「ガキ使」に出てきた異様なステーキ屋
 テレビを見ていて、あまりにも驚き呆れたことがあるので、ざっくりと書き殴ります。

 たまに見ているダウンタウンの「ガキの使いやあらへんで!!」で、赤坂見附のステーキ屋が出てきました。何が驚いたってその店の店員が、口に(たぶんプラスチック製の)防毒マスクのように大げさな「防具」(としか言いようのない奇妙なもの)を着けて接客していたことです。
 番組中の会話からすると、この透明な防具は「客や料理に店員の『唾』が飛ぶのを防ぐため」に着けているらしいのですが……なんなんでしょうか、あの異様な接客風景は。

 「今日は風邪気味だから」とか「インフルエンザが流行っているから」とか、そういう理由で店員がマスクをするならわかります。私だって、店員がゴホゴホ咳をしながら出てきたら、「マスクぐらいしろよ」「つーか仕事休めよ」と思います。
 でも、病気にかかっているわけでもない健康な店員が、通常の接客をしているときに飛ぶ「見えないレベルの唾」まで、プラスチック製のものものしい「防具」をつけて神経質に防がなければならない理由って、なんなのでしょう。

 店員全員があんなマスクで接客している(わけだよなあ)店が世間に受け入れられているということは、店の「ほんのわずかでも、客(料理)に唾を飛ばしてはならない!」と、客の「店員の唾がちょっとでも飛ぶと不潔だから防げよ!」という、互いに過剰な清潔意識がマッチした結果なのでしょうが、他人の「見えない唾」まで、まるで世界を滅ぼす病原菌のように「徹底排除」しなければ気が済まない感受性って、異様としか思えないのですが。
 店員も客も、こういう店をおかしいと思わない人たちというのは、普通のラーメン屋やレストランは「とても不潔で入れないよ!」となるんでしょうか?

 もし、私がその店で働くことになったとしたら「私は病原菌じゃありません。歯磨きぐらい毎日してるし、普通の接客をするのにこんな防具は必要ないですよ」と反発するでしょうね。だって、あんなものを着けろと強要されるのは「お前は病原菌だ!」と言われるのと同じですから。
 逆に客としてこの店に行ったら、「こんな防具を着けているのは、なぜだろう。もしかするとこの店員は伝染病にでもかかってるのか? 昨日飲み過ぎて今にもゲロを吐きそうな状態で接客してるのか? 口の締まりが悪くていつ涎を垂らすわからないとか? そんな店で飯を食う気になれないから今すぐ出よう!」と思いますね。

 こんな「見えないレベルの唾」まで徹底排除しないと気が済まない日本人の行き過ぎた清潔意識は、「あまり潔癖になりすぎると、かえって病気への抵抗力が低くなる」と一部で問題視されているようです。医学知識は皆無なので断言することなどできませんが、私も素人なりにこの意見には納得できます。
 赤坂見附のステーキ屋がやっていることは、「徹底して清潔であらねばならない」という「潔癖病」が進みすぎた、典型的な「現代病」の一つじゃないでしょうか。

 そして、清潔がどうのこうのというよりさらに問題なのは、「口を大げさな防具で隠した店員が、表情だけはニコニコと接客する」その「光景」が、あまりにも異様だということです。

 「口」というのは、人間が感情を表現する器官です。言葉を発するところだからというだけでなく、楽しいことがあれば「口を大きく開けて笑い」、悲しいことや口惜しいことがあれば思わず「口を歪めてしまう」というように、その形や動きも「表現」になる器官なのです。
 確か心理学の実験でも、実は「目」より「口」の動きや形のほうが、その人の心理状態をよく表しているという結果があったように思います。

 この店の「防具」は透明なものでした。だから、プラスチックを通して口の形や動きは見えるようです。でも、見えていればいいというものでもないでしょう。
 店員の「口」を防具で隠す、つまり(一応見えているとしても)店員と客との間にプラスチックという無機質な素材で「壁」を作り、わざわざ壁を作っているのに露出している目の表情だけは「ニコニコ」と接する――。
 そんな完全にアンバランスで人間性を欠いたこの店の接客風景を見て、私は大げさでなく「口が歪んで」しまいました。

 「お前の口は病原菌だ。見えようが見えまいが絶対に唾を飛ばさないよう、防具を着けて接客しろ」と要求する店主も、そこまで人をバカにした要求をされてニコニコ接客する店員も、そんな珍妙な様態の店員が出てくる店で「なんか変だなあ」とも思わず飯を食う客も、私は「おかしい」と思います。
 「おまたせしました」だの「こちらが和風ソース、こちらがデミグラスソースです」だの、ごく普通の短い会話をするだけで「唾が飛ぶ! 汚い!」と神経質になる人たち。本当に、この国の人たちは「他人の存在の何から何までが、嫌で嫌でしょうがない!」みたいですね。

 きっと、この店と同じようなことをする店は、これからどんどん増えていくんでしょう。飲食店だけでなく、スーパーやコンビニなどにも広がって、いずれはどんな店でも店員が、半導体工場で働く人みたいに、全身を完全防菌したスーツで接客するようになるのかもしれません(だって、他人って汚いもん!)。
 会話はもちろん、顔をヘルメットで覆うからすべてマイク越しで。それ以前に、店員だけでなく客も「病原菌」を持ち込まないようにすべきだから、店に入る前に除菌シャワーを浴びる必要があるでしょうね。あ、そんなことよりもまず、客も店員も風俗店みたいに、必ずイソジンでうがいすべきなんじゃないの? だって、他人って汚いもん!

