椎名誠氏が本会の活動に言及
 月刊誌『新潮45』2014年1月号で、作家の椎名誠氏が本会について言及しています。連載エッセイ「不眠を抱いて」第10回より。

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 音の遮断、ということも質のいい睡眠に欠かせない大事な環境整備だ。安普請の家で隣りの生活音が常に聞こえてきたり、盛り場近くに住んでいて、深夜までカラオケの音が低音の振動までまじえて聞こえてくる、などという劣悪な環境が現実にあり、そこで寝なければならない人がいる。よほど神経が太くないかぎり質のいい睡眠は得られないだろう。就寝時間である夜の騒音に対する関係者の鈍感ぶりと、そういうことを取り締まる思考や法令などが先進国のなかでは日本はとくに遅れている、と「拡声器騒音を考える会」など生活騒音問題を追及するいくつかの民間団体などが指摘している。

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 「拡声器騒音を考える会」は本会の07年までの名称で、しかも「夜の騒音」だけをテーマにしているわけではないのですが、まあ、それはそれとして椎名氏のようなメジャーな作家に言及してもらえると、本会の一会員としてうれしいです。


 ※追記:「不眠を抱いて」は『ぼくは眠れない』と改題して新潮社から発売中。会の名称は「静かな街を考える会」に訂正されていました。


 もともと、椎名氏と本会には縁があるようで、私はリアルタイムでは知りませんが、本会が1987年11月に横浜で開催したシンポジウム「ニッポンの音・日本人の耳」にもパネリストとして登壇して、こんな発言をしています(機関誌『AMENITY』5号より)。

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 僕は物を書く商売ですが、拡声器騒音のせいで、うるさくて仕事が出来ないというわけではありませんが、昔から音や光、あるいは臭気といった外からの刺激に対して色々考えることがありまして、やはり不愉快な、あるいは苦痛を感じるものはいやなんです。中でも都会生活をしていて一番被害を受けているなと明らかに感じるのは拡声器騒音だと思います。

 最近発生源の人達のポジションを考えてみたら、お役人が多いことに気がつきました。僕の家は東京の小平市ですが、引越して十八年の間に市の至る所に高い柱が立てられ、スピーカーが取りつけられ、しょっちゅうそのスピーカーによって色々な指示を受けているんです。例えば先達は朝八時大音量で、まるで雷鳴みたいに天からのスピーカー音が始まったんです。災害放送かと思って耳を澄ましていたら「今日は交通安全週間の初日です。皆様、車人に気をつけて一日暮らしましょう」って言われちゃったんです。春の防犯デーにも「鍵をかけてから家を出ましょう」といった放送がありました。一体これは何なのだろうと考えました。親切あるいは義務あるいはおせっかいなのか。おせっかいと考えると一番わかり易いんです。

 それから騒音の発生源で最もうるさいのは警察です。昔、日本橋のデパートがある四つ角で高い所から、お巡りさんが拡声器を使ってディスクジョッキーをやっていました。橙で急に横切った車にそのナンバーを言って「危ないじゃないか」って言ったり、「ほらほら、そこの白いコートのお兄さん、そんなに急いでどこ行くんですか」とかね。言われた人はハッとしたりしてとても異様な風景でした。

 地下鉄の車内も異常です。「降りる時は順序よく」「人を押しのけないように」「ドアがあいてから降りるように」(笑)まさかそうは言わないか(笑)、「手をはさまれないように」「電車とホームのすき間に落ちないように」等々。やっぱりおせっかいです。さっきの交通安全週間、防犯デーと同じレベルのおせっかいです。市役所に言われなくても鍵はかけるものだし、手をはさまれる人は言われたからって、はさまれなくなるわけでもないんです。このおせっかいは一体何なのか。我々を幼児扱いしていると考えていいと思います。子供扱いなんですよ、早い話が。このことが必要以上の騒音に結びついているのではないかと思いますね。

 それからもうひとつ。日本人の感覚・感性は世界的に見て、ちょっと特殊・異常じゃないかと思いますね。音に対して極めて鈍感な民族だと考えます。だいたい大きな音に対しては聞いていないんじゃないか。右翼が大きな音をたてて走ってますけど、今日はひとつじっくり聞いてやろうなんて人はいないでしょう。そうするとあの送り手と受け手の関係っていうのは最も悲しい超日本的な鈍感と押しつけの構造であって、もしかして幼児化より更に問題のある日本人の感性にまで結びついてくるのではないだろうか。声の出るハサミとか、水をやると「ありがとう」って言う植木がある(笑)そうですが、もうここまで来るとどうしようもない。

