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選挙と牛丼屋と「日本の権力構造」の謎
 今回も、ブログを更新する時間がなかなかとれないので、人様の著書の紹介を中心にします。

 統一地方選挙などと言って、クソやかましい演説や連呼が始まる時期が近づきました。というか、もう始まっています。うんざりです。

 先週の水曜日、買い物をしようとある駅の駅前に行くと、ロータリーで「みなさん!」「わたしたちはっ!」という、私が最も嫌いな中年女性の甲高いアニメ声(オエ~)の演説が始まったところでした。慌てて目を背けたので詳しくはわかりませんが、「わたしたちはっ!」というおばはんのキンキラ声は共産党の印みたいなものですから、おそらくそうなのだと思います。
 私は、自己陶酔に浸りきった政治屋の演説など見たくないし聞きたくもないので、そのまますぐ横にあったスーパーに飛び込んで買い物を済ませ、反対側の出口から遠回りして帰りました。

 その後、金曜日には家で仕事をしていると、どこからかうっすらと演説らしい声が。たぶん、近所の商店街で政治屋が喚き散らしていたのだと思いますが、内容は聞き取れなかったので、どこの誰なのかはわかりません。
 これが聞こえてから、「そろそろ、住宅地でも政治屋が演説をしたり車で走り回ったりするんだろうなあ」と気が気ではないのですが、幸いにも今のところ現れていません。

 でも、どうせ時間の問題でしょう。私が住んでいる市でも市議会議員選挙があるので、狭い町の中を数十人のアホが拡声器で叫びながら走り回る、地獄のような日々が近づいているというわけです。私が金持ちだったら、選挙期間中だけでもこんな国から逃げ出すんだけどなあ。
 せめて、告示前に「私を議会に送り出してください!」などと、選挙での投票を依頼する違法な事前運動を見かけたら、どんどん選挙管理委員会にチクってやろう。ま、そんなことをしたってなんの意味もないんだけど。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンというオランダ人ジャーナリストが書いた『日本/権力構造の謎』(1990年初版)という本があります。一言で言えば、日本という「権力構造が極めて曖昧で、誰が何をしようとしているのかさっぱりわからない(そのくせ、総体的に見れば妙にまとまっている)」不思議な国を分析した日本論です。
 その分析は政界や官界はもちろんのこと、経済界、宗教界、警察、農協、マスコミから暴力団まで、およそ日本という国を形作っているあらゆる組織に及びますが、結局のところ結論は「わかんな~い」(by深野晴美)です。

 ウォルフレン氏は、日本という国の正体不明な権力構造を<システム>と表現していますが、それを社会学者の橋爪大三郎氏は文庫版(94年)でこんなふうに解説しています。

――――――

 『日本/権力構造の謎』は何を主張しているのか? 《中略》まず第一に、<システム>とは何かを理解することが重要である。《中略》本書の<システム>は、《中略》なかなか正体がつかめないアモルフ(無定型)なもの、という意味なのだ。

 <システム>の反対物は、(西欧社会の近代的な)「国家」である。国家とは、政治的に責任をとる主体《中略》であって、誰がどういう根拠にもとづいてどういう権力を行使しているのかを、はっきり目に見えるかたちにしたものだ。《中略》しかしウォルフレン氏のみるところ、日本にはこうした前提がそもそも欠けている。日本の社会にももちろん権力現象はあるのだが、人びとはそれを権力と意識したがらず、それに法や制度などの明確なかたちを与えることを好まない。民主主義は、権力を法によってコントロールする制度であるはずだった。しかしそうした見かけの裏でも、実はこうしたアモルフな権力が人びとをとらえている。ウォルフレン氏が<システム>と名前をつけて描こうとしているのは、こうした日本の権力のあり方なのだ。

 《註:日本人が、自らがどれだけ西欧社会とかけ離れた社会運営をしているか想像できなくなっているのは》<システム>が現実から目をそむけさせ、権力が知性を麻痺させているせいであると、ウォルフレン氏はみる。