 「見えない唾」レベルが気になるというなら、いっそそこまでやればいい。ああ面白い。そしてバカみてえだ!
 この国の人たちは、いったいどこまで「人間らしさ」をなくしていけば気が済むんでしょうか。

 ちなみに、フリートークで松本人志が言っていた「こちらのお席へどうぞ」とマニュアル通りに強制する、融通の利かない店に腹が立つという話は私も同感。でも、今はどこへ行ってもそんな店ばかりじゃないですかねえ。
 その後の「居酒屋で精算した後、日本酒を頼んだら650円請求された。10万円ぐらい使ったんだからそれくらいサービスしろや!」というエピソードは、ちょっと微妙だなーと思いましたけどね。

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防災無線の騒音で引っ越しを余儀なくされた
 前回のエントリーの続き。

 中国文学者の高島俊男氏が『週刊文春』に連載していたエッセイ「お言葉ですが…」に、駅のアナウンスと防災無線の騒音に憤慨している回がありました。
 文庫版第3巻『お言葉ですが…(3) 明治タレント教授』(2002年)から紹介します。

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 *〔あとからひとこと〕

 これ(註:駅アナウンスについてのエッセイ)を書いたのは琵琶湖の西の団地にいたころである。その後わたしはこの地を離れた。

 おしまいの一年ほど、わたしの生活はほとんど破滅状態であった。

 毎日、午後五時になると大音響の放送がはじまるのである。どんなに窓をぴったり閉めきっていても、それはあらゆる方向からガンガンと突入してくる。

 まず「わらべは見たり野中のばら」の音楽が鳴る。それから女の猫なで声が、「ただいま五時になりました。よい子のみなさんはそろそろおうちに帰る時間です。家族のかたに心配をかけないよう、みんな誘いあって帰りましょう」と言うのである。

 いったいだれがあんな放送をやっていたのか、わたしは知らない。また、ああも四方八方からひびいてきたのは、どういうしかけになっていたのか知らない。

 夏のころなら五時はまだ日がカンカンしている。この放送を聞いて、遊ぶのをやめて帰る子どもなんかいやしない。だいいち子どもは遊びに夢中で、放送なんか聞いていない。たいてい七時ごろまでは遊んでいる。

 また逆に、ひどい雨で外で遊んでいる子どもが一人もいない日でも、やはりこの放送は鳴り出して、「よい子のみなさんはそろそろ……」と大音響の猫なで声をまきちらす。

 つまりこの放送は、実質的意味は皆無である。この放送をやっている連中が、あたしたちは児童の善導に大いに力をつくしているのだわ、と自己満足しているだけだろう。

 あの地区には、駅前など人の目につきやすいところで、中学生か高校生とおぼしきダブダブのズボンをはいた不良どもが地べたにしゃがみこんで、タバコを吸いながら通りかかる人をじろしせろとねめまわしている場所がいくつかあった。そういうところへ、これら児童善導の連中が出てきて善導しているのを見たことがない。実質的なことをやるつもりはないのである。

 五時前後の時間に、どうやってこの放送のきこえない所にいるか。それが、朝起きた時からのわたしの問題だった。スーパーマーケットのなかにいるときこえない。また住宅街のはずれの自動車道路まで行くと、一部分きこえない所がある。たいていそういう場所で五時前後をすごした。

 しかし、その時間だけが問題なのではない。毎日、その時間にむかって緊張が高まってゆく。四時をすぎるともう動悸がしはじめる。突然襲ってくるものより、毎日きまった時間にきっちりと襲ってくるもののほうがおそろしく、人の神経を破滅させるものであることを、わたしはに如実に知った。

 あの猫なで声の女を見つけ出して殺そう。そのために生涯を監獄でくらすことになってもいい、とも考えた。それはあんまり割に合わぬから、あの放送をやっている所をさがして、かなづちを持って押し入って機械をぶちこわそう。それならば器物損壊ぐらいですむだろう、とも考えた。

 しかし結局、この地を離れるほかない、という判断にかたむいたのである。

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 「だれがあんな放送をやっていたのか、わたしは知らない」とか、「どういうしかけになっていたのか知らない」とか書いていますが、明らかに防災無線の放送です。高島さんが防災無線の存在を本当に知らなかったのか、それとも、知らないふりをして書いたほうが原稿として面白くなるからそうしただけなのか、そこはよくわかりませんが……。

 私も高島さんと同じですね。防災無線に限らず、よけいなお世話の注意放送を聞かされると、「あの猫なで声の女を見つけ出して殺そう」とか「かなづちを持って押し入って機械をぶちこわそう」(笑)とか考えます。

