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駅・車内のアナウンスは現代の「無用物」
 書きたいことは山のようにある(特に今は「デモ騒音」や「救急車のサイレン騒音」について)のですが、仕事や生活がわやくちゃになってしまい、ブログ一つ落ち着いて更新する暇がありません。そこでまた、人様の覆面でプロレスをさせてもらおうと思います。
 私のようなただの馬の骨が書くことより、著名人やメディアが「うるさい!」と言っていることを紹介するほうが、ほんの少しでも人の耳に届くだろうし。

 今回、紹介するのは、朝日ジャーナル編『現代無用物事典』(1985年)という本。本書は「朝日ジャーナル」に84年から連載された同名コラムをまとめたもので、タイトル通り「こんなもの、本当はいらないんじゃないか」と疑問に思う世の中のあれこれを論じています。

 まな板に載せられたのは「戒名」「敷金」「私物としての傘」「ズボンのチャック」「書店のブックカバー」など、生活に身近な38のものごと。今回はその中の一つ「駅のアナウンス」を紹介します。

 ちなみに、このブログのテーマと近い内容では、ほかに「電話の“お待たせオルゴール”」「電信柱」「校歌」「朝会(朝礼)」「車内販売」「映画館のCMと予告編」なんてものも。
 ついでだから、残りのテーマもすべて書いておくと「公団の分譲住宅」「有料道路」「五〇〇円硬貨」「お正月」「給料の銀行振り込み」「プロ野球の引き分け」「マイルドセブン」「合否電報」「イッキ飲み」「時価」「ボトルキープ」「おいしい水」「あまちゃづる」「ホスト・テイスト」(レストランなどのテイスティングのこと)「お色直し」「男性用化粧品」「キュロットスカート」「動物園のコアラ」「政府広報」「雑誌の〈発行日〉」「主催者側発表」「ハウツー」「クルマの厚化粧」「血液型性格判断」「ダイエットのウソ」「禁句集」(差別用語集)となっています。

 本当は、このコラムの内容を下敷きに、いろいろぶちまけたいこともあるんですが、それはまた気が向いたらということで。

──────

駅のアナウンス

どうする。不快97パーセントの親切過保護!

「ハチバンおさがりくださーい。ヤマノテセンつづいてトーチャクになります。ハチバンにヤマノテセンがトーチャクをいたしまーす」

「ピッ」

「シンジュクでーす。シナガワほうめんにまいりまーす」

「プルプルプルプル」

「ごジョウシャになるかたは、サユウにわかれてくださーい」

「シナガワほうめんゆきはハッシャをいたします。シナガワほうめんゆきハッシャしまーす」

「カイダンふきんのかたは、つづいてねがいまーす。まもなくドアがしまります。ヤマノテセンはまもなくドアをしめます」

「カラダ、ニモツをひいてください。カラダ、ニモツをつよくひいてください」

「しまりかけましたら、おそれいりますが、イチダイおまちください。イチダイおまちくださーい」

「ドアがしまりまーす」

「ナナバンセンには…」

 一日百三〇万人の乗降客を誇る東京の国鉄新宿駅。一日のうちで最も混雑する朝八時二〇分ごろのホームのアナウンスは、ほとんど途切れがない。

 アナウンスの主はホームにいない。ホーム端の、司令塔みたいに一段高くなった事務室で、テレビ画面を併せ見ながらマイクに向かっている。

 二つ隣の高田馬場駅へ足を伸ばしてみると、ここは女声。近くの大学の放送クラブ員らしき女性が“司令塔”にいた。

「おはようございます。タカダノババ-。タカダノババ-」

「乗り降りは前の方に続いて」

「ドア付近の方は、閉まるトビラにご注意」「右側通行に皆様のご協力を」「白線の内側まで十分に下がって」「電車が止まりましても、降りる方が先となります」

 過保護ママのそれに似た気配りが、延々と続く。

 長時間、ホームにいるわけではないから、駅アナウンスの一部始終を聞かされてはいないのだが、電車に乗り込み、ホッとしたところへ、今度は車内アナウンスが待っている。

「次は、池袋、池袋。赤羽線、東武東上線、西武池袋線、地下鉄丸ノ内線、有楽町線はお乗り換えです。お出口は左側です」

「本日はカサの忘れ物が多くなっております。お忘れ物のないよう、もう一度、お確かめ下さい」

 文字にしてみれば、さほどのことでもないようだが、聞き漏らしのないように、とボリュームいっぱいに放送するシンセツ車掌さんもいる。そんな電車に乗り合わせたら、「不運」としかいいようがない。