 日本の社会で暮らしていると、時として、そのあまりの閉鎖性、萎縮した思考、自己主張の無さ、無原則、退嬰的な幼児性に、うんざりさせられることがある。

――――――

 では、この<人びとはそれを権力と意識したがらず><知性を麻痺させている><アモルフな権力>=<システム>とは、どのようなものなのか。
 政治がどうの、官僚がどうしたという「大きな話」はとりあえず横に置くとして、日常生活での現れ方をウォルフレン氏はこう書いています。

――――――

 たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。

 日本人は、自分が生活していくうえでの大部分のことはだれかが決めて管理してくれるという考え方を、子供の時から無意識のうちに教え込まれる。また、日本人を取りまく環境は、一般的に、臨機応変に行動することを奨励しない。心身を休めて楽しむ場合にも、えてして規律を重んじる。学校の行事から花見にいたるまで、集団行動はほぼ例外なく苦心して準備され、本番はといえば予定どおりに進行される。外部者の目から見ると、どんな楽しみもすべて周到な準備のためになくなってしまう。

 交番やパトカーの拡声器から突然発せられる指示の論説調からもそれ《註:日本の警察は「保護者」のようであること》がわかる。小都市によってはアパート群のある地区で、警察が午前七時に広報用のスピーカー網を通して朝の挨拶をし、美容体操の音楽を流したり、元気づけのおしゃべりやさまざまな注意事項を放送して、住民に地域社会の連帯感を感じさせたりもする。

 人びとの側では、警察が不必要に高圧的な指示をしてもとかく従ってしまう。歩行者は、一歩か二歩で渡れるような狭い道でも、交通遮断で車が通れない道路でも、赤信号が青になるまでおとなしく待つのが普通である。

 警察の介入を人びとが認容する好例は、花見時に東京の上野公園にいけば見られる。公園には、会社員をはじめ多勢の人が集まり、桜の下に敷物を広げピクニック気分で飲んだり歌ったり、手拍子をうったり、会社のパーティの慣例どおり花見の宴が開かれる。ところが、一方で警察も大きな区画を数カ所確保して、思いのままにメガホンを通して勧告や警告を発する。この状態が夜の八時半頃まで続き酒宴も最高潮というところで、警察がみんな家に帰りなさいとどなりはじめる。驚くべきことに、三〇分もしないうちに上野公園にはほとんど人がいなくなるのだ。警察側の独断的な規定であっても、ほとんど全員がそれに従うのである。実際にはこの公園は一日二四時間開いているのに。

 とくに都市部の日本人は、つねに市民というより臣民であると感じさせられるようになっている。彼らは、おだてと訓戒の環境に暮らしている。彼らは始終、危険について警告され、ものごとの適切なやり方を改めて注意され、やさしく叱られる。《中略》巡回するパトカーや大きな交番に備えつけられた拡声器は、心配性の母親を想い出させる。それはいつも、アブナイ、危険だと警告する。その不満げな声の調子まで、ますます日本の母親に似てくる。そして歩行者は、手に負えない子供扱いをされていると感じさせられるのである。

 通勤サラリーマンが毎日通る駅構内で、絶え間なくスピーカーから流れる余計な指示は彼らが通路やプラットフォームをふさぎはせぬかと駆り立てる音響のムチと化すのである。のべつ聞かされる警察の訓戒や右のような事態は、職場外に権威が存在することを日常的に感じさせる。耳から侵入してくるだけで、襟をわしづかみにされるわけでも顔を懐中電灯で照らされるわけでもない。しかし人びとは、権威の存在をやさしく想起させられるのである。

 ドライバー用には特別の警告法がある。一部の県の道路脇に立つほぼ実物大のコンクリートやプラスチック製の警官がそれである。雨風で痛んでいようとも、完全な制服を着ている。場所によっては、ビニールに大きく印刷された警官の絵にかえたり、ヘッドライトが当たると交通係の警官の反射ベルトと赤い夜警用の警杖とが光る凝った造りにかえた所もある。