 もっとも、私の住んでいる市で防災無線から流されるのは、現時点では夕方の音楽のみ(この音楽が流れる間、私は仕事の手を止め耳を塞いで我慢しています)。
 「小学生の下校時間になりました。子供たちを見守りましょう(私たちを見守ってください)」という究極の「女の猫なで声」放送は、数年前にテスト放送がありましたが、「これは不要だ」という市の判断で本放送には「昇格」せず済みました。
 一時期毎日のように流された「振り込め詐欺に注意しましょう」は、私が「振り込め詐欺なんて、究極的に自分で気をつけるしかない犯罪なんだから、意味のない放送は不要です」と苦情を言ったところやめてくれました(抵抗は激しかったですが)。
 これらの判断に限っては、市の英断を褒めたいと思いますね。

 このような放送をするのとしないのとで、町の治安にどんな違いができるというのか。明確に違うというデータがあるなら持って来いという話です。むしろこんな放送をするから「あいつも不審者、こいつも不審者だ!」と、人々が互いを疑心暗鬼の目で見て、よりギスギスした「人と人との繋がりのない町」になってしまうのだ、と私は思いますけどね。
 防災無線の放送にどんな問題があるのか、それはこのエントリーにまとめているので、時間のある人はぜひ読んでいただきたいと思います。

 最近は、子供を道路で遊ばせる「道路族」の迷惑行為が話題になっているようです。自分の子供を公園に行かせず、目の前の道路で遊ばせる親は「公園は、不審者ばかりで危険だから!」という、わけのわからない理由でそんな遊び方をさせています。
 実際、数カ月前まで私の家の前の道路で遊んでいたガキどもの親も、そんな考えで子供を道路で遊ばせていました(今は、子供たち自身が同じ場所で遊ぶのに飽きたらしく、公園に行ったりどこかに遠征したりしているようで、ひとまず道路は静かになりました)。

 でもねえ。いったい日本の公園のどこが「不審者ばかり」なのか。そこまで「危険だ!」「注意しなければ!」と怯えるほどのことが、公園で毎日のように起きているという証拠がどこにあるのか。
 ちょっとベンチに(親以外の)大人が座っているだけで「あいつは不審者だ! やっぱり公園は危険だ!」などと考える人たちは、何がどうなれば「安全」だと思えるんでしょうか。

 子供も大人も、日本ほど安全に暮らせる国はない。それはほとんどの人が皮膚感覚で理解しているはずです。
 「外国はスリや置き引きばかりで怖い。店に強盗ばかり入って、子供の誘拐も多いらしい。いつテロが起きるかわからないし、アメリカなんて銃犯罪ばかりだもんなあ。それに引き替え日本の治安はすばらしいよ。治安の良さこそ日本が世界にアピールできる観光資源だ」なんてことは、誰もが口にしたり思ったりしていることでしょう。マスコミだってそう言います。

 客観的に見てそこまで安全だと「知っている」のに、なぜ「注意しましょう! 気をつけましょう!」の放送がこんなにも必要なのか、「公園は危険だ!」などと思い込むのか。「日本は安全だなあ」と口にする人(やマスコミ)が、同じ口で「最近の日本は犯罪だらけだあ!」と叫ぶ自己矛盾になぜ気づかないのか。

 今の日本ほど安全な国でも「不安で不安でしょうがないんじゃ!」とガタガタ怯え、「注意放送が必要だ!」「もっと監視カメラをつけろ!」などと考える人は、一度、病院に行ったほうがいいんじゃないかと私は思いますけどねえ。何科の病院かは言いませんが。

 話を高島さんのエッセイに戻すと、正直、私が不満を覚えるのは、高島氏が「大音響の猫なで声」の正体は防災無線の放送であると調べて、役所に「やめてくれ」と苦情を言いに行かなかったことです。
 最終的に「この地を離れるほかない」という判断に傾くのは仕方ないとして、生活が「破滅状態」に追い込まれるほどひどい放送なら、なおさら、一度でいいから苦情を言いに行ってほしかったと思います。

 おかしいことはおかしいと言わないと、「町が怖いよお! 危険だよお!」と、なんの根拠もなく思い込んでしまった人は「治らない」し、防災無線から「注意しましょう! 気をつけましょう!」と放送することを「いいことだ!」「放送すれば問題が解決する!」と信じ込んでしまった人たちは、絶対に放送をやめようとはしません。
 もちろん、悲しいことに苦情を言ったからといって、この手の放送がなくなる可能性は低いのが現実です。でも、言わなければ何も始まらないのもまた現実です。

 ところで、この本の解説は、評論家の呉智英氏が書いています。呉さんは居住地である愛知県西枇杷島町(現在は合併で「清須市」になったらしい)で、防災無線の放送を止めさせるため裁判を起こした方です。

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防災放送のテスト「うるさい」と提訴へ=西枇杷島町相手に呉智英さん-名古屋地裁

