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騒音学者が褒め称える「感動ストーリー」への疑問
 以前、このブログで批判したことがある某大学の「騒音学者」様(以下・A教授)が、最近、自身のブログで次のような「物語」を褒め称えています。

──────

 隣家のおじいさまが亡くなった。話したことはなかったが、1通の手紙が縁で、ずっと素敵な方だと思っていた。

 子どもが2歳と4歳だった8年前、周りには子どもがいない静かな環境。私は「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育てをしていた。ある日、切手の無い手紙が1通届いた。それには「隣に住むおじいさんです。子どもさんの声が聞こえることがとてもうれしいです。私は耳が遠いのでぜひもっと気になさらずに大きな声で遊んでください」と書かれていた。

 私は涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった。それからは怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生きてこられた。隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした。ありがとう。

──────

 これは、朝日新聞に掲載された読者投稿だそうです。

 A教授がこの文章のどこに感銘を受けたのか、いまひとつよくわからないのですが、日頃の主張──騒音問題はコミュニケーションで解決できるのだ! 人と人とのつながりがあれば騒音は騒音でなくなるのだ! など──から考えると、次のようになるでしょう。

 ──この投書の主(おそらく主婦)は、近隣紛争の火種になりかねない「子供の声」に、神経質なほど気を使っていた。しかし、その悩みを解決したのは「耳の遠い隣家のおじいさま」からの、「気兼ねせず大きな声を出してほしい」という温かい手紙だった。この1通の手紙というコミュニケーションがあったから、子供が大声で遊べるようになり、しかも「騒音」にならずに済んだのだ。やはり、人と人とのコミュニケーションがあれば、世の中から騒音はなくなるのだ。コミュニケーション万歳!──

 しかし、この投書の出来事は、本当に「すばらしいコミュニケーション」と呼べるものなんでしょうか。私にはむしろ、ここから「コミュニケーション不全」と「想像力の不足」という二つの問題が見えてくるのですが。以下、少し考えてみたいと思います。

コミュニケーション不全

 この主婦は、「ある日届いた、隣に住む耳の遠いおじいさんからの手紙」に感激し、〈おじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした〉とまで言っています。しかし、不思議なことが一つあります。〈涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった〉と咽び泣くほどの手紙をもらっておいて、なぜ、主婦はおじいさん本人に一度も会わなかったのでしょうか?

 100kmも離れた場所に住んでいるペンフレンド(!)との文通ならともかく、隣に住んでいる者同士なら、手紙をもらった後で「温かい手紙をありがとう!」と、直接、おじいさんを訪ねて言葉を交わせばいいじゃないか。しかし〈話したことはなかった〉という表現から判断すると、この主婦が手紙をもらっておじいさんが亡くなるまでの8年間、二人は一度も顔を会わさなかったようです(そもそも、どちらかがこの地に引っ越してきたときに挨拶すらしていない!)。

 手紙を書くほどなのだから、このおじいさんに「とても人と顔を合わせることができない事情」(じつは指名手配されている、極秘任務を遂行中のスパイである、正体が狐であるなど)があったとは思えません。ならば、ほんの数歩歩いて隣家を訪ね「お手紙ありがとう!」と交流を図ればいい。なのに、この主婦は(そして、おじいさんも互いに)そのような行動はとっていないようです。
 それでいて〈隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした〉と大げさなほど感動するというのは、ちょっと「コミュニケーションの捉え方」がおかしいのではないでしょうか。

 この投書は「あー、典型的な新聞の読者投稿っすね」と言いたくなる「感動のストーリー」です。しかし、上っ面の表現に騙されず少し考えを巡らせてみれば、いくつもの理解し難い点が見えてきます。
 隣家から「温かい手紙」をもらったのに、互いに顔を合わせることすらなかった──という空虚なストーリーから浮かび上がるのは、「コミュニケーションのすばらしさ」ではなく、「この両者はなぜ、本当のコミュニケーションを成立させようとしなかったのか。コミュニケーションの意味を理解していないのではないか」という疑問ではないでしょうか。