 世界でもっとも人出の多い場所のひとつである東京の銀座で毎日、旗やのぼりをはためかせ拡声器をつけたトラックが戦略的な地点に陣取る。有名な戦前の国粋主義者で、自分のことを「日本のヒットラー」と称したこともある赤尾敏のトラックである。筆者が一九六二年に初めてそこを通った時にも、彼はいつもの場所で声を嗄らして叫んでいた。一九九〇年二月に亡くなるまで彼は、言論の自由の名の下に、群衆の耳をつんざかんばかりに音量をあげて、左翼と世界共産主義の恐ろしさについて訓戒した。銀座の買い物客はこの老衰気味の右翼古老を無視したが、警察が何年も続けて通行者に演説するこれと同等の機会を、左翼の活動家にも与えるとは、とても考えられない。

 右翼には大いに自由が与えられていて、拡声器から騒音をまきちらしながらトラックで公道を巡回し、はたまた混雑した路上で耳をつんざくような演説をする。実際、右翼は、警察が見て見ないふりをするので、社会党主催の会合の邪魔をしたり妨害するのも許されている。また、すでに見たように、右翼の威嚇は、日教組の大会会場さがしを困難にさせている。

 「仕方がない」――日本人が日常使う表現のひとつである。ちょうど「暑いねぇ!」とか「おお寒!」とか言うように、自然現象を認めることばだ。権力者の命令に従うことは、大体“仕方がない”ことなのである。社会秩序と政治体制の区別がはっきりしていない事実もこのあきらめを助長する。しかし、従順さは強制という目に見えない社会的威嚇によって支えられており、正統性とまったく関係がないのである。《中略》これまで見たように、日本人の考えでは、個人的な部分と社会・政治的な領域の境界がはっきりしないし、<システム>の代替宗教的な役割も漠然としている。これでは<システム>の正統性を問うのは、一般の日本人にとって、母親の正統性を疑うようなものである。

 一番よく使われる《註:抑圧された日本人の》緊張解放の一法に、集団で酔っぱらうことがある。酒を飲む集まりは、日本社会という圧力釜に付けられたいくつかの安全弁のひとつだ。一部の会社で今なお見られる急進派労組の小グループの騒々しいが儀式的なデモはもうひとつの別の安全弁である。

 右翼への反対活動は、大部分が集会できまりきったスローガンを叫ぶことであり、理性的な議論はめったに聞けない。彼らのイデオロギーにすっかり染まった語調は、日本の左翼に典型的なものだといえる。

 日本では、日々の確実性をある程度保証するため、社会生活をできるだけ予測できるものにしなければならない。そこで、日本人のコミュニケーションはひじょうに紋切り型になりがちだし、物事はこうあるべきで、人はこう振る舞うべきだということを相当強く意識するように育てられる。人間関係をとりまく環境は、“柔らかい”面と“硬い”面を兼ね備えている。両方の面が互いに補足しあうのだが、両者が一貫性のある論理的な枠組みにはならない。柔らかい側面では、柔軟性が親密な個人的な関係を左右する。この世界は“ウェット”で、情緒的で、個々の特異な状況に寛容である。しかし、親愛感の少ない“硬い”側面では、物事はありきたりで硬直した不変の類型に当てはめられる傾向がある。《中略》身近な社会環境内の柔らかく、ウェットな世界の変化と推移についてゆくだけで大変な努力を要するので、あたかも、その先にある非個人的な世界の方は単純化してしまいたいかのようである。

 日本人は、周辺の世界や人々が期待どおりでないと、気分を極端に害したり、既成概念に当てはまらないものをさっさと無視する傾向がある。これは人間に共通の特性であるが、日本人の場合、その程度が極端である。《中略》予想できない事に対する不安感が、極度に柔軟性を欠く態度や振る舞いをとらせるのだ。