 そうした不快感体験を、スーパーエッセイストを名乗る椎名誠さんは、こう表す。

「三台に一台の割ぐらいで、もうやたらとでっかいボリュウムのスピーカーになっていて、さらにまた悪いことに、三人に一人ぐらいの割で鼓膜ぶっちゃき電気ドリル声という非人類型の車掌が乗っているのである

 このデカボリュウムの電車のスピーカーと、電気ドリル声の車掌が組み合わさった時の車内といったらこれはもう九七パーセントが不快、という『全車輌ギヤマンくずしの脂汗ネトネト陰獣ギャオスの背骨双手ひしぎ、血ヘドの逆襲』という『東京スポーツ』二面の大見出し的状況になっていくのである」(『さらば国分寺書店のオババ』情報センター出版局)

賛否両論のサイレント・タイム

 椎名さんのいうデカボリュームや電気ドリル声は、東京の営団地下鉄丸ノ内線での体験だが、国電や他の私鉄などでも似たような事態。まして私鉄の電車やバスとなると、春の××半島へどうぞ、○○遊園ではこんな催しを開催中など、自社の営業案内を流したり、△△家具センターへはここで降りて、などCM放送のオマケまでつく。

「うるさ過ぎる」「ラッシュ時は放送不要」「『無音の日』をつくって」などの声が、年ごとに強くなっていることを受けて国鉄では、一九八一年四月、国電の神田、有楽町、新橋の三駅にかぎって朝八時~九時の一時間、駅アナウンスをピタッとやめた。名付けて「サイレント・タイム」。一ヵ月間続けられたが、乗降客らの反応は真っ二つに割れた。

「その駅で降りてしまうお客さんは、圧倒的に無音賛成派が多く、他の電車に乗り換えのお客さんや不案内の人からは無音反対の意見が多かった」(東京南管理局)。またテスト期間中、ホームからの転落や電車との接触事故が起きやしまいか、とも心配していたが、無事だった。

 そこで国鉄は、無音テストへの賛否の反応を合わせて二で割った答えを採用した。従来の「のべつまくなし型」から「簡潔型」へ改良したのだ。

 神田駅を例にとると、「大船行きがまいります」「神田、神田」「ドアがしまります」を三本柱にし、「お降りの方はお急ぎ下さい」「ご乗車の方は、空いているドアへお回り下さい」「足元にご注意下さい」などはカットするというものだ。車内放送も、「忘れ物……」はやめて、次はどこどこ、開くドアは右か左かぐらいに、などの減音対策をとっている、と当局は説明する。

 だが、現実はシンセツ車掌、シンセツ駅員がいっぱいで、減音対策が守られているとはいいがたい。

 そういえば、何年か前、アナウンス抑制をめぐって新聞紙上に賛否の論が載った。その中で放送賛成論は「放送が客を幼児扱いしているとしたら、幼児扱いされている客の方が悪いのではないか」「列への割り込みなど、マナーを心得ない人に他人が注意したら殺されかねない社会情勢。放送で注意を」といい、抑制論は「マナーは、マイクでがなり立てても、よくはならない」としていた。

 そして、賛成論をよくみると、アナウンスの音よりも、列を乱したり、中の方が空いているのにドア付近で立ち止まって行く手を阻む客の態度が、もっと腹立たしいわけで、やはりアナウンスはうるさいことに変わりはない、と解釈できないか。

問われる“人格権侵害”

