカなんだよ!」という、マイナスの気分を植えつけられます。
 それなのに、駅を出て一歩店に入ると「みんな楽しいでしょ~! 幸せだよね~っ! ランランラン!」の大合唱になるのです。こんな支離滅裂な環境でまともな情緒をはぐくんだり、「気分」に流されない冷静な判断力を養ったりすることができるわけないでしょう。

 私は先日、自治体の出張所に苦情を言いました。その出張所のフロアにBGMが流されていて、隣接する図書館の中にまで聞こえてくるという状況に、もう耐えられなくなったからです。
 出張所の責任者という人と20分くらい議論してびっくり。「なぜ、自治体の出張所に音楽が必要なんでしょう」という質問に返ってきた答えは、「音楽があると、なんとなく安心するという市民の声が多いので流しています。特に女性からですね。また、ソファを市民のための談話スペースとして開放しているのですが、音楽がないと会話が弾まないという声もあるんです」というものでした。

 「その『なんとなく安心する』というのは、具体的にはどういうことなんでしょうね。音楽がないと不安で不安でしょうがないということなんでしょうか? だったらその人は少しおかしいですよね。女性から音楽があると安心するという声が多いというのは、音楽がないと痴漢が出るとか、そういうことなんでしょうか? 実際に被害があって音楽を流したら抑止効果があったとか、そういう事実でもあるんでしょうか? それから、音楽がないと会話が弾まないと言いますがそれは単なるわがままで、そんなに音楽を聞きながら会話をしたい人は自宅で話すか、喫茶店にでも行けばいいんじゃないでしょうか。ここは市の出張所で別にコンサートホールじゃないんだから、私は音楽をやめるべきだと思います」と話しました。

 責任者からは、どの質問にも明確な答えは返ってきませんでした。つまるところ「なんとなく」ばかりです。市民の「なんとなく」の要望に軽々しく応えて、ただ「なんとなく」音楽を流しているだけなのです。

 その後、様子を見ていたところ、「最低でも可能な限り音量を小さくして、音楽が図書館の中に聞こえないようにしてください」という要望は通ったようです。でも「音楽を流すのをやめてくれ」は認めてもらえませんでした。今でもその出張所には、聞きたくもないイージーリスニングの曲が流れ続けています。
 まあ、私は出張所そのものに用事があって行くわけではないので、フロアを横切る数十秒だけ我慢すればいいこと。ボリュームを絞って、図書館の中で音楽を聞かされることがなくなったのだから、それでいいやと判断してもう苦情は言わないことにしました(もちろん、また音量が大きくなったらすぐに言います)。

 日本人が、すぐに「なんとなく」という「気分」で物事を判断してしまう根底には、こういう「音」を含んだ周囲の環境に対する、徹底した鈍感さがあるのは間違いないでしょう。
 抗生物質を投与し続けるとだんだん効かなくなり、効果を上げようとすればさらに大量に投与し続けるしかなくなる。これと同じように、日本人の耳には「ああしろ、こうしろ」や「こういう気分になあれ!」と指示する大量の「音」が投与され続けて感覚が麻痺し、もはや「他人に自分の気分を決めてもらう」ことしかできなくなっているわけです。
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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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