 学生“デモ隊”の分隊が今も時どき、大きな集会に参加しているのを見かける。彼らはまったく同じヘルメットをかぶり、似たような服装で、鋭い呼子とかけ声のリズムに合わせて、まるで恍惚状態のようにスローガンをとなえて行進する。そうしながらもまるで魔術のように彼らは密着した隊形をくずさない。胸と背中、肩と肩を密着させ、わずかな間隔をおいて男子学生に女子学生が続く。長い列は、体をうねらせて進む一匹の蛇のようだ。世界中のどんなコーラス・ラインもパレードの部隊も、これ以上のお手本はないだろう。だが、学生は実質的なことを何も達成しない。また、はじめからそのつもりもない。デモのためのデモなのである。

――――――

 25年前の本なので、時代とともに多少変化した部分はありますが、日常生活の中ですら(日常だからこそ)<始終、危険について警告され、ものごとの適切なやり方を改めて注意され、やさしく叱られる>この国の「権力構造」のあり方や、それを「おいおい、子供じゃないんだからいいかげんにしてくれよ」と思わない人たちばかりという現実は何一つ変わっていません。
 例えば、いきなりですが「松屋」(牛丼のほう)の話です(笑)。

 以前のエントリーに書きましたが、うちの近所の松屋は、やはり近くにある「すき家」より店内の大音量BGMや店員の絶叫接客がひどくなかったので、年に数回食べに行くことがありました。もちろん「すき家よりまし」というだけなので、積極的に行ったわけではありません。
 でも、それも2年ほど前まで。最近は「絶対に行かない店」になりました。理由は店内放送です。

 ある日、牛丼をかき込んでいるとBGMに重ねて「お帰りの際は、お忘れ物にご注意ください」というアナウンスを聞かされました。そして「券売機では、お釣りのお取り忘れにご注意ください」などと何種類もの「注意放送」が立て続けに。確か「お帰りの際は、足元にご注意ください」だの「席をお立ちの際は、置き引きにご注意ください」だの、それまで聞いたことのないアナウンスが、繰り返し流されるようになったはずです。

 私は「牛丼を食っているだけなのに、なんでこんなにバカ扱いされにゃならんのだ」と情けなくなったものですが、周囲の客や店員を見てもな~んにも感じていない様子。不愉快だと店員に苦情を言ってもしょうがない、そんなことはわかりきっているので「二度と行かない」ようにするしかありません。

 「権力」と言うと、日常生活とはなんの関係もない天上の話に思えるかもしれません。しかし権力というのは、それをなんらかの形で他者に「実感」させなければ意味がありません。日本の場合、その権力構造が独裁的な政治体制や宗教による押しつけではなく、「互いが互いをバカ扱いする」ことで成り立っている不思議な国で、しかも、誰もがそれに違和感一つ覚えないところに特徴があるのでしょう。
 ただ牛丼を食うだけなのに、何種類もの「注意放送」を聞かされて、しかも「いらっしゃいませこんにちはあああああ!」「ありがとうございましたまたおこしくださいませえええええ!」と、しつこいほどに叫ぶ松屋のような異様な光景は、まさにウォルフレン氏が指摘した<おだてと訓戒の環境>そのもの。「たかが牛丼屋」の話じゃないんです。

 私が不満なのは、こうした現代の日常生活に根差した指摘を、日本の「知識人」と呼ばれる人たちがまったくと言っていいほどしないことです。この本はその内容からして、国家がどうした政治がどうしたという話が大部分を占めていて、今回紹介した「では、その権力構造が日常にどのように現れているか」にはあまり触れていません。それでも、上記ぐらいのボリュームはあるし、抜粋しないだけで他の箇所でも数多く書かれています。