英国鉄道物語』(晶文社)などを著してイギリス事情にくわしい小池滋・東京都立大学教授は、「イギリスは欧州でも一番そっけないかもしれませんが、駅のスピーカー施設そのものが、大きなターミナル駅ぐらいにしかありませんね」という。数少ないスピーカーからでさえ、電車が入ってくることなど必要最小限の情報しか流されず、「危ないですから、白線の……」や「カサの忘れ物……」放送は全くない、そうだ。

 車内放送も似たりよったり。汽車や電車を利用する人は、あらかじめダイヤを調べておくか、駅員や居合わせた乗客に尋ねるかしなければならない。

「駅の放送だけに限りませんが、自分のことは自分で始末し“おかみ”などに頼らない、という個人主義が徹底しているから」と、小池教授は指摘する。

 車内放送に異議を申し立てている人もいる。大阪市に住む弁護士の森賢昭さんは、市営地下鉄が、百貨店などのCM放送を車内で流すのを中止するよう、裁判所へ訴えている。一、二審は敗れたが、現在、最高裁で審理中。(注=八八年一二月、上告は棄却され、結局請求は通らなかった)

 訴えの理由は、「拘束された車内で、聞く義務のない放送(CM)を強制的に聞かされるのは人格権の侵害」というものだ。だが、これまでの判決は「人間は本来、聞きたくない音を聞かない自由を持っているが、程度の問題。社会生活でその自由を完全に保つことは不可能だ。(CM放送という)赤字解消としての目的は正当で、一回五秒ぐらいの放送は、一般乗客に嫌悪感を与えない」と、しりぞけている。

 これに対して、「程度問題にすり替えることが問題だ」と森さん。「安全かつ快適に目的地へ運んでもらう、という契約で運賃を払っているのに、なぜ乗客が我慢して営利放送を聞かなくてはならないのか」と、徹底抗戦の構えである。

「放送」は駅や車内に限らない。

 水戸市に近い茨城県勝田市では、行政無線と称して市内八八ヵ所に放送塔をつくり、時報や定時放送が毎日最低五回、火災発生による消防団集合の連絡など臨時放送は昼夜の別なく流れる。

「仕事に誇りを持ち、楽しく働きましょう(市民憲章の一)/警察から採用試験のご案内をします/自衛隊の演習があります。危険ですから近寄らないように/暴走族は、市民に暴力を加えています/全国戦没者追悼の日です/……」などといったアナウンスが家の中にいても聞こえてくる。長いときは五、六分間も続く。

 ここでも、画家の山西一郎さんが、「意味や思想性を持つ言語を強制的に聞かされることは、思考の自由に影響を与える」と、人格権侵害を訴えている。

 山西さんは「仕事に誇りを」などの内容や放送のやり方をみて、「かつて『労働は人間を自由にする』と看板に書かせたヒトラーを思わせる」と、キナ臭さを感じとっているのだ。

 あるとき、作家の中上健次さんがこんなことを話してくれた。

「水俣病のことだけど、あそこの魚が『危ない』と声ならぬ症状をみせた。そのときの魚の声や、異状を訴えた漁民の声を聞く耳があったら、患者の多くは救えたのではないか」

 大きな声、一方的に押しつけてくる声にマヒし、小さな、弱い声を聞けなくなったときこそが、最も恐ろしいのではないか。そして駅や車内で、盲人や不案内な人を導く手段が、そうぞうしいアナウンスしかない社会も、コワーイとはお思いにならないか。

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カテゴリ:駅・車内
「情報」に頼り「現実」の確認を後回しにする老人
 9月18日の朝日新聞朝刊に、神里達博(客員論説委員)というエラーイ人のコラムが掲載されています。先日の集中豪雨による水害に関する内容です。一部抜粋。

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「月刊 安心新聞」
繰り返す豪雨災害 力づくの治水の限界

 《註:近代国家という》巨大な集権システムに河川管理が委任されたことで、それを自らの共同体の問題と見なす意識が希薄になっていき、逆に「お上任せ」の傾向が強まったのである。本来、川には個性があり、長い歴史に基づく地域の「つきあい方」がある。そのようなノウハウは、ローカルな知として蓄積されていることも多い。集権的なシステムは、専門主義の名の下に、これらを軽視することも少なくない。

