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日常の生活圏から荒廃していくこの国の景観
 前回のエントリー「JR東日本のトイレットペーパーと日本の景観」の続き。今回もだらだらした、牛のよだれのような、まとまりのない内容になるんじゃないかと思います。

 さて、上記のエントリーで、

──────

 景観の問題と一口に言うけれど、それにはどんな要素があるのか。箇条書きにすればこうなります。

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール
 など。

──────

 と書きました。同時に〈(これまでこのブログで)景観についてほとんど書かなかった理由は「騒音は耳を塞いでも防ぐことができない。でも、視覚の問題は目をそらしたりすれば意識から排除することもできる」という、じつに単純な違いがあるから〉とも書きました。

 もちろん、「わしゃ音よりも景観のほうがよほど気になるわい」という人がいてもいいわけで、その一人が東京大学大学院教授(社会経済学)の松原隆一郎氏です。
 松原氏は経済学の教授にして格闘家という異色の学者(総合格闘技団体「大道塾」師範代でもあるらしい)で、私も格闘技雑誌で文章を読んだことはあるのですが、景観について何冊も本を書いている方だとは、ごく最近まで知りませんでした。

 松原氏の景観に関する著書『失われた景観―戦後日本が築いたもの』(2002年)は、こんな導入部から始まります。いきなりですが長々と紹介。

──────

序章 生活圏における景観荒廃

生活圏の景観問題

 日本における景観の荒廃について考えてみたい。

 とはいえ日本の景観が「荒廃」しているというだけで、いきなり反論が返ってくるかもしれない。事実として荒廃などしていないではないか、という反論である。ゴミは放置されていないし、新しい看板など整然と並んでいる、駅前の再開発はそれなりに進んでいるではないか、と。けれども私は、清潔で新しくはあっても秩序のないことにかけてこれほど突出している景観を持つ国は、世界に類を見ないと感じている。そもそもそうした感覚、つまり景観が荒廃しているという共通の認識がないことじたいについても、絶望的な気分にさせられてしまう。それゆえ景観にかんする考察は、まずは私感から始めるしかない。《中略》

 私はこの頃、自宅周辺を散歩するたびに憂鬱な気分になる。一番気鬱なのは、蜘蛛の巣のように張りつめ、空を覆う電線である。小学校の頃、校庭に寝ころぶと青空は大きく広がり、不安や希望をかき立てられた。その空が今では、電線によって幾つもの区画に切り取られている。不安も希望も、電線のせいで縮んでしまった。高い樹木にしても、空に届かんばかりにそびえるというよりは、電線に絡まりながら窮屈そうにしているように見える。《中略》ああした電線群を見るたびに、目の辺りが不快になりイライラしてしまう。

 近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている。駅におけるアナウンスが無益な過剰サービスだ、役所が子供向けに流す「夕焼け子やけ」も余計なお世話だ、商店の呼び込み音楽は騒音公害だ、といった主張である。私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。ただ、騒音を拒否する主張が、あくまで生活環境の中での実感にもとづいて唱えられていることには好感をもつ。

 景観をめぐる対立についても、近年しばしば耳にするようになった。マンション建設に反対する運動が全国で頻発しているのである。ところがそういった対立で損なわれると公認された景観はというと、歴史的建築物や伝統的な街並み、自然環境のそれが中心である。もちろん私も歴史的建造物が廃棄されず、ビルの高さに制限があり、自然環境が守られるのには賛成である。《中略》しかしそれと同時に、いや利己心の告白を許されるならそれ以上に、自分の生活圏で日々出会う景観の荒廃の方に目が向いてしまうのだ。というのもそうした景観問題が強調されればされるほど、朝晩の通勤途中でちょっと眺めて心和むような樹木が年々電線に覆われていくことには、議論は及ばなくなる。散歩の途上、見やるのが好きな山並みが醜いマンションで浸食されることに対する憤りのやり場がなくなる。歴史的建造物にせよ都心の眺めにせよ自然環境にせよ、日々の暮らしの中で我々が体験するものとは切り離されて論じられている。《中略》

景観私感

 景観に対しての私の感じる苛立ちについて、もう少し続けさせていただきたい。ある地方都市に、空路で行ったときの話である。空港は郊外にあり、中心地区に向けてタクシーで走ると、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。沿道の景観が東京郊外のそれと酷似していたからだ。ラーメン店のけばけばしい景観、全国展開しているガソリン会社のスタンド、中古車の販売所。それらは日頃東京に住んでいて見慣れた光景であり、だからこそ身体を動かして地方にやってきたという疲労感が視覚とズレてしまう。《中略》