 ところが、日本人で本書を(肯定的にせよ、否定的にせよ)評する知識人や日本論を展開する学者に、日常のどこにでも溢れているこのグロテスクな「権力構造」を切り口にする人はほとんどいません。
 政治がどうの教育がどうのとご立派なことを論じるのもいいけれど、結局のところ、そのような制度を支えているのは日々の生活です。どこへ行っても頭の上から「ご注意ください!」「~しましょう!」とアナウンスが鳴り響き、ただ道を歩くだけで数十m置きに「飛び出し注意!」「不審者に注意!」「ひったくりに注意!」と、無数の看板で<手に負えない子供扱い>される暮らし。そのおかしさに気づかない人たちが「日本とは何か」なんて論じても、まるで意味がないんじゃないかと私は思うんですけどね。そんなもん、たこの入っていないたこ焼きみたいなものです。

 選挙カーの騒音は、最近では「うるさい」「無意味だ」と言う人が多少なりとも増えたような気がするのですが(それでも、なくなる様子はまったくありません)、<心配性の母親>のような注意放送や看板の氾濫は、ますますひどくなる一方です。
 「青になりました。左右をよく見て渡りましょう!」(吉祥寺の信号)、「手洗いとうがいを心掛けましょう!」(某スーパー)などと、いちいち放送で指示されるような「権力構造」に、この国の知性溢れる(はず)の人たちや「意識高~い系」の人たちは、どうして怒らないのだろう。そもそもそれが最大の「謎」です。

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
「ヤマザキ春の騒音祭り」始まりました!
 なんだかんだとバタバタで、このブログを更新する余裕がありません。今回も、人様の著書で拡声器騒音について書かれた箇所を紹介します。帯広畜産大学教授(哲学)・杉田聡氏の『「日本は先進国」のウソ』から。

――――――

日本中に氾濫する音、音、音

 《註:第一章「環境後進国としての日本」の》最後に一点だけ、温暖化および交通問題を離れて記す。

 日本を先進国と呼ぶことをためらわせる最大の理由の一つが、町中に氾濫する人工音である。道を歩けば街頭放送、建物に入れば、レストランだろうと喫茶店だろうと、当たり前のように流されるBGM。スーパー・量販店では大音響で商品の説明やポップスが鳴り響き、列車に乗れば、くり返される車内放送のために読書さえままならない。飛行機・駅の待合所ではテレビが四六時中つけられ、空港バスに乗ればこれがサービスだとばかりにラジオ放送が流れるのである。郵便局でも音、病院でも音、ホテルでも音。

 多くのヨーロッパ人が日本で一番驚く現象の一つがこれである。ヨーロッパ人は、静けさという文化的価値を非常に大事にする(暉峻八九年、二五~二六頁)《註:『豊かさとは何か』暉峻淑子》。だが、日本では全くこれがないがしろにされている。日本を覆うこの鈍感さは、にわかには信じられない。しかも、経済的な価値を持つなら(そう信じられるだけでも)、音を発生することに対して、日本社会は奇妙なほどに鷹揚なのである。

 だが音は暴力である。なぜならば音は、有無を言わさずに人の聴覚を襲うからである。見たくないものがあれば、人は目をふさぐことができる。かぎたくない臭いなら、かがずにすますことができる。けれども私たちの耳は、自在にふさぐようにはできていないし、手で覆っても、音を完全に遮断することはできないのである。

――――――

 ま、これだけなんですけど。

 この本は環境、労働、男女平等、教育、政治について数多くのデータを挙げながら、他の「先進国」と比べ日本がいかに遅れた国であるかを論じています(だから、新書としては数字やグラフが多い)。
 客観的なデータを示しながらも、他国との比較で「日本はとても先進国とは呼べない」と指摘する杉田氏の論調は、かなり過激なところがあるので、最近流行の「日本人は凄いんだよ! 日本を貶める奴はただじゃすまさねえぞバカヤロウ症候群」にかかった人が読んだら、確実に目ン玉ひんむいて腹を立てるだろうなあ、という内容です(笑)。

