インスタントラーメンのような黙祷強制放送
いただきました、震災黙祷放送!
といっても、私の住む市ではいい意味で拍子抜けしましたが。

1回目の去年は、音量が小さいながらも「黙祷しろ」というアナウンスとサイレンの合わせ技でした。
今年はどんな放送になるのかと思いながら、時間がきて外を観察するために家の窓を開けたのですが、なぜかそれらしい音がまったく聞こえない。
耳をすますと、ようやく遠くのほうからサイレンが聞こえてきました。

それだけ。
ずいぶん離れた場所を、消防車が1台走っていった――という程度のサイレンがかろうじて響いてきただけで、アナウンスらしきものは聞こえませんでした。
うちの周囲にある3本の防災無線は何も流していなかったようですし、どこから放送したのかまったくわかりません。とにかく、「何かの間違いでは?」と思ってしまうほど静かだったのはよかった。

黙祷というのは、おごそかにしてこそ価値があるものでしょう。本来なら、自治体が公民館を会場にしたり、宗教団体が寺や教会を提供したりして、宗派など問わず、黙祷を捧げたい人はそういう場に行って捧げるべきだと思います。
もしくは、全国の寺や教会が3月11日の2時45分になったら一斉に鐘を鳴らしたりするのは「ふつーに」いいことだと思います(なぜ宗教関係者は、そんな簡単なことすらしないんだ? それで宗教の意味があるのか?)。
なのに、けたたましいサイレンを鳴らして無差別に、人がどこで何をしていようが「黙祷しろ」と強制するなんてただ安易なだけ。
きちんとした会場でおこなう黙祷が1杯2000円のラーメンなら、サイレンで強制され、ちょっとの間黙ってうつむいているだけの黙祷なんて、1袋27円のインスタントラーメンくらいの価値しかないように思います。

なお、サイレンが聞こえている間に私の家から見えたのは、路上で遊んでいる親子が1組、歩いていた中年のおっさんが1人、自転車に乗っていた人が1人、駐車場から車を出そうとしていた人が2組。誰も黙祷などしていませんでした。

震災以降、「日本人ならみんなと一緒に黙祷しろ!」「同じ行動をとらないやつは非国民だ!」などといいたげなムードがむんむん漂っていますが、いつ、どこで、どんなふうに黙祷を捧げるかは自由でしょう。「自分の人生には、震災の犠牲者に黙祷を捧げるより大事なことがあるから捧げない」という考えだって、別に不遜でもなんでもありません。
自分がやるべきこと、自分がしたいことをして、まず自分が幸せになれてこそ、人のことを幸せにもできるんじゃないかと思います。それを強制的に中断させられて「一緒に黙祷しろ! 同じ行動をとれ! 自分より周りのことを優先しろ!」と命令されるなんて私はまっぴらごめんです(そういう「だって、みんな一緒だもん!」の考えが、どれだけ悲惨な結果を招いてきたか、いいかげんに歴史から学ぶということができないのだろうか)。

まあとにかく、年に一度のこととはいえ、来年以降もせめてこれくらい静かな放送であることを祈るばかりです(もちろん、黙祷放送なんてなくなるのが一番いいのですが)。
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カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
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