 地方といえば、観光地の景観にも悲惨なものがある。車で行く場合にとりわけ気になるのが、看板だ。《中略》否応なく看板の字が目に飛び込んでくるのである。《中略》せめて看板のデザインくらいは、ただ目立つものではなく、土地土地の風土に合わせる工夫ができないものだろうか。

 《中略》さらにいおう。東京の住宅地では古い住宅が突然更地となり、マンションや建売住宅に建て替えられるというのは日常茶飯事である。《中略》一律に旧家の建て替えが悪いとは言いようがない。けれども、消失することにより町の印象が一変してしまう、「臍」のような家屋が存在するのも事実なのである。そうした家が何の前触れもなく消え去ると、過去との時間の連続が切れたように感じてしまうのだ。生活圏における景観がいかに移ろいやすく保ちがたいかを、如実に示す例であろう。

 視野を電線で区切られず、そぐわぬペンキを塗られず、景観により自分の居場所が分かり、せめて旅先では看板の洪水にみまわれず、暮らしている町では過去との連続を実感していたい──私が景観に望むのは、そうした些細なことである。それは私にとっては心身の健全さにかかわることと思えるのだが、それが世の共感を得られぬ望みであるのか、贅沢にすぎる願いであるのかは、よく分からない。ともあれ私が「景観が崩壊しつつある」というときに想定しているのは、もっぱらこうした生活圏における景観の変化と、それから体感される不快感のことなのである。少なくとも私の身体は、それを不快と感じるのだ。

──────

 本書はこの後、四つのケーススタディー(「均質化する郊外の風景」、「山を切り崩し海を埋め立てる経済優先政策で荒廃する神戸市の景観」、「全国でも珍しい条例“美の基準”を制定した神奈川県真鶴町の理想と現実」、「電線の地中化問題」)を取り上げて、日本の景観について論じています。

 さて、紹介した「序章」に〈近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている。《中略》私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。ただ、騒音を拒否する主張が、あくまで生活環境の中での実感にもとづいて唱えられていることには好感をもつ。〉とあり、巻末の参考文献に中島義道氏の『うるさい日本の私』も挙げられていることから、松原氏は「静かな街を考える会」の存在や拡声器騒音の問題点をある程度理解した上で、このように書かれているようです。

 もちろん、人それぞれ感受性に違いがあって当然なのだから、松原氏が〈私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。〉と言うのはまったくかまわない。
 「駅のアナウンスも夕焼け小焼けも呼び込みの音楽もいいことじゃないか!」と、(圧倒的多数の音に鈍感な人たちのように)騒音を擁護されると困ってしまいますが、氏の言うとおり〈生活環境の中での実感にもとづいて〉考えていけば、多少、ベクトルの違いはあっても、この国の景観と拡声器音の両方に「ちょっと汚すぎる(うるさすぎる)んじゃないか」という問題意識が芽生えるのは当たり前のはずだからです(「はず」なのに、な~んにも感じない人たちばかりであること、何よりもそこが問題なのですが)。

 その上で、松原氏が本書(他の景観に関する著書でも)で述べている景観論と、(あくまでも)私個人の景観に対する不快感には、小さいようでそれなりに大きい開きがあるもんだなあ、やっぱり人間いろいろだなあ──と、まあ、そんなふうに感じることを、これからうだうだ書いていこうと思っています。

 まず、序章には〈近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている〉とあるのですが、これ、全然高まってなんかないっすよ。この本が出版された02年の時点を振り返っても、「いずれは拡声器騒音が減るんじゃいないか」と希望が持てる、夢のような「高まり」があったとはとても思えません。
 むしろ氏も書かれているように「歴史的建造物を守ろう」「伝統的な街並みを保存しよう」などと、景観に関する意識のほうは(「歴史建築物を保存して観光客を呼ぶ」というカネ目当てであっても)多少なりとも広まっているのに、拡声器騒音についての人々の意識は年々鈍感になっていくばかりです。
 でなければ、駅に駅メロという名の騒音が氾濫し、繁華街といえば街頭ビジョンだらけになり、アドトラックが我が物顔で走り回る国になるわけがない。