 この間小っちゃな子がピヨピヨサンダル、歩くとピヨピヨって音がするのありますよね、あれをはいてお母さんに手を引かれて歩いていました。子供に良かれとはかせているんでしょうけど、そうすると子供は自分の囲りが常にピヨピヨピヨピヨと言っているわけで、騒音発生源の鈍な精神を作って行くと思いますね。あれを履いていると、父とあるいは母と散歩に行っても、例えば秋の虫の音なんかが聞こえないわけですよ。常にピヨピヨの音をしながら歩いている散歩の風景っていうのは殺伐としたものだと思います。普通の音のしないサンダルはかせて、今、虫が鳴いているじゃないか、じゃ一体何の虫なんだろうって所から親子の会話が出てくるんですよ。そういうものをぶちこわして行く商品、しゃべるハサミ、植木、音の出るサンダル、この状況はもしかすると発生源のはっきりしている拡声器騒音なんかよりも、問題の根は深いような気もしますね。

シンポジウム.jpg

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 シンポジウム、なんて派手なことがやれていたというのが、一番の驚きです。今よりも30年近く昔のほうが、まだしも「音」について考えよう、警戒していこう、という意見がわかってもらえる世の中だったというわけです。
 こういうシンポジウムやパネルディスカッションなどは、90年くらいまでに何回か開催されたようですが、そんなことをしても何も変わらない、世の中は相変わらず人を幼児扱いし、やかましくなる一方だ……という挫折感しか残っていないのが現状です。

 この発言の中に出てくるしゃべるハサミや植木、なんていうのは、私はちょっと記憶にないのですが(ほんとにそんなものがあったのか?)、うれしいことにピヨピヨサンダルは最近、ほとんど見かけないような気がします。でも、昔よりましになったのはそれくらいで、そのほかの「音」はますますエスカレートするばかり。

 椎名氏は、本会の会員でもある哲学者・中島義道氏の著書『醜い日本の私』文庫版(09年)の解説でも、「音」や「景観」の問題を指摘しています。

――――――

 (前略)

 中島氏が一九九六年に洋泉社から出版した『うるさい日本の私』のなかで、日本の公共施設などでのけたたましい拡声器騒音のことについて鋭く、しつこく、怒濤の寄り身で語っているのを初めて読んだとき、ぼくはひそかに快哉を叫んだ。

 (中略)

 拡声器騒音。

 わかりやすい例でいえば、そこらにあるエスカレーターのまわりに一日中流れている「あぶないですから前をむいて、ステップ台の真ん中に立って、手すりにつかまって、お子様の手をひいて……」などとエンドレステープがずっと繰り返し喋っているようなやつだ。

 夕方になると、暗くなるなら子供は帰りなさい、とか、(大人に対して)火災になるから火は消すように、とかスピードを出すと危険であるからブレーキを踏みなさい、とか混雑しているので人込みに気をつけて歩きなさい、とか電車が止まったら開くドアに手を挟まれないように注意しなさいなどと、繰り返し流されるテープによる拡声器の「命令だらけ」の街の風物? である。大音量のわりには誰も聞いていないやつである。

 公共施設などにいくとこの手の「ああしろ、こうしろ」のおせっかいアナウンスがいたるところにあり、それが干渉しあって何がなんだかさっぱりわからないような場所が沢山ある。けれど、この公共の空間を侵す異様なそれらに対して日本の大人たちはびっくりするほど寛容だ。いや、違うのだ。ただひたすら無関心、つまりは絶望的に鈍感なのだ。

 「拡声器」という文字からしてすでに醜悪なイメージを持つ機械で、本来静かであるべき公共の空間に一方的に巨大な音(声)をだす暴力的無神経さに疑問をもつ人が、文人や芸術家と言われる人にあまりいない、というのもどういうことなのだろうか。

 ぼくが知っているかぎりでは、作家の城山三郎氏を中心に「拡声器騒音を考える会」というような組織があって、市民活動をしていた。そのグループが出しているパンフレットなどを見て頼もしく思ったものだけれど、今は「静かな街を考える会」と名を変えて継続しているようだ。

 (中略)

 本書の第一章では、ごく普通に東京の町のありふれた商店街を例にして、その醜さを淡々と書いている。「音」のときもそうだったが、この章を読んで、何がなんだかさっぱりわからない人も多いのだろうと思う。そしてそういうマジョリティにこの本の「本意」を理解してもらうのは大変な事だと思う。