 昨年9月の東海豪雨で最大の被災地となった愛知県西枇杷島町の防災放送のテストをめぐり、「静寂を破られ苦痛」として、同町の評論家呉智英さん(55)が町を相手取り、放送の中止を求める訴訟を16日、名古屋地裁に起こす。
 訴状などによると、同町は東海豪雨で町内約6600世帯のうち、約4000世帯が床上浸水するなどの被害を受けた。住民から「避難勧告が伝わらなかった」などとする声が相次いだため、町は6月、防災放送塔26基を設置。試験放送として朝夕2回、ドボルザークの「家路」などを流し始めた。 (時事通信)

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 呉さんがこの訴訟を起こしたのは2001年。そして最高裁まで争った末、2005年に敗訴が確定してしまったようです。

 今回、紹介している高島氏の本が出版されたのが2002年。呉さんは解説を書いた時点で、すでにこの訴えを起こしていたのではないかと思うのですが、解説では特に触れていません。また、どこかで「この裁判の顛末は、いずれ本にする」と書いていたと思うのですが、現時点でそういう本は出版されていないと思います(出しても売れないだろうしねえ)。

 呉氏は、今も裁判を起こしたのと同じ清須市に在住のよう(Wikipediaによれば)ですが、相変わらずこの「朝夕2回のドボルザーク」に悩まされているんでしょうか。それとも、防災無線についての発言が途絶えたということは、この放送がなくなったか、あるけど気にならなくなったのでしょうか。気になります。

 敗訴は残念(予想どおりでもあったのでしょうが)ですが、高島氏にしろ呉氏にしろ、こういう著名な人たちが、もっと「スピーカー騒音」のおかしさに言及してほしい。私はいつもそう思っています。

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カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
「とりわけばかばかしい」エスカレーターの注意放送
 中国文学者の高島俊男氏が『週刊文春』に連載していたエッセイ「お言葉ですが…」に、駅のアナウンスと防災無線の騒音に憤慨している回がありました。
 文庫版第3巻『お言葉ですが…(3) 明治タレント教授』(2002年)から紹介します。

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エンドレステープを憎む

 ちかごろ最も深い共感をもって読んだ本は、中島義道さんの『うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い』(洋泉社)であった。

 題に言う通り、これは騒音との戦いの記録である。著者の中島さんは、日本の社会に満ちあふれるさまざまの騒音と、敢然として、ほとんど身命を賭して戦うのである。

 共感したのは、わたしもまた中島さんと同様、うるさい音にたえられぬ者であるからだ。もっともわたしは中島さんのように勇敢ではなく、避けられるかぎり避け、避けらねば一人で腹を立てているだけなのだけれど。

 むかし、東京に二十年ちかくいて十ぺん転居した。あのアパートはむかいの洗濯屋が一日中ラジオをつけっぱなしだった、あの下宿の二階は近くの小学校の校内放送がやかましかった、あすこは斜めむかいの部屋の仏文の野郎が真夜中になるとフランス語のテープをヴォリュームいっぱいにかけやがった、とみな音でおぼえている。

 この仏文の野郎に、このあいだ東京へ行った時ばったり出くわしたのには驚いた。無論先方は気づかないが、こっちは見たとたんにわかった。食いもののうらみより音のうらみだ。二十代の学生だったのが五十代か六十代かのオッサンになっていたが、蛙のように無神経なツラつきはすこしも変っていなかった。

 たまに東京へ行って一番感心するのはエスカレーターである。どこでもみな、人が左側に一列に立って、右側を急ぐ人のためにあけてある。関西とくらべて、えらいもんだなあ、と感にたえる。

 それよりももっとうれしいのは放送がないことだ。東京のエスカレーターは静かに動いている。こちらも心静かに乗っていられる。

 「なかでも私にとって苦痛なのは、くりかえしのテープ音である」と中島さんは書いていらっしゃる。まことにしかり、あらゆる騒音のなかで最もたえがたいのは、あの同一文句を無限にくりかえすエンドレステープだ。そのテープのなかでも、とりわけばかばかしいと思うのがエスカレーター放送である。たかがエスカレーターに乗るのになんでああもクドクドと注意を受けねばならぬのか。

 中島さんもこの本を、京都駅のエスカレーター放送の全文紹介からはじめている。

 「手すりをしっかり握って黄色い線の内側に……」「お子様はかならず手をつないで……」「長靴はすべりやすいので……」「逆方向に走らないように……」等々々とくりかえすあれだ。そのしつこさ、程度の低さは、まさしくこの本の開巻冒頭を飾るに足る。

 わたしは平生湖西線(京都を起点とする)の沿線に住んでいるので、どこへ行くにも京都駅を通らないでは行けない。中島さんは「京都駅ビル正面のエスカレーター放送」と書いていらっしゃるが、駅構内のエスカレーター放送はみな同じである。わたしは無論エスカレーターには乗らない。並行してある階段を脱兎の如くのぼりおりするのであるが、それでもこの憎むべき放送はいやでも耳に入る(階段を脱兎のごとくのぼりおりするのはあの放送を耳に入れたくないからである。元気みちあふれて駆けているわけではありません)。