 例の新国立競技場の問題にしても、エンブレムがどうしたとかくだらない話題に埋もれたのかもしれませんが、そもそも競技場のデザイン自体がよくないとか、周囲の景観に与える影響が大きすぎる、という論点があったはずです。
 ところが、拡声器騒音についてこうした指摘をする人は、あいかわらずほとんど現れません。繁華街で早朝から深夜まで街頭ビジョンが轟いたり、家のすぐ横で大音量の防災無線が鳴り響いたりする異様な音環境について、そこで働いたり住んだりしている人ですら「おかしい」「いいかげんにしろ」「も~やめて!」(懐かしの横山弁護士)と言わないのです。
 拡声器騒音問題より景観問題のほうが、まだしも世間に認知されているとしか思えない。なんとも複雑な気持ちにさせられます。

 ただ、景観の問題が認知されていると言っても、それはごく一部を対象にしたものでしかないのも事実でしょう。
 前回のエントリーで〈一般に、多くの人が「景観を守ろう」「美しい風景を残そう」と言い始めるのは、「由緒ある神社の横に高層マンションを建てるな!」「自然豊かなこの川にダムは必要ない!」などという、じつにわかりやすい問題が持ち上がったときだけです。〉と書きましたが、僭越ながら松原氏も「日常の景観が荒廃しているという共通の認識がない」と、同じように嘆いているわけです。

 ところが、ここから先に私と松原氏でちょっと違う点がある。氏が本書で主に取り上げている日常景観の問題は、私が挙げた「要素」に当てはめると、

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙

 に、ほぼ絞られているようです。その他の要素、

●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール

 については、他の著書も含めてそれほど言及していません。
 このうち「政治家のポスター」と「ガードレール」はとりあえず省いておきますが、注意・道徳・スローガンを押しつけてくる看板、のぼり、垂れ幕、ポスターや貼り紙などについて、松原氏はあまり「見苦しい!」と気にしてはいないようなのです。
 どうしても、ここがもやもやしてしまう。

 注意・道徳・スローガンの看板の話がほとんど出てこない理由は、どうやら氏が社会経済学者で、景観の問題を論じるにもその観点から分析することに焦点を当てているからのようです。
 郊外の景観が均質化し汚らしくなるのは、人口分布の変化やフランチャイズ制というビジネスの手法が広がったから。(氏の出身地である)神戸の街が醜く変貌したのは、経済発展を何より優先する市の姿勢に問題があるから。真鶴町が制定した「美の基準」が機能しないのは、開発を進めたい不動産業者の反発や制度上の難しさがあるから。電線を地中化できないのは、コストを理由に国や地方自治体、電力会社が工夫を怠っているから。
 まあ、乱暴にまとめればそんな分析が主となっています。もちろん、もやもやすると言いつつも、これらの指摘は頷けるものばかりですが。

 ところで、ひとまず「もやもや」は置いといて、松原氏が指すような(もちろん私も同様に思う、そして多くの人は何も感じていない)「日常の生活圏における景観の荒廃」とは、具体的にどのような風景のことなのか。
 数カ月前、仕事でJR横浜線中山駅に降りたとき、「きったねえええええ!」とのけぞって思わず撮影した駅前商店街の写真があります。

JR横浜線中山駅南口商店街.jpg

 この景観がどれほど醜いか(醜いと思いませんかねえ?)──という話から、こんなブログを読む人なんかいないだろうなと思いつつ、次回に続きます。

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カテゴリ:景観
JR東日本のトイレットペーパーと日本の景観
 「JR東日本が『歩きスマホ』」防止に奇策 トイレットペーパーに印字」というニュースを目にしました。

JR東日本が「歩きスマホ」防止に奇策 トイレットペーパーに印字.jpg

 今回はこの話題から、一気に「景観」の問題に話を広げてみたいと思います。着地点がどこになるか、自分でもわかりません。しばらくは、まとまりのない能書きが続くと思います。

 記事によればJR東日本が今月から、主要駅のトイレに「やめましょう、歩きスマホ。」とびっしり印刷したトイレットペーパーを導入(とりあえず「なくなり次第終了」らしい)。それを見た人たちがツイッターで「すごい」「軽い狂気を感じた」など驚きの声を上げたそうです。

