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日曜日もスピーカー騒音まみれで一日が終わる
 人様のスピーカー騒音についての文章を三つ紹介します。
 まず、音楽評論家・吉田秀和氏のエッセイ集『音楽の光と翳』(1980年)から。

──────

魔法の乗物

 一体に、私たち日本人は、ふだんはあんまり歌をもっていないくせに、音楽の効用によりかかるのは大好きだ。映画やテレビのドラマをみても、何かというと音楽が出る。女性が一人海辺に立っていると、音楽。流れに花びらが散りかかると、音楽。街に雨が降ると、音楽。男が歩き出しても、女が立ちどまっても──風が吹いても、ライオンが欠伸しても──音楽が鳴り出す。要するに、画面に何が映し出されようと、その視覚像に注意を集中し、それについて感じさせ、考えさせようというより、何とかして画像のまわりのもの、いわば絵画での余白に当るものに托した一つの気分、いわく言いがたい気分に、みるものをひき入れ、それにひたらせることが、何よりも好きらしい。画面より余白に何かを書き入れたり、認識より情緒にひたることをたっとぶ習慣が、この国では圧倒的に有力なのだ。

 私は、それが、いくら何でも多すぎ、強すぎるように思う。

 しかし、それは、私が、音楽に対し、今目の前にない何かを思い出させたり、連想させたりする上でのすごい力、魔力といってもよいような力強さが具っていることを認めないからではない。いや、その力を信じていればこそ、私は、それがやたら安売りされるのを見るに忍びないのだ。そうでなくとも、とかく甘ったるくなりがちの日本の映画やテレビドラマに、まるでアンコの上塗りみたいに、音楽をべたべた塗りつけてほしくないのである。

………………

お正月の音

 私の住んでるのは海辺の小さな古い街で、別に空港が近くにあるわけでもない。それでも暁方早く、航空機の不気味な唸りで眠りからひき離されることが少なくない。この音は日中もよくきこえることがある。それに大空から降ってくるこの種の音で、私の神経を特にいらいらさせるのは、ヘリコプターの低空を飛ぶ音である。どうやら、この街の役所はヘリコプターを使うのが特別に好きらしく、ここではヘリコプターは単にモーターの音をふりまくだけでなく、若い女性の声を私たちの頭上から降らせるのである。何といっているかはっきりきこえたためしはないのだが、たまにその一部がわかることもある。すると、その声は「道路の横断には信号を良くみるように」とか「外出には、戸じまりに気をつけるように」とかいっているようなのだ。しかしそれは誰でも知ってることだし、これ以上当り前のことはない。それでもうっかりする場合があるのは、私自身をふりかえってみても、事実だが、そういう点は、ヘリコプターからききとりにくい声で警告されて直るというものではなかろう。《中略》

 私が本当にひどいと思うのは、商店の広告とか、催しごとの宣伝に使われる場合で、今日どこどこで安売りがありますとか講演会がありますとかいった話を空からまきちらすのは、公安を害する行為の最たるものではなかろうか? 私たちには防ぎようがないのだから、愚劣というより邪悪な利己行為以外の何物でもない。これに比べれば、暴走族のあの無茶な行為の如きは、迷惑の点では同じでも、まだ恕すべき点がある。

 これとは逆に、なまの人間の声という形での街の音は、本当にへってしまった。金魚売り、棹竹売りといったもの売りの声は、全くといってもよいほどきこえなくなった。この種の音では、例のチリ紙交換の奇妙な猫撫で声があるが、これはテープをまわし、マイクで拡大した音であって、人間の自然の声の中には入れられない。

………………

騒音主義者

 私の家では夏になると、たくさんの蝉が集って鳴き続ける。《中略》ある時も、訪問客が、部屋に坐るなり、「いや、これは大変な蝉ですな」と言ったので、気がついてみると、なるほどすごい鳴き声である。《中略》

 だが、私は、蝉の声が好きらしい。大変なものだとは思うけれど、うるさいからいやだとか、何かをするのに気が散るので困るとか、考えたことがない。私の苦手なのは、こういう自然の音ではなくて、人工の音、というか、要するに人間の作り出す音の方が多い。自動車の音とか、ヘリコプターの音とか、こういうのは、いくら長年きいてきても、慣れるということがなく、いつもうるさいと思う。それから、あたり一面に拡がるラジオやどこからともなくきこえてくるテレビの音。

 今年の夏、知人に招かれて、蓼科の彼の山荘にいった時、知人は、彼の車で近くの霧ヶ峰の高原に案内してくれた。《中略》私たちの自動車から降りたあたりでは、黄色の、ちょっと百合みたいな花が一面に咲き乱れていて、名物になっているのだそうだが、その花の咲く高原について、自動車から一歩出ると、途端に、大きな音楽の音がきこえてくる。あたりの休憩所、レストランからも拡声器を通じてまきちらされる上に、高原いっぱいに、それこそ花の数にも負けないほど大勢出てきている人の群れ、また群れの中にも、携帯ラジオのヴォリュームをいっぱいにあげて鳴らしながらゆく人が、一人ならず何人も、いるのである。