 京都駅はついこのあいだまで大規模な改築工事をやっていた。この時はもっとひどかった。「ただいま工事をいたしております」「通路がせまくなっております」「御理解と御協力をお願いいたします」というたぐいの放送を、構内のあらゆる場所で、工事の期間中ずーっと、何万回とも何百万回とも知れず無限にくりかえし流しつづけていた。プラットフォームで湖西線の電車を十五分も待っていようものなら、もう気が狂いそうになる。とにかく京都駅にいる時間を一分でも短くするためにわたしはいつも時刻表と首っぴきだった。

 この放送は完全に無意味である。工事をしていることは「いたしております」と教えてもらわなくても見ればわかる。「御理解と御協力」にいたってはまったくナンセンスだ。

 わたしは京都駅から新幹線に乗って豊橋の学校へかよっていた。同じ時期に豊橋駅も同規模の工事をやっていた。しかしこちらは何の放送もなく、静かなものであった。JRだから愚かしいのではない。要は駅長の人物なのだろう、とわたしはいつも思っていた。

 わたしの乗る湖西線の駅では、いかなるばあいもテープは一種類、「まもなく列車がまいります。キケンですから白線の内側におさがりください」の一本槍である。これをかならず、ばかみたいに二度くりかえす。

 電車を待っていると、その直前に特急列車が通過することがある。それが近づいてきた時にもこの放送をやるものだから、知らない人は線路のほうに歩み出て、目の前を轟然と通りすぎる特急にびっくりする。

 「列車がまいります」と言ったら、「あなたがたの乗るのが来ますよ」の意に解するのは当然ではないか。そんなことはおかまいなしなのである。

 またこの放送の、キケン、キケンと鋭いK音をくりかえす音は非常に耳に立つ。そもそも駅に電車が入ってくるというのはしごく正常なことであって、何も危険な行為ではないのだ。

 駅の放送の最低要件は、つぎに来るのが「止まるのか通過するのか」「どこ行きか」「各駅停車か飛び飛びか」を客に知らせることである。それを知らせる親切がないのならいっそやめといたほうがよい。

 京阪電車にもよく乗るが、これは何も放送がない。電車は静かなプラットフォームに黙って入ってきて、黙って出て行く。それで乗りそこなう客も電車に衝突する客もいない。いるわけがない。放送なんぞはなくていいのである。

 ではなぜJRはあんなにやかましくテープを流すのか。万が一、十年に一度か二十年に一度事故があった時に、「キケンですとくりかえし注意しておりました」と言いぬけるためである。客の身を案じてではなく、わが身を守るための放送なのだ。これはエスカレーターも同じ。JRは愚劣なだけではなく、悪辣なのである。まあ豊橋の駅長さんだけは別としときますけど――。('97・9・18)

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 この回が雑誌に掲載されたのは1997年のようです。私は関西にはまったく縁がないのですが、数年前に生まれて初めて京都に行き、いろいろな「音」にうんざりしました。それについては「京都」のカテゴリに書いているので繰り返しませんが。

 高島さんは「エスカレーターに乗るときは手すりにつかまり、黄色い線の内側に立って……」などのアナウンスが東京では「ない」と書いていますが、それはまあ、たまたま高島さんの乗るエスカレーターが、あまりこの放送をしないか音量の小さいものばかりで、気づかなかっただけかもしれません。
 もしかすると、このアナウンスは東京より関西のほうがはるかにうるさくて、東京にいるときはあまり気にならなかった、という地域性の違いもあるのかもしれませんけど。

 そもそも、少し注意を向けるとよくわかるのですが、エスカレーターのアナウンスは、鉄道の駅よりデパートやスーパーなど商業施設のほうが、しつこくてやかましい傾向にあります。駅では、この放送をしていないエスカレーターも意外によくあるほどです(少なくとも東京は)。

 やっぱり、駅の利用者は基本的に大人を想定しているけど、商業施設は子供や親子連れにも「最大限の配慮をしなければならない!(配慮しているふりをしなければならない!)」と考えるから、「よい子のみなさん!」というお決まりの枕詞をつけて、クドクドクドクド「手すりにつかまり、黄色い線の内側に立って……」と始まってしまうのかなと思います。もちろん私の勝手な推測ですが。

 でも、「よい子のみなさん!」というこの言葉ほど、気持ちの悪いものはありません(うちの近くでは、特に大音量でうるさいのがイトーヨーカドー!)。
 だいたい、こんなアナウンスで注意しなければならない子供は、その時点で「よい子」じゃないんだから、放送するなら「おいクソガキ! 手すりにつかまらねーとあぶねーのがわかんねえのか! てめえに何かあったらうちらが責任とらされるんだから、おとなしく乗ってろ! そこの親もヘラヘラしてねーで、てめえのガキぐらいてめえで気にかけとけ!」とでも言ってやればいいんです。ほんとに。