 (中略)

 「わからない人」にはいくら説明しても絶対わからないだろう。それは「音」の本と同じである。

 この本で、コンビニにおけるアルバイト店員のバカ丁寧な対応言葉をとりあげている。

 どんな客がきてもあのカウンターにいる娘らは両手を前に組んで「いらっしゃいませ、こんばんわあ」などという。その機械人形のような、丁寧ではあるけれど日常では彼女たちはおそらく絶対使っていない現実ばなれしたその言葉が誰にでも同じ調子で発せられる風景に、中島さんは煩悶する。

 (中略)

 たしかにアメリカのデリカテッセンなどに入ると、店主は絶対に笑顔など見せない。色黒で大柄なぼくなどはむしろ敵意に満ちた警戒の目でみられるのが普通だ。アジア人のわけのわからない男が店にくるのは迷惑だ、という露骨な顔をして警戒して見ている。カウンターの下には恐らく銃がある。そこには限りない人間のリアルな感情そのものが働いていて「嘘」がない。

 もうすこし緊張感のないヨーロッパのスーパーなどでも店員はいたってぶっきらぼうで、感謝の言葉なんかない。労働に疲れているからだ。でもそのほうがいかにも同じ「人間」で、こちらへの対応は冷淡ではあるけれど不快ではない。

 日本のコンビニのわけへだてない果てしない丁寧言葉の「気持の悪さ」は「人格」と「感情」のない人間との没コミュニケーションに触れることの気持の悪さだ。同じことは旅客機の客室乗務員の、世界にも例のない、終始絶え間のない満面の(意味のわからない)笑顔と、絶対に客にさからわない隷属的な対応にも通じる。共通しているのは「嘘」への不快感だ。

 (中略)

 結局今後もこの本で述べられている「マイノリティにとって腹だたしいもの」はそれを「正しいと思っているマジョリティ」に絶対打ち勝つことはできないのだ、ということを納得させられて、いまいましくページを閉じなければならない。

 でも、希望はある。こういう本が「文庫」となって、元の単行本よりはもっと沢山の人の目に触れる可能性がある、ということだ。

 (中略)

 (追記) 「静かな街を考える会」が存続していることを知り、ぼくも入会を考えている。

――――――

 結局、椎名氏からは入会したいという連絡は今に至るまできていないようですが、まあ、これは解説を書いたことのリップサービスなんでしょう。
 それはそれでしょうがないことですが、まさにここに書かれているとおり、日本の「音」や「景観」の「醜さ」がわかる人とわからない人、それに腹を立てる人となんとも思わない人(むしろ、その醜さを喜んでいる人)は、完全に二分されるんでしょう。
 その比率は1対9どころか、0.01対9.99より圧倒的なもので、私のようなごく一部の人間が「拡声器うるさい」「日本の接客はおかしい」「建前ばかりの看板だらけで汚らしい」といくら言い続けても、虚しいっちゃ虚しいばかりです。

 椎名氏が書いているとおり、いまいましさだけがつのるなか、本当に「希望」なんてものが見えてくる日がくるのかなあ、と自問自答してしまいます。

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カテゴリ:「静かな街を考える会」について
10km先まで響いてきた大島優子コンサート
 昨夜、大島優子とかいう人のコンサートの音が、ものすごくうるさかったんですが。ちなみにうちは、そのコンサートが行われた味の素スタジアムから、直線距離で10kmは離れています……。

 夜6時頃、ズンズンズンズン耳障りな重低音が響いているのに気づきました。最初は、近所の誰かがステレオでも鳴らしているのかと思い「鬱陶しいな」と腹を立てていたのですが、それにしてはなんというか、音の伝わり方が「近所のステレオ」という感じではない。

 7時過ぎ、ベランダに出てみると、やっぱり「近所の音が響いている」というより、「そこら中の空気が、ズンズンズンズン振動している」という感じで、音源がものすごく大きく、しかも、かなり遠くにありそうでした。
 たまたま空を見たら味スタ方面でレーザー光線が光っていたので、もしやと思いホームページを見ると「大島優子コンサート」と書いてあったので納得。まず間違いないでしょう。

 間違いないと言っても、本当は「10kmも離れているのに」と半信半疑だったのですが、うちの近所にはイベント会場などないこと、レーザー光線の見える方向が味スタ方面だったこと、音とコンサートの時間帯がぴったり合っていたことなどを考えると、やはりこのコンサートが騒音の原因と判断して間違いないと思います。