 私なんかは別に日本が「先進国」であろうが「後進国」であろうが、そんなことはどうでもいい。そもそも「先進国」と「後進国」(これは差別用語になるので「発展途上国」と書けとATOK様が仰ってますが、「発展」しなかったらどうするんだ?)という区分けは、他国に対して失礼だろうとすら思います。
 この本で指摘された問題についても、興味があるところがあればないところもある。そのとおりだなあと思うところがあれば、それはどうかねーと感じるところもある、というただそれだけなんですが、もちろん、スピーカー騒音についての指摘は「そのとおり」です。

 例えば先日、スーパーに買い物に行きました。家から一番近いそのスーパーは、店内のBGMやスピーカーからの宣伝放送があまりにもけたたましくて、一番近くにあるにもかかわらず、普段は行かないことにしている店です。
 でも、冷蔵庫の中が空っぽになってしまったのに外はどしゃぶりの雨。遠くの「少しはまともに買い物ができるスーパー」まで行くのも面倒臭い――というその日、仕方なく1年ぶりぐらいでこの店に行きました。行って10分で耐えられず帰ってきました。
 店で出迎えてくれたのは、こんな「音」です。

ヤマザキ春のパン祭り.mp3

 パン売り場の棚に液晶モニターが付けられていて、松たか子が出ている「ヤマザキ春のパン祭り」のCMがエンドレスで流れ続けています。パン売り場にいる限り、「こんな感じで、こーんな感じ。いろいろ使える白いモーニングセット。必ずもらえまーす。ヤマザキ春のパン祭り! 始まりました」という松たか子の声を、15秒ごとに何度も何度も繰り返し聞かされるわけです。
 同時に録音されているのは、店内BGMの「うれしいひなまつり」。これだけでもかなり耳障りだというのに、ひな祭りとパン祭りが合わさって何がなんだかわけのわからない音環境になっています。ひなあられとパンを一緒に食えとでも言うんでしょうか。それはいったいお口の中が何祭りなんでしょうか。

 液晶モニターがあるのがパン売り場だけなら、まだ我慢のしようもありますが、このスーパーはほとんどの売り場に一つ、二つは液晶モニターが設置されているので、どこにも逃げようがありません。ラジカセなら「うるせえ!」とぶつぶつ言いながら音量を下げたりスイッチを切ったりすることもできるけど(周囲の目なんか関係ない)、液晶モニターはつるっつるでどこにもスイッチが見当たらない。だからなおさら不愉快です。

 私が不思議でならないのは、例えば普通、自宅でテレビを見ているときに、同じ内容のCMを繰り返し繰り返し流されたら、2回目か3回目には「もう見たわ!」「うぜえなあ」と思うはずだからです。それなのにスーパーやホームセンターなどで同じことをされても、誰もなんとも思わない。パン売り場に1分いるだけで4回、3分いれば12回も「必ずもらえまーす」と聞かされるような環境に、どうして客も、店員も「やかましいわボケ!」と腹を立てないんでしょうか。

 映像だけなら、別にかまわないと思います。街頭の大型ビジョンなどは別として、スーパーの棚の小さなモニターぐらい、目に入っても興味がなければ視線を外せばいいだけ。「松たか子って、絶対、ほんこんか千原せいじの女装だよなあ。ま、そんなことより買い物買い物」と、見る見ないを自分で決めることができるからです。
 しかし、音はいかん、音は。

 もうずいぶん前から、JRの電車がドアの上に液晶モニターを設置して、ニュースや天気予報、企業のCMなどを放送するようになりました。あれを映像だけにしているのは、「音声まで流すと乗客の迷惑になる」という最低限の判断があるからでしょう。
 私がかなり本気で心配しているのは、これがそのうち、音を出すようになるんじゃないかということです。昔、JR(だったと思う)が、車内でプロ野球の試合結果をアナウンスするというバカげたことを始め、「そんな放送はうるさいだけだ」と反発をくらって中止したということがありました。
 しかし、今は当時よりさらに世の中が「音に寛容になり過ぎ」ています。