 なるほどねえ。

 私も、このトイレットペーパーには“狂気”を感じました。「軽い」どころか非常に重篤な狂気を感じましたね。
 ただひとつ言いたいのは、この程度の狂気は、トイレットペーパーなんかネタにしなくても、街のあちこちに日頃から溢れているじゃないかということ。「ああしましょう、こうしましょう!」「気をつけましょう、注意しましょう、やめましょう!」「こっちを見ましょう、買いましょう!」と、いたる所で浴びせかけられるアナウンスや絶叫には狂気を感じないくせに、「歩きスマホ」のトイレットペーパーには、ニュースになるほど(といっても、ネットならではの暇ネタですが)反応があるのはなぜなのか。
 駅のホームに限っても、トイレに入らなければ目にすることのないトイレットペーパーより、電車に乗れば必ず聞かされるアナウンスのほうが、私はよほど狂気を感じます。

 駅メロという場違いな音に「駅で音楽を聞かされたくない」と苦情を言うと、鉄道会社は「発車を知らせるサイン音ですから」などと言ってきます。しかし、駅メロが鳴り終わっても電車のドアが閉まるわけじゃない。大抵はそこからあらためて「3番線ドア閉まります。危険ですから駆け込み乗車はおやめください」といった大音量の自動アナウンスが流れます。そして、自動アナウンスが終わると立て続けに駅員が「はい3番線ドア閉まりまーーーーす駆け込み乗車はおやめくださーーーーーい!」と同じことを絶叫する。

 ひどいときには(というか当たり前のように)「チャンチャンチャンチ3番線ドはい3番線ドア閉まりまーーーーす駆け込み乗車はおやめくださーーーーーいア閉まります。危険ですから駆け込み乗車はおやめください」などと、駅メロを途中でぶった切って自動アナウンスが流れ、自動アナウンスをぶった切って駅員が叫び、また自動アナウンスの音が金魚の糞のようについてくる、というようなわけのわからない放送が数分置きに繰り返されるのです。

 このような放送が“狂気”でなくてなんなのか。駅メロは「今なら乗れるぞ」という駆け込み促進の合図にしかなってないし、自動アナウンスも分断されて意味はない。最初から駅員が「ドア閉まります」と言えばいいだけじゃないか。

 駅では、電車が発着するたびに「黄色い線の内側に下がれ」「足元に気をつけろ」「左右をよく見て空いたドアから乗れ」「降りる客がいなくなったら乗れ」「銃を捨てて手を頭の後ろで組めおーっと妙な気を起こすんじゃねえぜ」などと幼稚な指示をされ続けます。そして私が危惧していたとおり、ホームドアの設置が進んだため、そこから「ピンポーン」などの音が出るようになって、駅がさらなる騒音地獄と化してしまいました。

 ホームドアは線路への転落を防ぐ最も有効な手段だと私も思うし、設置には大賛成なのですが、いちいち開け閉めのたびに「ピンポーンピンポーン」と鳴るのはたまったものではありません。まあ、ホームドアが設置されれば「黄色い線の内側を……」というアナウンスは不要になるから、少しは駅が静かになるかもという淡い期待──は、はなからしていなかったのでがっかりもしませんが。

 階段からは「チュンチュンチュン」と、そこにいもしない不自然な鳥の鳴き声が響き、エスカレーターからは「手すりにおつかまりください」、エレベーターからは「1階ホームです。こちら側のドアが開きます」。改札口でも「ピーンポーンピーンポーン」「ピッピッピッピッ」「秋の東北旅行に出掛けてみてはいかがでしょうか」

 こうした、いくら書いても書ききれないほどの音の洪水は受け入れているのに、今回のトイレットペーパーにだけなぜ波紋が起きるのか。
 ま、それだけ気狂い沙汰のアナウンスが当たり前のものになり、誰も“狂気”を感じなくなってしまった、ということなんでしょう。精神病院に入っている人間は自分が狂っていることに気づかない、という構図とじつによく似てますねえ……。

 ともあれ、今回は冒頭に書いたとおり、ここから「景観」の話につなげたいと思っています。なぜなら、トイレットペーパーに印刷された“狂気のメッセージ”は、アナウンス地獄と通底する問題でもあるけれど、文字であるという点では看板を初めとする景観の問題により近しいからです。

 まだまだ能書きが続く。

 「静かな街を考える会」やこのブログのメインテーマは、スピーカー騒音です。サブテーマとしては近隣騒音もありますし、主に接客の場で不快な思いをさせられる言葉遣いや態度の問題も取り上げています。

 サブテーマにはもうひとつ「景観」もあります。ただこれまで、このブログで景観については「不動産業者の捨て看板」のこと(下記の関連記事参照)しか書いてきませんでした。
 それはなぜかというと、騒音に加え景観のことまでぶちまけ始めると収拾がつかなくなりそうだったから。また、近年は不動産業者の違法看板の増殖が目立ってひどく、個人的に憤懣やるかたない気持ちが抑えられなかったからです。一人で吉木りさ10万人分くらい怒ってます。さとう珠緒150万人分でもいいけど。