想像力の不足

 さて、この主婦はおじいさんからの手紙をきっかけに、〈周りには子どもがいない静かな環境〉にもかかわらず、〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生き〉る方向に舵を切ったようです。
 しかし、たった一人の(しかも耳の遠い)おじいさんが〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったからといって、それがなぜ「周囲の住民すべてが『子供が大声で遊ぶこと』を認めた」という解釈になるのか。
 私には、ここがわからない。

 〈周りには子どもがいない静かな環境〉というからには、この投書の主が住んでいるのは、いわゆる「一般的な住宅地」だろうと想像できます。「周囲数十mに、この主婦とおじいさんの家しかない」というような場所であるとは考えにくいです。
 ならば、「たった一人の耳の遠い隣家のおじいさん」が〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったとしても、そのせいで他の住民にとって耐えがたい騒音が発生した可能性は十分にあるでしょう。

 もちろん、これはあくまでも可能性であり、「本当に周囲の住民の誰一人、この主婦と子供たちの大声に困ることはなかった」という可能性もあります。それならそれで結構なことです。この主婦が〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと〉という方針で子育てをしたからといって、それが現実的にどの程度の「大きな声でのびのびと」だったかは判断のしようがないのだから、結果として誰も困らなかったのであれば万事オッケーです。

 しかし、一般的な住宅地なら、家の中や庭先であまりにも〈のびのびと〉し過ぎた場合、周囲に「あの家は親も子供たちも、とても耐えがたい大声ばかり発している。うるさくてたまらない」と感じる住民が出た(そして、それに黙って耐えていた)「可能性」だって十分にあり得るでしょう。
 たった一人の「耳の遠いおじいさん」からの手紙で、そうした「辛い思いをしている人がいる可能性」を頭の中から完全に吹き飛ばしてしまうこの主婦は(そして、このようなストーリーに安易に感動してしまう人たちは)、想像力があまりにも不足していると言えるのではないでしょうか。

 もちろん、ここで疑問を呈したことはすべて「可能性」の問題であり、事実がどうだったかはわかりません。子供を育てるのに〈「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育て〉をしていたこの主婦が、一転して〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと〉と態度を変えたといっても、どの程度〈気を使って〉いたレベルから、どの程度の〈大きな声でのびのびと〉への移行だったかは、読み手に判断のしようがないからです。

 しかし、「騒音問題はコミュニケーションで解決する! 大切なのは絆だ! つながりだ!」と呪文のように唱えるのが大好きな人たちは、すぐにこの投書のような情緒たっぷりのストーリーを持ち上げて、「だから、子供の声をうるさいと言うのはおかしいんだ!」と一般化しがちです。
 「たった一人の耳の遠い隣家のおじいさん」が〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったことを一般化するのなら、「たった一人の住民が、『ちょっとうるさ過ぎますよ。勘弁してくださいよ』」と言った(そういうケースは私自身も含め世の中にいくらでもある)ことも一般化しなければおかしいはずなのに、「涙を誘うええ話」に夢中になる人たちが、そのように考えることはまずありません。

 騒音問題の解決に、コミュニケーションが重要な役割を果たすのは当然です。けれど、今回の投書のような「一杯のかけそば」的お涙頂戴ストーリーを元手に近隣騒音を語ることに、いったいどんな意味があるのでしょうか。
 私はこの投書のようなストーリーを、まるで「宗教か!」というほどうやうやしく祭り上げる行為こそ、子供の声を含む近隣騒音やスピーカー騒音問題を解決することの難しさを露わにしていると思いますね。
 もっとも、A教授はまったくそうは考えていないようですが。

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カテゴリ:子供・学校・保育園
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Author:H・K
市民グループ「静かな街を考える会」会員H・Kのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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