 日本の人は、いつから、こんなに音を大きく出さずにはいられなくなったのだろうか?《中略》私の知人は「天下の絶景だ」なんて御機嫌だったけれど、私はとまどっていた。いずれにせよ、私の耳には蝉の声の嵐に全身を打たれるのは少しも苦にならないように、知人の目には、この常軌を逸した騒音音楽は、景色をみる上で全然邪魔にならないのだ。

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 ああ、こうしている間にも、どこかの車がスピーカーから、何事かを大音響で喚き散らしながら走って行きました。たぶん、警察の広報車が振り込め詐欺うんぬんと叫んでいたのでしょう。
 不特定多数に向けた「振り込め詐欺に気をつけましょう!」の大声に、「はい、わかりました!」と素直にうなずく人間ほど、「息子さんが大変ですよ。お金を振り込んでください!」と言われて「はい、わかりました!」と騙されるものだと思うんだけどなあ。

 次に、同志社大学教授(社会学)・山本明氏のエッセイ集『風俗の論理』(1979年)から。

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日本の雑然文化

 《註:日本の》雑然趣味は、それを「設置」する人にとっては、自己を満足させるとともに、他人に対するサービスのつもりである。「よかれ」と考えてやっていることだ。この「よかれ」がやっかいなのは、それを不愉快とか迷惑だと考える人がいないという確信に支えられているからである。

 たとえば、喫茶店のレコード。これがやかましい。本式のBGMは特別につくられた音源で、音量が一定していて、聞こえるか聞こえないか程度の静かな音だが、喫茶店のレコードはたいていの場合、会話の邪魔になるほどの音量で鳴っている。瀬戸内海の連絡船に乗ると、客室にテレビが置いてあって、大きな音で鳴っている。船は内海の島々をぬって走り、乗客はその景色に見とれているが、テレビでは「愛してます。あなたとならどこまでも参ります」と、よろめきドラマのせりふをわめきたてている。観光地では、売店がスピーカーで歌謡曲のレコードを一町四方に聞こえる大音量でかけているし、観光船や観光バスでも説明のあいまに、歌謡曲のテープを聞かせる。交差点では、歩行者用信号が青になるとブザーで童謡が鳴る。盲人用だが、なぜメロディーが必要なのか。妙なテンポのブザーで「通りゃんせ、通りゃんせ」や「靴が鳴る」「赤とんぼ」などを聞くのは、ぼくには耐えがたい。京都の通勤用バスでは、終点に近づくとオルゴールの「祇園小唄」を演奏するし、新幹線では「鉄道唱歌」第一節のメロディーを鳴らす。

 つまり、ぼくたちのまわりには、音楽という名の雑音が満ちている。しかし、これの「送り手」は、「よかれ」と思っているのだから仕末が悪い。

………………

 《註:日本の雑然文化には》都会文化と田舎文化とが混存している。京都のバーの中には、壁面に桜の造花がぶらさがり、電球は青、有線放送でいつも演歌を流し、ホステスはどういうわけか長いドレスを着て、話題はもっぱら森進一と美空ひばりというところがある。こういうのは、人口三〇〇〇人くらいの田舎町にぴったりだと思うのだが、これが京都のどまんなかにある。かと思うと田舎町に「これで客が来るのだろうか」と心配するような、しょうしゃなレストランがひっそりと立っている。もちろん、それだけならなんということはないかもしれないが、そのレストランのそばに、店内は昼なお暗いソバ屋があるし、前述の桜の造花のバーの隣には、超デラックスなサロンがあるのだから面白い。

 都会とは、ぼくの理解では、「隣は何をする人ぞ」でよろしい場所で、また一五〇円のカレーライスもあれば、三万円のステーキの店もあり、どちらを選ぼうが個人の自由というところだと思うのだが、意外に町内会があって、朝のラジオ体操だ、地蔵盆の寄付だとうるさく共同体意識の高揚を図る人がおり、他方、田舎では共同体意識が崩れつつある。

………………

 この文章を、ぼくは、琵琶湖畔の国民宿舎で書いている。右隣の部屋から、テレビの大きな音が聞こえ、左隣からは、子供連れの夫婦が「靴が鳴る」をうたっている。戸口はふすまでカギがないから、女中さんが勝手に入ってくる。こういう環境では、とうてい西欧的自我など生まれっこなさそうである。

………………

 《註:日本の》雑然文化は、二つの異なる文化が渾然一体となるという面白さがある。その一体化のプロセスを推し進めるのは若者だ。いや、若者と子供だ。

 日本では、子供が大人社会の中に割りこんでいる。いや、大人は子供に振りまわされている。

 《中略》子供は何をしても許されるべきだという風潮が日本では強い。早い話、夏休み中の新幹線に乗ってみたまえ。特にグリーン車。ここでは、通路を子供が大声でわめきながら走る。自動ドアを開けたり閉めたりして遊ぶ。大声で兄弟げんかをして、一方が負けると泣きわめく。あまりうるさいので親のほうをグッとにらむと、「オジサンに叱られるわよ」。それだけである。この言葉には、「あなたも大人気ない。子供が騒いでいるんですよ。しかたがないでしょ」という意味が含まれている。だから、子供は相も変わらず、走り、叫び続ける。