 もうひとつ、景観についてほとんど書かなかった理由は「騒音は耳を塞いでも防ぐことができない。でも、視覚の問題は目をそらしたりすれば意識から排除することもできる」という、じつに単純な違いがあるからです。

 スピーカー騒音には、家にいてもさらされます。防災無線、広報車、ごみ収集車の音楽、廃品回収、移動販売、救急車の過剰なサイレン、選挙カーや政治屋の演説、夜回りに火の用心、バスやトラックの警告音など、家の中にいても防ぐことができないのが「音」の特徴です。それと比べ目から入る情報である景観は、少なくとも自宅でへらへらしている最中に悩まされることはない。この違いはやはり大きいものがあります。

 そうはいっても、現実に「ごちゃごちゃと」「下品で」「汚らしく」「押しつけがましい」この国の景観には、外に出るたびイライラします。
 景観の問題と一口に言うけれど、それにはどんな要素があるのか。箇条書きにすればこうなります。

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール(じつは、この問題に言及している人を見たことがない)
 など。

 一般に、多くの人が「景観を守ろう」「美しい風景を残そう」と言い始めるのは、「由緒ある神社の横に高層マンションを建てるな!」「自然豊かなこの川にダムは必要ない!」などという、じつにわかりやすい問題が持ち上がったときだけです。

 この主張はもっともだし私も異存ありませんが、どうも日本人はこうした「歴史や自然と人工物を対比させた場合の景観保全(特にダムだの基地だの空港だの、政治・イデオロギーや財産権が絡んだ問題)」にはある程度熱心だけれども、すぐ目の前でおこなわれている、日常生活の中での景観破壊の積み重ねには完全に無頓着です。
 「まちをきれいに!」などと原色ギラギラののぼりを立て、自ら街を汚していることにもまったく気づきません。

 それはいったい、なぜなのか。長くなったので、まとまりがつかないまま次に続きます。
 次回は経済学者・松原隆一郎氏の著書『失われた景観―戦後日本が築いたもの』などを引用しながら書くことになるんじゃないかと思います。

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カテゴリ:景観
「Making noise about keeping the decibels down」の超訳
 前回のエントリー「 『AMENITY』33号発行のお知らせ」でリンクを張った、「The Japan Times」掲載の「Making noise about keeping the decibels down」(英文)。ニューヨーク在住のジャーナリスト、ダニエル・クリーガー氏によるこの原稿を翻訳してみました。
 ただし、私は英語なんて「This is a pen」しか知らないので、翻訳サイトで日本語にしたものを、原文を見ずに思いきり改変しただけ。翻訳というより「ハナモゲラ超訳」です。原文の意味がどこまで反映されているか、まったくわからないのであしからず。

──────

騒音の中で静けさを求める

2007年の参院選で東京の街を走り回る、拡声器を取り付けた騒々しい選挙カー.jpg
2007年の参院選で東京の街を走り回る、拡声器を取り付けた騒々しい選挙カー

 東京の駅で列車を待っている中島義道は、ホームの駅員にマイクの音量を下げてもらえないかと尋ねた。「難しいですね」という返事に中島はマイクを掴み、線路に投げ捨ててしまった。彼は駅員室で自らの行為を伝えたが、駅長は声も出ない様子だったという。

 中島──騒音を嫌う日本では珍しいタイプの人間──は、酒屋の店頭からスピーカーをもぎ取り、警察官からメガホンを強奪したこともある。「そのようなことを、何度も繰り返してきた」中島は私にメールで告げた。「しかし、後悔したことは一度もありません」

 静けさに高い価値を置く文化のはずなのに、日本では電車やバス、ショッピングセンター、街頭スクリーンなどから不協和音や長ったらしいアナウンスが鳴り響く。選挙運動中の政治家は耳をつんざくボリュームで名前を売り込み、右翼の街宣車は軍歌とともに帝国主義スローガンを撒き散らす。

 日本にも公共空間の拡声器音を規制する条例はあるものの、適用されることはない。しかも、選挙カーはその規制すら免除されている。東京都議会議員の伊藤ゆうは、選挙カーを使わない議員と立候補者のため「NO!選挙カー推進ネットワーク」を立ち上げたが、ただそれだけのことだ。

