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「お前も子どもの頃はうるさかった」と言われてもね
今(夕方の4時半)、相変わらずうちの周囲は小学校低学年と中学年くらいのガキの奇声が、キーキーギャーギャー響き渡っています。
こういった奇声が始まる時間は日によって変わりますが、平日の場合はだいたい3時40分頃から。低学年が学校から早く帰宅する日の場合は2時前後から、うちの周囲は「ここは動物園か」としか言いようのない、「野性の叫び」がとどろく一帯に成り果ててしまいます。
日が短くなったこともあり、今の季節は5時半頃まで我慢すればなんとか収まりますが、夏場はそれが7時頃まで続くのです。地獄です。

それにしても考え込んでしまうのは、こういう子どもたちが発する叫び声の異様さです。

「キエー!キエー!」「フギョウゲェェェ!」「ウギャー!ウギャー」「ギョエーー!」など、完全に裏返った声で、まるで首を絞められているんじゃないか、殺される前の断末魔なんじゃないかと思ってしまうような鬼気迫る叫び声を、いつまでも上げ続けています。
それが何かの遊び(鬼ごっことか、かくれんぼとか)をしていて、興奮するからつい出てしまう声だというならまだわかるのですが、どうやら観察しているとそうでもない。とにかく、ひたすら走り回りながら(あるいは向かい合って、まるで奇声合戦でもするかのように)「ウゴォーーー!ウギャォーーー!」と叫び続けていたり、ただブランコに乗っているだけなのに「キイイイイイー!キイイイイイー!」と奇声を発し続けていたりして、なんというかやはりちょっと異様なのです。
おそらくアニメかゲームの真似なのだろうと思いますが、突然、体を硬直させて「ダーン!ドギャーン!ズギャーン!バウウウウ!グエエエエエ!」などと大声で叫びながら何かのポーズをとり、その繰り返しを延々1時間以上続けていることもしょっちゅうです。

自分の目の前にいる相手と話すのに尋常ではない大声で叫んだり、逆に100メートルも先にいる相手に何かを言うとき、駆け寄って話せばいいのにその場を動かず、とんでもない絶叫を張り上げて会話をしたり……もう、やることが無茶苦茶。
付け加えれば、鉄製のごみ収集箱に上がってダンダンダンダン踏み鳴らしたり、立ち入り禁止の芝生の中を走り回ったり、さらにその「立ち入り禁止」と書かれた看板を引っこ抜こうとしたり……。

こういうふうに「子どもがうるさい」と言うと、必ず出てくるのが「お前だって子どもの頃、うるさかったはずなんだから文句を言うな」という声です。
確かに、自分が子どもだった頃、どんなふうに「うるさかったか」を覚えている人はいないでしょう。「お前だって、あんなふうにうるさかったはず」と言われればそうかもしれません。特に私などは、とっくにアニメ世代、あるいはゲーム世代などと言われる子どもだったのだから、今の子どもと同じような「異様な奇声」を上げ続けていたかもしれません。

でも、「お前も同じだったんだ」と言われても「だから、何?」と言うしかありません。「昔も同じだったんだから、今の状況に文句を言うな」という屁理屈に、どんな有効性があるんでしょうか。「それを言っちゃあ、おしめえよ」と返すしかありません。
「昔からこうだったんだ」が有効だと言うなら、昔のことをなんでも肯定すればいいのでしょうか。それなら極論すれば原発だって使っていいし、戦争だってすればいいし、身分制度を復活させたっていいし、何をしたっていいじゃないかということになってしまいます。それでいいんですかねえ(だから私は、その時代の負の側面をまったく見ようともしない「昭和ブーム」なんてものが大嫌いです)。

さらにおかしいのは、「昔も今も子どもはうるさいのが当たり前。元気に遊んでいる子どもに文句を言うな!」という言い方がのさばる一方で、「最近は、犯罪が低年齢化している。子どもの犯罪が増えた怖い世の中だ! 今の子どもは何を考えているかわからない!」などと言う人がいることです。「昔も今も子どもは同じ」と「昔と今で子どもは変わった」。こういう完全に矛盾することを、同じ口から発して平気な顔をしている人が、どれほどたくさんいることか。

私自身は、「昔と比べて今の子どもが大きく変わった」とは思っていません。一時期「ゲーム脳」などという本がベストセラーになったようで、私はこの本は読んでいないのでただの印象批評ですが、たかが10年、20年程度のスパンで人間の「脳」が何かに影響されて、人の性質そのものを大きく変えてしまうなどあり得ないということは、医学の素人でもわかります。

ただ、人間の脳や性質そのものは変わらないとしても、子どもが生きている「状況」や「生活環境」などが、時代とともに変化するのは当然のこと。その影響で「子どもたちの態度や、それが周囲に及ぼす影響」も変化して、「昔はこれでよかったけど、今はちょっと考えたほうがいいよね」という「問題」が生まれるのも当然のことでしょう。社会というものは、そういう問題に対し一つひとつ真剣に取り組むことで、「少しずつでも進歩していこう」とするものじゃなかったのかな?