力ずくの治水の限界.jpg

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 ここに抜粋した内容は、私も「その通りなんだろうなあ」と思います。「月刊 安心新聞」というタイトルは気に入らないけれども、それは今はどうでもいいや。

 それでは、このコラムで指摘されているような視点から、次の読者投稿を読んでみると、どうでしょうか。同じ朝日新聞の13日付朝刊「声」から。

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災害時にどう行動するか再認識

民生児童委員 ××××(福島県 73)

 鬼怒川の堤防が決壊して街ごと水につかる惨状、ヘリで救出される光景をかたずをのみながらテレビで見た。東日本大震災の惨状を思い出した。我が家は海岸から約1キロ、2級河川から300メートル。住んでいる自治体からは、ひっきりなしに緊急情報が携帯電話や緊急情報受信専用ラジオに入った。心配になって家の裏を見ると、道路は川の様相を呈していた。

 出かけていた妻に状況を連絡し、帰宅の際のルートを指示した。軽自動車のため、いつものルートを使うと途中で身動きができなくなると警告した。

 もし堤防が決壊していたら、鬼怒川と同様の被害を受けたはずだ。日ごろからどのような行動を取るべきか考えておくこと、情報を丁寧に聴くことの大切さを、改めて認識した。

災害時にどう行動するか再認識.jpg

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 最初にこの投稿を読んだとき、3日目のパンツを前後逆に履いてしまったような気持ち悪さを感じたのですが、しばらく考えてわかりました。この人の行動が「テレビや自治体の緊急情報を聞いて心配になった→家の裏を見た(すると、道路が川のようになっていた)」という順番になっていることが、その理由です。

 この人は、外が豪雨であることを「知って」いる。現実にざあざあ雨が降り続いているんだから、それは当たり前のことでしょう。
 それなら、テレビ中継に固唾をのんで囓りついたり、自治体からの情報を聞き取ったりという行為に熱中するより、自分の家の周りがどうなっているかを、もっと早くからたびたび見ていればいいじゃないか。
 緊急情報を聞くのが先で、実際に家の周囲がどうなっているかを見るという「実感を伴った」行為を後回しにしておいて、〈日ごろからどのような行動を取るべきか考えておくこと、情報を丁寧に聴くことの大切さを、改めて認識した〉と本当に言えるんでしょうか。これが「情報に頼るより(情報に頼ると同時に)、自分自身の目で確認することが大事だとあらためて認識した」という教訓につながるのならわかるのですが。

 もちろん、今のアスファルトでガチガチに固められた道路は、少し大雨が降ればあっという間に川のようになってしまいます。この人もそんな常識ぐらい知っていて、何度か外を見ていたのかもしれません。数分前に見たときは何も起きていなかったのに、急に道路が水浸しになっていて驚いたという可能性はあるでしょう。
 また、この人が心配になったのは、緊急情報を聞いたからというより、実際に降り続く雨の様子や周囲の雰囲気によってなのかもしれません。「緊急情報を聞いて心配になったから家の裏を見た」という表現は、文章の構成上そうなっただけなのかもしれません。

 しかし、いずれにせよ、この出来事から得られる教訓は「アスファルトの道路は、すぐに水があふれるなあ。大雨のときはテレビのニュースや緊急情報に関係なく、自分の家の周りぐらい自分の目で見て注意しなければ」ということであって、〈情報を丁寧に聴くことの大切さ〉ではないでしょう。
 むしろ〈情報を丁寧に聴くこと〉に熱中すればするほど、この人のように実際に身の回りで起きていることへの関心が後回しになり、現実というリアルな世界と、情報というバーチャルなものへの依存度が逆転してしまう可能性すらある。