 「たかがエスカレーター」ごときで、いちいち「ご注意ください!」と放送するから、万が一にも事故が起きたとき、利用者が「こんな危険なものを設置して、事故に遭わせるなんてひどい! 謝罪しろ! 補償しろ!」と詰め寄ってくるようになる。よけいな「お客様意識」を高めてしまうのです。それで困るのは駅や商業施設なのだから、いっそこんなアナウンスはなくして、何かあったら「エスカレーターぐらい、注意されずに乗れないんですかあ?」とでも言ったほうがいい。

 「前から爆弾が飛んできます! 伏せてください!」「あなたの目の前にナイフを持った通り魔がいます! すぐに逃げてください!」という緊急事態じゃないんだから、ただエスカレーターに乗るだけで、いちいち「ご注意」されなきゃ安心できない人、「もっと注意してよ! それがやさしさでしょ!」なんて要求する人たちこそ、町にうるさいアナウンスを氾濫させている真の「加害者」です。

 私も高島さんと同じように、エスカレーターでこのアナウンスが流れていると、それを避けるため「並行してある階段を脱兎の如くのぼりおり」します(おっさんだから「脱兎の如く」どころか、ヒーヒー言いながらですが)。あまりにも階段が長くて辛そうな場合は、遠回りしてでもエレベーターを探しますね。
 エレベーターも「2階、改札階です(1階と2階を往復するだけなのに!)」「扉が開きます(開いてもらわなきゃ困るよ!)」など、愚にもつかない音声案内ばかり流しますが、エスカレーターの「繰り返しアナウンス」と比べればずっとましです。

 それから、これはアナウンスとは関係ないのですが、高島さんは東京のエスカレーターが「人が左側に一列に立って、右側を急ぐ人のためにあけてある」ことを「えらいもんだなあ」と褒めてますが、ほとんどの人がこの「ルール」に従っているところを見ると、やっぱり世間では支持されているんでしょうか。
 私はどうも、この乗り方が嫌で嫌で仕方ありません。

 特に駅の場合がそうですが、電車が到着しちょっと人が増えると、このルールのせいでエスカレーターの左側にだけ長蛇の列ができてしまいます。エスカレーターに乗る時間が20秒なのに、列に並ぶ時間が1分も2分もかかる、なんてこともざらにあります。

 「早く行きたい奴は、右側を歩けばいいだろ!」というのが今のエスカレーター利用の「暗黙の了解」なんでしょうが、そもそもエスカレーターは歩行するものじゃなく立ち止まって乗るもののはず。幅が狭く、立っている人の脇を歩くようには設計されていないのだから、ちょっと荷物があったり、左側の人が右のほうまではみ出したりしていると、途端に前がつかえて、狭い空間を苦労してすり抜けなくてはなりません。それって、エスカレーター本来の使い方とは違うと思うんですが。

 右側を空けず、最初から全員2列で乗れば、誰もがもっとスムーズに移動できるはず。なぜ、片側しか本来の活用法をしないエスカレーターの乗り方が「世間のルール」になってしまったのか、私には理解できません。

 それに、エスカレーターに乗るとき、いちいち前の人との間を1段空けて乗る奴ばかりというのも、気にくわないですね。そんなに自分の真後ろに人が立つのが嫌なのか? 自分が人の真後ろに立つのが嫌なのか? 1段後ろに立つ(立たれる)のと、2段後ろに立つ(立たれる)のと、何がそんなに違うのか?

 ガラガラに空いているときならともかく、長蛇の列ができるほど人がいても、平気な顔で1段ずつ間を空けて乗る。それが当たり前になってしまっている今のエスカレーターのルールが、どうも私にはまともとは思えません。
 こんなルールが「常識」になってしまっているから、せっかくテンポよくエスカレーターまで歩いてきたのに、前の人がその前の人と1段(ヘタをすると2段も3段も)空けようとして立ち止まるせいで、後ろが詰まってたちまち「渋滞」してしまうなんてこともよくあります。

 エスカレーターで、自分の後ろの段に人が立つことが「不快でしょうがない!」「自分も立ちたくない!」と考える日本人。こういう(あえて言えば)小さな、何気ない行動様式をみても、私は「人と人とのふれあいが大切だ!」などと掛け声だけはかっこいいくせに、少しでも他人が自分の感覚領域に近寄ると、とてつもない警戒心と不快感を露わにする日本人の欺瞞性を感じますね。

 エスカレーターでは、左側だけでなく右側にも乗る。そうすれば行列が2分の1の長さになります。さらに1段ずつ空けるのではなく詰めて乗れば、一度に今より4倍の人がエスカレーターに乗ることができて移動が楽になる。それなのに「左側にだけ、前の人と1段空けて乗る」というおかしなルールが定着してしまっている現状に、私はイライラするばかりです。
 アナウンスとこのルールの二重苦のせいで、私はできるだけエスカレーターを避けています。めんどくせえなあ!