子どもの騒音について、あえて「昔」と「今」を比較して言うのであれば、私は以前と比べこんな「変化」があって、それによる騒音の深刻化という「問題」が生まれているのではないかと思っています。

・今の子どもは体格がよくなって、同じ年齢でも昔の子どもと比べ、ただでさえ声がでかくなっている。それで昔と同じように叫ばれたら、周囲はたまったものじゃない。

・昔は子どもでも放課後、家の手伝いをしたり、買い物に行ったりしていたが、今はそんなことをする子ども(させる親)が少なくなった。そのぶん、放課後になると野放図に遊び回る子どもが増えて、住宅地がよけいにうるさくなった。

・オートロックのマンションなど、「他人を絶対によせつけるものか」と過剰にセキュリティを強化した住宅が増えた。こういう建物の中では遊べないので、必然的に公園やちょっとした空き地、車が少ない路上などに子どもが集中して、その周辺は飛び抜けてうるさくなってしまった(マンションの住人は、そういう周囲の苦しみのおかげで静かに暮らせているくせに、その恩恵に何も気づいていない)。

・「ゲーム脳」などと非科学的なことは言わないけれど、確かに子どもの「奇声」や「絶叫」に、ゲームやアニメなどの影響はある(どんなものでも、なんらかの「影響」を与えるのは当たり前のことです)。あまりにも「キエー!キエー!」などと、明らかにゲームかアニメあたりの影響を受け、耳障りな奇声を発している子どもの親は、もう少しその声が周囲に与える影響をよく観察したり、迷惑さを理解したりしてほしいのに、何も気づいてない(気づこうとしない)ようにしか思えない。

・昔だって「うるさい」のが嫌いな大人は大勢いて、そういう大人は子どもを「うるさい!」と怒鳴ることができたのに、今は少しでも大人が子どもに向かって何か言おうものなら「不審者だ!」「犯罪者だ!」「子どもの権利の侵害だ!」などと後ろ指を指されかねないので、何も言えなくなってしまった(私自身、中学生の頃に友人と立ち話をしていたら、目の前の家から顔を出したおっさんに「うるさい!」と怒鳴られたことがあります。それなのに、今、私が受けている子どもの被害に対しては、直接、行動をして「怪しい奴だ!」などと言われるとたまったものじゃないので、張り紙をするなど湾曲的な対応しかできません。まあ、それでもできる限りのことをしている最中で、数カ月前と比べれば騒音も少しましになったのですが)。

まだまだあるのですが、「問題」の羅列はこのへんにします。

私は別に社会学者でもなんでもないので、これらは別にデータに基づいて導き出した問題や課題というわけではありません。あくまでも私自身が、子どもの騒音被害から受けている立場で実感した「印象」でしかありません。
きちんと調査をすれば、例えば「『子どもが手伝いをしなくなった』のは確かだが、そのぶん、小さい頃から塾通いをする子どもが増えたから、むしろ放課後、外で遊ぶ子どもは少なくなっている。つまり、それが原因で『子どもがうるさくなった』ということはない」――という結論が出る可能性だって、十分にあると思います。
それならそれで、「『子どもがうるさい』という声が増えたようだが、その原因はなんなのか。対策はあるのか」と検討する課題の中からこの問いを排除した上で、さらに突き詰めて検証したり、具体的な対策を考えていったりすればいいことでしょう。

それなのに、教育だの子育てだのに関わっている「行政」や「学者」「先生」「専門家」といった連中は、子どもの騒音に悩み、苦しんでいる人の声を聞き、「それについて、自分たちができることはないだろうか」と真剣に調査をしたり、考えたりして、こういう問題を解決するための糸口を見つけようとはしません。
彼らが口にするのは、この1年くらい前の新聞の記事で「NPO法人フローレンス」の駒崎弘樹という人物が言っているような「極論」と「感情論」ばかりです。何も手につかないほど子どもの騒音に悩み、疲れ果てている人に向かって、「寛容になれ」という「不寛容さ」を押しつけてくるだけです。

子どもの騒音記事.jpg

彼らが本当に「様々な人が存在する『公共』空間には、共存する義務がある」と考えるのであれば、「子どもの声がうるさいからと『学校を閉鎖したり』『子を電車に乗せてはいけない』というルールを作っていけない」などと極論を持ち出して、さも「子どもがうるさいなどと言う奴は、こんなとんでもない要求をしてくる異常者なんですよー」とアピールしたり、「(子どもがうるさいという流れに)歯止めをかけなければ」などと、いかにも情緒的なだけの発言に逃げたりしないでほしい。
具体的な問題や課題から目を背けるのではなく、「専門家」と称するのならしっかりとした調査や研究の一つもして、本当の意味で「様々な人が共存できる社会」を目指してほしい。そう言えるだけの「義務」をきちんと果たしてみてほしいものです(それにしても露骨な誘導記事ですね、朝日新聞の山内浩治記者さん!)。

――――――

そういえば先日、家の近所を歩いていると「ウォー!ウォー!ワオーーーー!」という、何十人もの男の野太い叫び声が聞こえてきたので驚きました。いったいなんなんだと思いながら見ると、近くの中学校の野球部員たちが、数百メートル離れた大きな公園に行く途中だったようです。

なんなんだろうなあ。ただ「歩いているだけ」なのに、どうして彼らは絶叫しなければ気が済まないのだろう……。

野球部の生徒が、例えばノックを受けながら「もう一丁!」などと叫ぶのは、まあわかります。あるいは練習で走っているときに、「イチニ!イチニ!」などと号令をかけるも、なんとか理解します(私自身は、そういう日本的な体育会系のあり方が大嫌いですけれども)。

でも、この例のように「ただ歩いているだけ」なのに、住宅地のど真ん中で絶叫し続ける必要がどこにあるのでしょうか。しかもこれは引率している顧問の先生が自ら「ウォー!ウォー!ワオーーーー!」と大声を上げ、生徒たちがそれに合わせて「行軍」しながらひたすら叫び続けていたのです。
もう、わけがわからない(笑)。

結局、こういうふうに場所柄すらわきまえず、意味もなく子どもに「行軍」や軍隊調の絶叫をさせてよしとする教育のあり方というものを根本から見直さない限り、日本の「絶叫文化」というものは、いつまででも続くんでしょう。こういう文化がなくなる日が来るとは、到底思えないところが悲しいです。
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Author:H・K
市民グループ「静かな街を考える会」会員H・Kのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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