 たとえば、日本では殺人事件などの重大犯罪はほぼ一貫して減り続けているのに、自分の生活圏からかけ離れた場所で事件が起きてメディアが大騒ぎすると、すぐそれに影響されて「この国はなんて危険なんだあああ、もっと監視カメラを取り付けろ! 防犯パトロールを強化しろ! 不審者情報を放送しろ! 怪しい奴はいねが~!」と叫び出すのがそういう人たち、つまり「バーチャルな情報に依存してしまった人たち」です。
 この投書から読み取れるのは、「最近の若者は、ゲームやアニメなどのバーチャルな世界と現実の世界との区別がついておらん!」などと偉そうなことを言う高齢者自身が、情報というバーチャルなものに頼りきって、身の回りのリアルな世界を把握しようとしない──という問題じゃないでしょうか。

 防災無線を初め、放送や看板など使えるものはなんでも使い、至る所でああしろ、こうしろ、これはするな、あれに注意しろという情報(しかも、そのほとんどは完全に無意味)を撒き散らすことに夢中になったり、それをおかしいとも思わずにただ聞き流したりしている人たちばかり──というこの国の「現実」にうんざりしている身としては、こんな小さな投書にすら違和感を覚えてしまいます。
 まあ、私自身も、たまたま目にした新聞の投書という、どうでもいいバーチャルな情報に振り回されているだけなのかもしれませんが。

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カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
「日本人の行動様式」とスピーカー騒音
 日本人論や日本文化論などの本を読んで、スピーカー騒音や過剰な接客、標語看板の氾濫をはじめとする景観の問題に関する記述があると紹介しています。

 今回は荒木博之『日本人の行動様式』(1973年)という本。著者は広島大学教授(当時)で専門は民俗学。以下に紹介するような、日常の至る所で出くわすエピソードを積み上げて、日本人の特性は〈他律性〉と〈類型化〉にあるのではないかと分析しています。

 本書はおそらく、日本のスピーカー騒音について本格的に言及した最も初期のものだと思います。それから40年以上。ここに書かれた状況が何一つ変わっていないこと、そもそもいつまで経っても、拡声器でがなり立てる声や音楽がそこら中に轟くこの国の異様な光景に、なんの疑問も抱かない人々ばかりという現実には、今さらながら涙がちょちょ切れてしまいます。

 荒木氏はその後の著書でも、日本人の心情や行動を分析するにあたって、スピーカー騒音についてたびたび触れているのですが、まずはこの一冊から。

──────

 私はひところ高知と松山の間の国鉄バスを利用することが多くあった。

 《中略》私はこのバスの旅を重ねているうちに旅行者たちに共通するひとつのパターンというべきものに気がつき始めたのである。旅行者たちが窓外に目を向けるのは、極端ないい方をするならばバスの車掌が窓外の景観について独特の説明を始めるときに限られていた。「右手をご覧ください」といえば右を向く。「左手をご覧ください」といえば左を向く。「あれは見残しの滝でございます」といえば、一様に身を乗り出して感嘆久しゅうする。あとの時間はみな申し合わせたように眠っているか、週刊誌を読んでいるかのどちらかであった。

………………

 このバスガイドなるシステムはおそらく日本独特のものである。欧米にもガイド的職業はあることはあるが、その仕事は通訳のそれが主たるものであり、日本におけるように制服を着用したバスガイドが、沿線の風物、名所旧跡について延々と用意したテキストを笑顔とともに諳んじてみせるといった例はちょっとない。ロサンゼルスで乗った市内観光のバスなどは運転手がガイドを兼ねていて、そのガイドぶりも目的地にそれぞれ着いたところで、ここはどこどこである、ここでは何分間の時間が与えられるといったことをほんのおざなりに二言三言ぶっきら棒にいうだけであった。

 《中略》この東西の差ははたして、単なる親切、不親切といった対比だけですますことができるのであろうか。自分勝手に見て来いというのは、自分勝手に見て来るのが好きな旅行者を前提としているからではないのか。長たらしいテキストを暗誦してみせるならば、「よけいなおせっかいはやめてくれ」と腹を立てかねない旅行者を相手にしているからではないのか。