──────

 そうしているうちに今度は、たった1台の救急車が大音響のサイレン3種類「ピーポーピーポーピーポーピーポー」「ウーーウウウウーウーーウウーウーウー」「プゥゥゥゥゥーゥ、プゥゥゥゥゥーゥ、プゥゥゥゥゥーゥ」プラス「はい救急車通ります道を空けてください!」の絶叫連呼で通過。車がみんな道の端に除け、交差点を渡ろうとしている歩行者など一人もいなくても「はい救急車通ります道を空けてください!」
 そんなに叫ぶのが好きなら、プロレスのリングアナウンサーにでもなったほうがいいと思うんですけどね。「言われなくても除けてるじゃないか!」と怒りもしないこの国の大多数の人間も、どうかしているし。

 最後は、ジャズ評論家・久保田二郎氏のエッセイ集『手のうちはいつもフルハウス』(1979年)から。

──────

 信号が変って青になる《中略》……とにかく青になると、どこからともなく、実になんともいえない不快な音響が鳴りわたってくるのだ。一応それらは音程らしきものをそなえていて、音の配列から言うと古い童歌「通りゃんせ」のように聞える。

 一体なんであの音を発しておるのか。とにかくその音たるや、もう言語道断、人をしてこのくらい不快感を感じさせるという音響はまずないだろう。どこか山奥の荒れはてた洞穴の奥深いところで、ビール瓶を口にあてて発したような、まことにおぞましい、マガマガしい、醜悪極まりない、魔界の悪魔どもも、地獄の赤鬼、青鬼どもも、ともに嘔吐感をもよおすほどの不快音である。

 その不快音による「通りゃんせ、通りゃんせ」が鳴りわたると、全員それにつられて、まるでホメルンの笛につられてゆく鼠のごとく、イソイソと横断してゆくそのアホ面まで腹が立つわい。

 《中略》いや、それにしてもあの横断歩道のあの音はたまらぬ。よーし、というので、この僕はかたわらに丁度幸いあった薬局店にとびこんで、はやその勢いのすさまじさに、なにごとならんと身構える女店員に叫んだのだ。

 “タ・タ・タンポン”
 “え、え? なんですって”
 “タ・タ・タンポン、長崎タンポン……いや違った、それ、ほれ、あの例の、女性の……”
 “あ、はいはい、解りました、これですね”

 とようやく我をとりもどした様子のその女店員の、これだけはワタシ達の領分よ、といわんばかりの変に自信と慈愛に満ちた微笑とともに差し出された、これぞ噂には聞くが現物見るは初めてという変にメルヘンふうの小箱を引ったくるやいなや、その場でバリバリ、ゴソゴソ、ポンと引き出し、それを左右の我が耳の穴に一つ、二つ、ええい、これでも間に合わぬかと、ただただ驚く女店員のゆれるまなざしにたじろぐこともなく、三つ四つと詰めこんだのでありました。

 あれね、初めて知ったけどリプトン、またはブルックボンドのティーバッグについてるようなヒモがついてるのね。そのヒモ先を四、五本ずつ左右の耳の穴からたらしつつ、ヒラヒラとたなびかせつつ、僕は再び例の横断歩道へともどったのであります。そして、おお、今度こそあのおぞましい「ホラ穴サウンド」の「通りゃんせ」は聞こえないぞと、一人涙しつつ意味もなく、わけもなく、そして勿論必要もなく、二度三度と足どり軽く横断歩道を行きつもどりつしたのであります。

──────

 もうじき、防災無線からけたたましい夕方の音楽が鳴るので、その前に今日は図書館へ。図書館もいろいろ不愉快なことが多いけれど、とりあえず雑誌を読んで、それからスーパーへ買い物に。

 押しつけがましいBGMと、「いらっしゃいませいらっしゃいませいらっしゃいませ、いらっしゃいませいらっしゃいませいらっしゃいませ!」「お時間限定ワンパック198円、ワンパック198円、ワンパック198円でご奉仕中!」「警察からのお知らせです。近年、車上荒らしが増えています!」「お肉~♪ お肉~♪ お肉~♪」のアナウンスや、「ヴエ゛ー!」「ゼエ゛ー!」「ドエ゛ー!」(店員の意味不明な叫び)、「こちらおあずかりいたしまあああす、こちらおあずかりいたしまあああす、こちらおあずかりいたしまあああす!」「よろしかったでしょーかあああああ、よろしかったでしょーかあああああ!」「たいへんしつれいいたしましたー、たいへんもーしわけございませえええん!」「ありがとうございまああああす、ありがとうございまああああす、ありがとうございまああああす!」(ただボタンを押して発しているだけのような店員の機械語)にまみれて、数時間後にはヘトヘトになって帰宅するはずです。

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Author:H・K
市民グループ「静かな街を考える会」会員H・Kのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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