 駅や車内に限っても、聞かせてくれと頼んだわけでもない音楽を「駅メロ」と称して無理やり聞かされる。すでに煙草を吸っている人を見かけることなどないのに、いつまでも「ホームは禁煙です」とアナウンスを流し、駅のコンコース全体に「エスカレーターをご利用の際は、ベルトにおつかまりください」と放送し続ける。
 「ごはんのまえにはてをあらいまちょうね」と、幼稚園で保母が園児に言って聞かせるような放送を毎日毎日強制されているのに、誰も怒らないということです。
 どれだけ広告を押しつけられようが、幼稚な放送を垂れ流されようがなんとも思わない人、それどころか駅メロの氾濫のように「もっと私を楽しませてよ!」と際限なく要求する人が増えていけば、そのうちドアのモニターから音声を出すようになってもおかしくない。確実にそういう気がします。

 話がJRのことになってしまいましたが、先日、仕事で朝日新聞のデータベースを検索していたら、衝撃的な(というか笑ってしまうような)記事を見つけました。

――――――

「静かな駅 期待してください」 駅長さんら前向き姿勢 市原でシンポ

 駅で繰り返される案内放送や発車予告ベルなどが騒音として問題になっているが、13日午後、市原市姉崎の姉崎ロイヤルホテルで市原ロータリークラブ(山田守会長)主催の「静かな駅・シンポジウム」が開かれ、地元の田村士朗JR五井駅長、渡辺和也同姉ケ崎駅長や小湊鉄道の岩瀬明光鉄道部長らを囲んで活発な意見が交換された。駅長らは「音をなくす努力をしているが、これからも期待してもらいたい」と前向きの姿勢をみせ意義のあるシンポジウムになった。

 シンポジウムに先がけ、昨年夏から発車予告ベルを廃止して全国的に話題となったJR千葉駅の板倉義和駅長が体験を話した。板倉駅長は「予告ベルをなくし、駆け込み乗車による階段でのけがが皆無になった。発車直前のドアに傘や足などを入れて無理に乗車する人も少なくなり、いま思うとベルは駆け込み促進機だった。ドアの件についても、駅側がお客様のマナーを悪くする環境を作っていた」などとベル廃止の効用を話した。

 シンポジウムでは、小宮徳次郎同市教育委員が西ドイツで生活した話などを引用して「良い音の中で育たないと、荒っぽい人間になる」などと話した。商工業者代表の小出善三郎市原商工会議所会頭も「音だけではなく、乗用車などについても、ないことの快適さを考えて良い時期。市原市役所は鉄道の便がない場所に建設した。車のない人は来るなと言っているようなものだ」などと町づくりの話にまで発展した。

 シンポジウムは当初の予定時間を大幅に上回り、予告ベルは「必要悪で、なくなると寂しくなる」などの擁護派の発言も飛び出し、白熱した議論が展開された。しかし、板倉駅長が「利用者のアンケートによると、自分が必要としない音は公害だ、という意見が強いようだ」などと最近の利用客の傾向を話した。

静かな駅 期待してください.jpg

――――――

 これは、1989年12月14日の朝日新聞朝刊・千葉版の記事です。
 各駅長をはじめとするシンポジウム出席者の発言も、それをまとめた記者の文章も、「駅はなるべく静かなほうがいいよなあ」というニュアンスで貫かれています。
 <駅で繰り返される案内放送や発車予告ベルなどが騒音として問題になっている><「音をなくす努力をしているが、これからも期待してもらいたい」と前向きの姿勢をみせ意義のあるシンポジウムになった><ないことの快適さを考えて良い時期><自分が必要としない音は公害だ>……。
 今、読むと「これはいったい、どこの国の話だろう」と、思わず遠くを見る目になってしまいます。