 とするならば、このアメリカのガイドも決して不親切という一言できめつけてしまうことはできなくなってくる。彼らはただ客の要望に従って行動しているにすぎないのかもしれないからである。

 同じように日本のバスガイドのいたれりつくせりの案内ぶりを、親切という概念であっさりと片づけてしまうことにも問題があるのではないだろうか。むしろ客の方に懇切丁寧な案内を要求する心があって、その要望に応えているにすぎないのではないか。

 したがって違っているのは東西の観光客の側の心であり、あるいは観光客そのものの方なのではないだろうか。とすればこの東西の観光客の相違の指標となるべきものはなんなのだろうか。

………………

 類型化の力学は、ときに集団の側の一方的な押しつけ行為となって現われることがある。

 私は先に高知─松山間のバス旅行について触れたのであるが、かなわないのはバスに備えつけられているラジオ、ステレオの類である。これを使って終始、歌謡曲、軽音楽の類が流される。渓谷の美しさに、大自然の壮麗さに、心はきわめて形而上的な世界をさ迷っているときに「惚れて、惚れて、惚れていながら……」とやられるのである。

 ある地方都市で朝夕の六時に音楽サイレンなるものを鳴らしていた。城のある山のタワーから拡声機のラッパを四方に向けて流すのである。そこに近い市の中心部などでは耳をつんざくほどの音であったらしい。

 まず観光客の非難が集った。旅の空で疲れ果てて寝入っているときに、けたたましい音響で朝六時にたたき起こすとは何事かというわけである。市民の一部もそれに同調した。しかし当事者である市側はなかなか折れようとしなかった。音楽サイレンは一日の出発に当たって人びとの勤労の意欲をかき立てるものとして市民の強い支持をうけているというのが理由であった。

 この二つのきわめて日本的な行為を支えているものは、やはり同じ類型化の力学であるといっていい。すべての人間は同じ趣味を持ち、同じように歌謡曲が好きである。いやそうあらねばならない。すべての人間は皆朝早く起きて音楽サイレンとともに一日の勤労への決意を新たにするものである。いや、そうあるべきである、という発想である。

 そこには歌謡曲を不快な音と感じ、それを終始流されることはまさに拷問に等しい苦痛であるような人間の存在や、朝六時に音楽サイレンでたたき起こされることによって一日の勤労意欲を逆に喪失してしまうような人間のあることを認めない、いな許そうとしない集団による力の論理が原理として存在するのである。

………………

 ふたたび旅の話をしてみよう。駅および車中のアナウンスについてである。世界を旅しての印象のひとつに、日本における駅や車中におけるアナウンスほど懇切丁寧なる例はちょっと見当たらないということがある。ことに車中におけるそれは出発間もなくの、停車駅および到着時間の案内にはじまって、途中の駅に近づくごとの乗換線、接続列車の案内を噛んで含めるように、くり返し、くり返し放送する。そして最後は長途の旅へのねぎらいと忘れ物がないようにとの心配りの言葉をもって終わるのである。

 従来はこのパターンは観光バスの案内嬢の名所案内のセリフとともに日本人のきわめてゆきとどいた親切心の発露としてとらえられていた。たしかにそういった見方もまったく根拠のないこととは思われないが、単に親切心とのみ割り切って能事終われりとすることはあまりにも皮相にすぎる見方であるように思われる。

「日本人は親切だ、あの車内アナウンスの丁寧さぶりはどうだ」といって讃めてくれる外人もあるかもしれないが、私の知り合いの英国人などは、一緒に旅行していて車内アナウンスが始まると決って「ノイズィジャパン(うるさい日本)」などと苦りきった顔で吐き棄てるようにいったあとで、英国人がいかに騒音に対して気を配り、人の迷惑にならぬように心をくだいているかという一席をながながと聞かせてくれるのが常であった。これが平均的欧米人の反応なのである。

ひとり歩きできなくなった日本人

 そういえば、欧米にはこの種の車内アナウンスはまったくない。下車駅は各自の責任において乗り越しをせぬようたえず気を配っておかなくてはならない。不慣れな旅行者は地図を頼りにつねに自分の位置を確認しておくか、あるいは隣席の乗客、たまに巡回してくる車掌などに聞いてみるかしかしかたがないのである。