 言論の自由を盾に公共の場で音を出せば、同時にプライバシーの権利を侵す。中島は、数十年前にヨーロッパでの暮らしを切り上げて日本に戻った際、母国がどれほど騒がしいかに気づいてしまったのだ。

 中島は、電車のアナウンスを初めとする日本の拡声器騒音について記した『日本人を<半分>降りる』など、「文化騒音」と呼ばれる厄介な問題に関する一連の本を書いた哲学者だ。駅や店舗で無限にループするその騒音は、エスカレーターやATMなどさまざまな場所に溢れている。これらの執拗なアナウンスは迷惑の範疇を超え、人々の心を過剰にかき立てようとする。

 しかし最大の問題は、中島の大胆な行為にもかかわらず、ほとんどの日本人がこれらの音を騒音と認識していない点にある。むしろ「もっと騒音を!」と望んでいるのだ。中島はそれに気づき、最終的に解決するのは無理だろうとあきらめている。

 早稲田大学でビジネス・コミュニケーションを教えるダニエル・ドーラン教授は、日本の拡声器騒音を取り上げた論文「文化騒音:日本における拡声器音と表現の自由、プライバシーの権利」を執筆。「インターナショナル・ジャーナル・オブ・コミュニケーション」のサイトに発表している。

 20年前、米シアトルから日本に移住したドーランは、拡声器騒音に遭遇したときの狼狽を日本人の妻や知人に話した。しかし、誰からも賛同を得ることができなかった。一般に日本人よりアメリカ人のほうが騒音に寛容であるとみられているが、にもかかわらず、日本の街ではアメリカよりはるかに大きい音が流れているのだ。

 これらの音が法律や条例に違反していることを示すため、ドーランは騒音計を使い調査を始めた。そしてほとんどの場合、アナウンスや音楽が70dbを超える大音量であることを確認した。地元の市役所で証拠を見せながら、職員に「なぜ、このような違法行為が許されているのか」と質問する。だが、職員は肩をすくめ「人手不足で取り締まることができない」と言うだけだった。

 一般的な店や路上はもちろんのこと、パチンコ店の店内から電車の中まで、人々が頻繁に足を運ぶ場所で避けて通ることができない拡声器音。これに焦点をあて研究したドーランは、ひとつの結論に達した。「企業の健全な経営は、すでにある法律を守ることから始まる。私は何も新しい法律を作るべきだと言っているわけではないのだ。しかし、このような騒音が少なくとも一部の人に不快感をもたらせている事実があるのに、日本では誰もが法律を守る義務を放棄している。私の論文も何ひとつ議論を巻き起こさなかったし、むしろ周囲から人々を遠ざけることになってしまった。日本人は、自分たちのやり方を変えることをとても嫌うのだろう」

 クリス・ディーガンは、まだ闘いをあきらめていない。この騒音防止活動家は「変革は日本人の内面から始まらなければならない」と言う。ロンドン生まれの彼は40年以上東京に住む翻訳家で、一度は日本のやかましさに耐えきれずこの国を離れようとした。だが偶然、拡声器騒音に反対する日本人たちのグループ「静かな街を考える会」の存在を知り勇気づけられて、ここに永住しようと決めたのだ。

 この会の創立者は、どのような活動をしても日本の拡声器騒音が減らないことに絶望して会を去った。その後、ディーガンは全国に60人ほど会員がいる会の代表になった。「日本を少しでも静かにするために、努力しています」

 ディーガンは年に一度、会が発行している機関誌『AMENITY』の編集も担当している。欧米で暮らした経験を持つ者も多い会員と共に、ミーティングも開催している。そして、この果てしなく骨の折れる闘いに小さな勝利を得ようと、妥協しながらも活動を続けている。

 彼らは以前、JR立川駅に駅長を訪ね、無限に繰り返される禁煙放送の間隔を、もっと長くしてくれるよう頼んだことがある。驚いたことに駅長はこの申し出を受け入れてくれた。しかし、半年後には元に戻ってしまった。それはなぜなのか。尋ねると駅長は言った。「大勢の人が、この放送を流し続けるよう求めてくるのです」

 「問題は“普通の人たち”にある」とディーガンは言う。会のメンバーは鉄道会社や自治体に手紙を送ったり、『AMENITY』でその経験について書いたりしている。「最終的に日本の拡声器音を西欧のレベルまで減らすことができれば、すばらしいでしょう。でも、音量を少し小さくするだけでもいい。それだけで私たちは幸せになれるのですが」

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
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■プロフィール

Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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