 高島さんのエッセイは、このあと、防災無線の放送から逃げるため引っ越しを余儀なくされたエピソードに続くので、次はそれも紹介したいと思います。

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カテゴリ:駅・車内
「音」でも暴行罪が適用されるという判例
 ある本を読んでいたら、「刑法では、身体的な接触がなくても、音などで相手を意識朦朧とさせれば暴行罪が適用される。その根拠となる判例もある」と書いてあったので、調べてみました。

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 刑法第208条(暴行罪)

 暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。

 http://goo.gl/DBsQHb

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 音でも暴行罪が適用されるという判例が、これ。

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 刑法第208条にいう暴行の意義

  刑法第208条にいわゆる暴行とは、人の身体に対し不法な攻撃を加えることをいい、加害者が、室内において相手方の身辺で大太鼓、鉦等を連打し、同人等をして頭脳の感覚が鈍り意識もうろうたる気分を与え、または、脳貧血を起させたりする程度に達せしめたる場合をも包含するものと解すべきである。

 http://goo.gl/HZnmeu

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 昭和29年8月20日の最高裁の判例だそうです。
 どんな事件の裁判かというと、どうやら「ブラスバンド用の太鼓を室内で連打し、被害者を朦朧とさせた事件で音による暴行を認めた」事件のようです。

 http://goo.gl/tC7mR

 の真ん中あたり。なるほど。

 判例では「室内において」とありますが、どんな場所を「室内」と解釈すればいいんでしょうか。また、「大太鼓、鉦等を連打し」とありますが、人を意識朦朧とさせる音は太鼓や鉦に限りません。

 私なんか、電車の車内(室内ですね)で、耳を突き刺すような大音量のアナウンスを聞かされると、意識朦朧としてしまいますよ。家電量販店、ドラッグストア、スーパーなどの店内(室内ですね)で、天井からBGM、商品棚のスピーカーから宣伝放送、店員から「いらっしゃいませええええ!」の絶叫を同時に浴びせかけられると、意識朦朧としてしまいます。ファミレスやファーストフードの店内も同じです。
 おんなじこと、しかも幼稚な内容の放送を何度も何度も繰り返し聞かせられると、すぐ「意識もうろうたる気分」になってしてしまいますが。

 野球場の応援団はどうでしょうか。これこそ「加害者が、室内において相手方の身辺で大太鼓、鉦等を連打し、同人等をして頭脳の感覚が鈍り意識もうろうたる気分を与え、または、脳貧血を起させたりする程度に達せしめたる場合」に相当すると思うんですが。「室内において」が抜けているというのなら、ドーム球場なら適用できるんじゃないか(笑)。

 音の発生源が室内じゃなくても、室内でやられるのと同じように「意識もうろうたる気分を与え」られてしまう騒音だって、山のようにあります。防災無線、デモや演説、そして選挙カー! 商店街のおせっかいなアナウンスや街頭ビジョン、アドトラックの轟音に車のボイスアラーム! 子供の奇声や絶叫、路上ライブ、度を超えた祭りの音!
 隣家の住人の騒音はどうなのか? しつけ方も知らない飼い主が「犬は鳴くのが仕事なんだよ!」なんて、わけのわからない屁理窟で放置し続ける犬の鳴き声は?

 要するに、このブログで取り上げている「音」は、どれでも「頭脳の感覚が鈍り意識もうろうたる気分を与え、または、脳貧血を起させたりする程度に達せしめたる場合」を容易に招く音なのです。
 そういったレベルまで達している音が世の中にはあふれているというのに、ごく一部の人しかそのおかしさを指摘しない(特にスピーカー騒音は)し、異議を申し立てることもしない。また、自分が「暴行罪」に相当するような行為をしている加害者であることにも気づかない。
 それはもう誰もが、「頭脳の感覚が鈍り意識もうろうたる気分を与え、または、脳貧血を起させたりする程度に達」していて、そんな世界に順応してしまっているからなんでしょう。
 「嫌な渡世だなあ」(c勝新)と言うしかありません。

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
祭りの本音は「絆」じゃなくて「金儲け」?
 祭り(の騒音)について、思うところをだらだら書きます。

 いよいよ夏祭りの季節になり、昨日、うちの近くの保育園で「子供祭り」が開かれました。近隣では、ほかに小学校の校庭でおこなわれる(やはり)子供祭りと、地域で一番大きな夏祭りが8月にあります。
 ほかにもいくつかの神社や公園で開かれる小規模な祭りはあるみたいですが、私の家に「音」の影響があるのはこの三つです。

 去年、保育園の子供祭りでは、いきなり大音量の「ソーラン節」が始まってしまい、その練習も含めてかなりうるさかったことはこのエントリーに書きました。
 1年たって、そんなことはすっかり忘れていましたが、今年は(なぜか)ソーラン節はなかったようです。それどころか、祭りをやっていることにこんな私でも、まったく気がつかなかったほど「静か」だったのです。それがなぜなのかはわかりませんが。

 しかし、夕方近くなって、どこからかハンドマイクで「*〒*○●〃♂〆∥#@§!」とがなり立てる声が。やや遠くからだったのではっきり聞こえませんでしたが、私はこれを共産党か共産党後援会か東京土建(騒音3バカトリオ)の演説だと思ってしまいました。
 「また来たか!」とうんざりしたものの、ちょうど仕事が一区切りついたばかりで疲れていたので、このまま近づいてきても「やめろ!」と言いに行く気力はありません。そこで、さっさと着替えてどこかへ避難することに決めました。