 この東西の差は、ふたたび親切と不親切という単純な対比ですますことができないのはさきに東西のバスガイドの比較に際して指摘しておいたとおりである。

 むしろ日本人に、車内のアナウンスにみられるような懇切丁寧さを求める心があって、鉄道側がその需要に対する供給を行なっているにすぎない、いわば経済原則に基づく行為であると考えるほうがいい。

 これに対して、欧米の列車に車内アナウンスが存在しないのは、彼らがつねにみずからの責任において行為することを求められ、また彼ら自身もそれを欲しているという事実によっている。彼らが子どものときに受けたしつけがつねに「ひとりで歩くこと」であったとするならば、彼らがみずからの力で旅を歩き、また歩くことを願っていることはこれまた当然のことといわなければならない。

 これに対して、つねに他の律するところに従って動くことを求められ、またそのようにだけ動くように仕向けられた人間は、他の律するところに従って動くという行為がくり返しくり返し行なわれた結果、歩くことを止めた人間が、ついにはまったく歩行不能な人間になってゆくのと同じように、自力で歩む機能が退化し消滅してゆくことになる。

 いわば着替えから食事、幼稚園の送り迎えまで母親につきっきりで世話を焼いてもらった子どもがついにはなにひとつ自分の力で処理することができない過保護の子どもとなってゆくように、つねに他の律するところにのみ従って生きてきたムラ人たちは、全体社会としてのムラ的共同体を離れ、類型的行動パターンの通用しない世界に放り出されたとたん、まるでヨチヨチ歩きの幼児のように、こまかな旅への指示と配慮なしにはまったく歩くことのできない人間と化してしまうのである。

 私のいつも利用しているバスがつい最近ワンマンバスに切り換えられた。その車内アナウンスがたいへんなものである。「整理券を取れ、釣り銭はいらぬように、高額の両替えはお断り、小額の両替は停車中に運転手に申し出で各自両替機の受け皿から受け取れ、危険物の持込みお断り、車内は禁煙、座席の空いているときは立っていないで座れ、座席の上に荷物はおくな、六歳以下の子は一人は無料、それ以上は一人につき半額、やむをえず急停車することがあるから釣り革をしっかり持て、下車の人は押しボタンで知らせろ云々」世界のどこにこれほどことこまかく噛んで含めるように世話を焼くところがあるだろうか。これをしも過保護といわず、なにを過保護というのであろうか……。

 こういったワンマンバスあるいは列車が日本中いたるところを走り廻って、日本人の一億総過保護化に力を貸しているかと思うと、なにかいても立ってもいられない気がしてくるのである。こうした過保護の氾濫のなかで日本人はついには歩くことさえできなくなるような廃疾の子となってゆくのではなかろうかという不安からである。それともそれは私だけのいわれなき杞憂にすぎないのであろうか。

………………

 旅人としてムラ境をあとにしたムラびとたちが、いかに懇切丁寧なる案内人を必要とする頼りなき幼児的旅行者であるかは、前章において説いたところであるが、われわれがムラ的依存母胎を離れたときにどれほど行動への指示と配慮を必要とする存在であるかの実例はそのほかいたるところに見受けることができる。

 デパートのエスカレーターの声の案内嬢もそのひとつである。「危険ですから赤いてすりをお持ちください」「黄色い線の内側にお乗りください」「よい子のみなさん、エスカレーターのうえで遊ばないようにいたしましょう……」云々と、これまた列車やワンマンバスの車内放送と同じくかゆいところに手の届くような導きの案内である。

 バスやタクシー乗り場などによく備えられてある行列誘導のための柵も同じことである。横断歩道のところに備えられている黄色い旗も同じである。手をあげて渡れという指示もそうである。こういった指示によってわれわれの行為はつねに方向づけを与えられ、導かれてゆかねばならないことになっている。

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
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Author:H・K
市民グループ「静かな街を考える会」会員H・Kのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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