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「表現を伝える手段」は自由ではない
「表現の自由」と「表現を伝える手段の自由」、あるいは「言論の自由」と「言論を伝える手段の自由」は、同じではありません。
これをはき違えている人が、実に多い。
言うまでもなく「表現の自由」や「言論の自由」は、世の中で最も大切なことの一つでしょう。でも、その「表現」や「言論」を伝える「手段」までが、なんでも自由だと言われたら、たまったものではありません。

表現や言論というのは、主に視覚と聴覚で伝えられるものでしょう。
そのうちチラシやビラといった印刷物のように視覚に訴えてくるものなら、もし家の郵便受けに勝手に入れられたとしても(というか、それは当たり前の日常ですが)、読みたい人は読めばいいし、読みたくない人はそのままごみとして捨てればいい。もちろん、捨てるのは面倒ではありますが、ほんの何メートルか歩いてごみ箱に放り込めばいいだけのことです。
テレビやラジオで放送される内容なら、見たくなければスイッチを入れなければいい。
ネットの情報だって、読みたくなければブラウザを閉じたり別のページに移動したりすればいいだけです。もし、このページを読んでいるあなたが「こいつは、なんて不快なことを書いてるんだ」と思っても、不快なら読むのをやめればいいだけ。実に簡単なことです。

でも、「音」の情報は違います。どんなに強く耳をふさいでも「音」というものは消すことができないし、ましてや本会が特に問題にしている大音量のスピーカー音というのは、相手が「無理やりにでも聞かせてやる」という意思で大音量で流しているのだから、なおさら「受け手側で消してしまう」ことができないのです。

政治家や役人は何かというと「表現の自由だ、言論の自由だ」と言い、この言葉を盾に「手段」まで自由であるかのように、駅前や街頭でやかましい演説や連呼を繰り返したり、防災無線を乱用したりします。マスコミも「民主主義のためなら当然だ」とばかりに、こうした「音の乱用」に疑問を呈することすらしない。
だから民間企業や一般人までが、「どこでどんな音を出してもいいんだ」と勘違いして、駅前には大型ビジョンが乱立し、住宅地では廃品回収や移動販売がうろうろする。そういう状況が、改善されるどころかますますひどくなる一方です。
そもそも、こうした民間のスピーカー音のほとんどは、法律や条例に照らし合わせると明らかに違反しているのに、その状況をいくら訴えても、行政は動こうとしないのだからおかしな話です。
たいていはそういう場合、「相手も商売ですし」だの「町の活気のためにはやめろとは言えませんし」だのといった理屈が付けられるのですが、別にスピーカー音を鳴らさなければ商売ができないわけでも、町に活気が出ないわけでもない。そもそも「表現や言論の自由のためであっても、こういう音を出すのは違法です」と法律や条例を制定しているのは政治家であり役人なのに(音には規制が必要だ、という最低限の認識はあるくせに)、その内容を遵守させようという気がまったくないのだから異様としか思えません。

別に役人や政治家だけの問題ではありません。「音」について、本当に日本人は鈍感です。
先ほど、チラシやビラが家の郵便受けに勝手に入れられたら、というたとえを出しましたが、望んでもいない「音」を無理やり聞かされるというのは、こうしたチラシやビラを郵便受けに入れられるのではなく、乱暴に丸めて家の中に放り込まれるのと同じです。あるいは、自分の家の壁に勝手に張り紙をされてしまうのと同じです。こんなことをされたら、普通は怒るものでしょう。
でも、たいていの日本人は「音を押しつけられること」には驚くほど寛容で、どんな音を聞かされても怒りもしない。「大切な話だから」だの「安心・安全のためだから」だの「町の活気のためだから」だの「相手も仕事だから」だの「便利だから」だの、ありとあらゆる理屈を(無意識のうちに)こねて、うるさい音を「出して当然、受け入れて当然」と考え、人にも「そうあるべきだ」と要求します。

こんなことを書いている間にも、参院選、都議選がもう目前ということもあり、どこの政治家かわかりませんが、演説の車が家の前を通っていきました。
どんなに下品なデザインの演説カーであっても、ボディに政党名や名前を書いたりするだけで、音を鳴らさずに黙って通ってくれるなら、家の中にいれば「無理やり演説を聞かされる」ことはないし、道ですれ違っても無視することは簡単です。その政治家に興味が出た、支持したいと思った人は、あとでゆっくり政策などを調べればいいでしょう。
でも、大音量のスピーカーで演説を垂れ流されると、そういう「選択」すらできません。聞きたくなくても無理やり聞かされる音というのは「暴力」でしかありません。
そんな「当たり前」の認識を、1人でも多くの人が持ってください。
どんな音でも無理やり聞かせて当然というのが、本当に「民主主義」ですか?
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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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