 ところが外に出ると、ハンドマイクの音は子供祭りの会場からとわかりました。そして、なんだ避難することはなかったと思うと同時に、やっぱり日本のスピーカー騒音に「やれやれ」とあきれてしまいました。

 ハンドマイクは「これから屋内で人形劇をおこないます! ご覧になられるお子さんや保護者の方は、保育園の中にお越しください!」とがなり立てているようでした。
 これがバカでかいのなんのという音量で。
 子供祭りは、保育園の園庭にたくさん屋台が並び、近隣の住民にも開放している祭りで、子供も大人も大勢集まっていました。ハンドマイクの音が聞こえるまで、どんな催しをやっていたのかわかりませんが、すぐ近くの家で仕事をしていた私がまったく気づかなかったので、今年はわりと「粛々とした」祭りだったんでしょう。

 別に祭りをやめろと言うつもりは一切ないし、年に一度のことなんだから、多少の音楽や歓声が聞こえてくるのは全然かまいません。でも、祭りそのものの音はほとんど聞こえてこなかったのに、職員のハンドマイクの音だけが飛び抜けて大きい。とにかくこれが、日本のスピーカー騒音の現実を表しているようで、なんとも腹立たしくなってしまいます。

 たいして大きな園庭じゃないんだから、「保育園の中にお越しください!」なんてわざわざハンドマイクで叫ばなくても、ちょっと大きな声で知らせれば、周りの人に十分聞こえるはずなのに。
 そして、その声を聞いた参加者が、知り合いでも知り合いじゃなくても「人形劇だそうですよ奥さん!」なんて声をかけあったり、屋台のおっさん(プロではなくおそらくボランティアの住民)が「人形劇だって。行っておいで」なんて子供に言ってあげたりするほうが、よほど「地域の絆」を作ることになるんじゃないかと私は思うんですけどね。
 そういうことを考えるより、てっとり早くハンドマイクを使って「*〒*○●〃♂〆∥#@§!」とがなり立て、軍隊のように一律に行動させることを無意識のうちにでも選んでしまうんだから、これぞ日本のスピーカー騒音の典型的な現象でしょう。

 その後、祭りは夜7時半くらいまで「東京音頭」を踊ってお開きになったようです。この音頭はもちろんうちにも聞こえてきましたが、耳をつんざく大音量というわけでもなかったし、別に全然かまわないです。あまり夜遅くまでやられたらいろいろ考えたでしょうが、7時半くらいなら許容範囲だと思いますし。

 それにしても、祭りの音は(ハンドマイクと東京音頭を除けば)たいしたことがないのに、日頃、この保育園から聞こえてくる子供の奇声、絶叫は凄まじいけたたましさ。これが逆ならわかるのですが、どうしてそんな「ねじれ現象」を生んでしまうのか、正直なところ私には理解できません。

 そういえば、うちの地域で一番大きな祭りは、数年前まで1㎞以上に渡って道路を歩行者天国にしておこなわれていました。
 ところが、協賛している商店街のうち、周縁地域の商店街が「メリットがない(つまり客寄せにならない、金儲けにならない)」ということで、協賛から降りてしまったそうです。
 そのせいで、祭りの会場は3分の2程度の大きさになり(やっていることは変わらないので「密度」が高くなった)、何より協賛金が確保できなくなって、主催者は試行錯誤しているようです。

 私はこういう話を聞くと「『祭りで地域の絆を作ろう!』なんて美しいこと言ってるけど、金儲けにならないとわかったとたん、さっさと降りてしまうんだから、ずいぶん現金なものですね」と思ってしまいます。
 我ながらちょっと皮肉が過ぎるとは思いますが、日頃、この手の「音」に苦情を言うと「人と人との繋がりは大切だぞお」「人は一人では生きられないんだよ」なんて、いかにも善人が悪党を裁いたり、諭したりするような建前ばかり言ってくるのが日本の社会です。

 その善人が本音では「金にならないとわかれば、さっさと祭りを拒否する」んだから、なかなか面白いものです。やっぱり、ちょっと皮肉が過ぎるとは思いますが、そう思ってしまうものは仕方ありません。
 「地域、地域」なんて言うわりに、私が「こんなに町を汚してるんですよ」と指摘する不動産業者の違法看板については、なんの問題意識も持たないしね。

 この祭りは、300m以上離れた私の家にも聞こえてくるほどの大音量でカラオケの音を響かせたり、「いくらなんでも考えてほしい」という点が多々ありました。それらのあまりにも過剰な「音」については2年前のエントリーに書きましたが、その後、主催者に電話で苦情と要望を伝えました。
 そのときに聞いた話では、私よりもっと会場の近くに住んでいる人たちから、祭りの最中に何本も「うるさすぎる!」というクレームがあったそうです。

 去年の祭りでは、その苦情が受け入れられたのか、それとも「たまたま」なのかどうかわかりませんが、一昨年より聞こえてくる「音」が控えめで、これならそれほど苦痛を感じなくて済む、というレベルになっていました。
 今年はどうなることやら。

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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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