 もう一つ。東京新聞2001年4月29日の紙面から。

――――――

 人気グループ、サザンオールスターズの桑田佳祐さんの出身地・神奈川県茅ケ崎市のJR茅ケ崎駅でサザンの曲を流してもらおうと、同市の市民グループが二十八日、市民の人気投票結果を発表した。

 グループは地元商工会議所のメンバーら。三月中旬から約一カ月間、市役所など約百カ所に投票用紙を置いて駅にふさわしい曲を一人一つ書いてもらった。

 一位は「希望の轍(わだち)」、二位は「TSUNAMI」、三位には「勝手にシンドバッド」。これら六曲を駅で流すよう、JR東日本に申し入れる。同社は「市民すべてがファンというわけでなく実現は難しいかも」と困惑気味だ。

――――――

 <「市民すべてがファンというわけでなく実現は難しいかも」と困惑気味だ>……このコメントのような考えは、どこへ行ってしまったんでしょうか。たった十数年で「こんな感じで、こーんな感じ」に様変わりです。

――――――

JR茅ケ崎駅、巡る巡るサザン 発車メロに「希望の轍」

2014年9月25日08時20分

 サザンオールスターズの桑田佳祐さんの地元・茅ケ崎市で、JR茅ケ崎駅の発車メロディーに、10月からサザンのヒット曲「希望の轍(わだち)」が採用されることになった。2000年に行われた里帰りライブ「茅ケ崎ライブ」以来の地元の悲願。昨年、桑田さんに市民栄誉賞を手渡した服部信明市長は「市民の熱い要望が実った。住む人や訪れる人に、より茅ケ崎に愛着を持ってもらいたい」と歓迎した。

 「希望の轍」は、1990年の「稲村ジェーン」の収録曲で、サビに「遠く遠く離れゆくエボシライン」などの歌詞が盛り込まれている。茅ケ崎沖の名勝、えぼし岩を望む国道134号の風景を想起させる市民の愛唱曲だ。

 さらに「茅ケ崎ライブ」で1曲目に歌われたことから、「発車メロディーを『希望の轍』に」との要望が沸騰。昨年、活動を再開したサザンが13年ぶりに行った凱旋ライブでもエンディングで歌われたことから再燃し、今年6月からは茅ケ崎商工会議所青年部が署名活動を行っていた。

 9月初めまでには賛同が1万人を超え、青年部の原和則会長は「感無量。街頭に立つと『署名をしたい』と待っている人までいて、こんなに楽な署名活動はなかった」と振り返った。

 東海道線の1日始発から使用が開始され、上りはイントロ、下りはサビのメロディーが流れる。また、当日午前10時から、駅構内の観光案内所で、500円以上の商品購入者に先着330個限定で缶バッジも配られる。(足立朋子)

茅ケ崎駅サザン発車メロディー.jpg

http://www.asahi.com/articles/ASG9S35FMG9SULOB008.html

――――――

 ちなみに、記事の下に出ている「駅メロ」関連のリンクもこーんなにあります。

・発車メロディ-、軽快な阿波踊りに JR南越谷駅(8/10)
・新横浜駅発車ベルにマリノス応援歌 市営地下鉄(7/9)
・「うなりくん」でGO! 成田駅発車メロディーに(7/2)
・シーサイドライン、駅メロに小田和正さんらの曲(6/28)
・駅メロは銀河鉄道999 JAXA拠点最寄り駅(6/10)

 もう、頭がくらくらしてきます。なんでそこまで、人様に「この音楽を聞け」と強要するのかねえ。
 記者の書き方一つとっても、「人と同じものを喜ぶのは当たり前」と言わんばかりで、想像力の欠如や同調圧力の強さしか感じられません。やっぱり、これからこの国は、ますます「こーんな感じ」になっていくんでしょうか。こーんな感じって、なんなんだ。「うなりくん」なんて知らねえよ!

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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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