 その後、重低音は8時過ぎに一旦収まったものの、9時前からまたうるさくなり、ようやく静かになったのは9時半頃。何考えてんだかまったく。

 私は以前、調布市の仙川という、味スタから5㎞ほどの町に住んでいたことがあります。当時も年に何度かコンサートの重低音が響いてきて、メロディーがはっきり聞き取れることもあったので、味スタからだとすぐにわかりました。
 今、住んでいる場所に引っ越してからも、「なんだ、この鬱陶しい重低音は」と思うことは何度もあったのですが、どこが音源なのかわからず、ずっともやもやしていました。
 うちから数㎞のところにある大学が、学園祭でもしているのかと思ったこともあるのですが、それにしては夜だし、学園祭でこんなところまで響く音を出すのもおかしいし、と考え込んだこともありましたが、全部、味スタからの音だったのか……。

 今回、レーザー光線が見えたので味スタからだとわかりましたが、それはたまたま空を見上げてレーザー光線が目に入ったからです。これに気づかなかったら、音源がどこなのかわからないままだったでしょう。

 市街地で、ここまで大きな音を鳴らしてコンサートを、しかも夜9時半まで続けることが許されてしまうなんて、どういうことなんだろう。今、いちいちコンサートやイベントなどの騒音規制について調べるつもりはありませんが、どうせなんの規制もないか、あっても「まあ、それはそれとしてですね」で処理してしまうんでしょうね、この騒音鈍感大国の人たちは。
 そんなに大音量でコンサートをしたいなら、どこか太平洋の無人島にでもイベント会場を建てて、そこで思いきり騒いでくれないものかね。

 それにしても、私なんかよりもっと味スタの近くに住んでいる人たちは、この音が平気なんでしょうか。ツイッターで検索してみたら、「今日の味スタは、いつもよりうるさい」という書き込みがいくつかありましたが、大量にというほどでもありませんでした。
 でも、10㎞離れたところにいる私が言っても信憑性がないかもしれませんが、昨日のコンサートは、やっぱり「いつもよりうるさかった」と思いますよ。

 で、大島優子って誰?

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カテゴリ:祭り・路上ライブ
支離滅裂な反原発デモの(屁)理屈
 私は原発推進派でも反原発派でもありません。物事には、どんなことでも賛成・反対があり得るし、「カレーとラーメン、どちらが日本の国民食か」と聞かれて「カレーだ!」「いやラーメンだ!」と激論を交わすようなたわいもない話なら「カレーだろ」と気軽に参戦することもできますが、原発を続けるべきかやめるべきかなどという、あまりにも多くの人が影響をこうむる問題について、自分でデータとにらめっこし、こめかみから血が吹き出るほど考え抜いて結論を出したわけでもないのに、軽々しく「賛成だ」「反対だ」などと言うことはできないと思うからです。
 だから私は「判断保留」、もしくはもっと無責任に「どっちでもいいよ」としか思っていません。まあ、ちょっとだけ「反対」と思っている程度ですね。

 特定秘密保護法についても集団的自衛権についても同じです。この二つは、原発よりもう少し強めに「反対」とは思ってますが、ヒステリックに「やめろおおおおおお!」と叫ぶつもりもありません。現時点では反対のつもりでいても、「やっぱ賛成かなあ」と揺らぐことは常にあるだろうし。
 物事を判断するときに、少しでも客観性を担保するには、ある程度のあいまいさを残しておくことって、白黒はっきり決めつけるよりよほど大切なんじゃねーの? ということです。

 しかし、世の中には思い込んだら命懸けとばかりに、自分の考えを他人に押しつけたがる人がいるもので、別に主義や主張を貫くのはかまわないのですが、興奮しすぎて冷静さを欠いた人というのはただのはた迷惑です。特に公の場で「音」という、聞きたくなくても防ぐ手段がない手法をとられると。

 先日の朝日新聞に、また反原発デモの記事が載っていました。先日というより、最近は毎日のように原発、特定秘密保護法、集団的自衛権あるいは改憲問題について「デモで叫んだ!」という煽り記事が載っているのですが、その記事でドイツ文学翻訳家の池田香代子という人のコメントを見て、ひっくり返ってしまいました。

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 (首相官邸前の反原発デモで)ドイツ文学翻訳家の池田香代子さんは「脱原発の流れは止められない。私たちがあげてきた脱原発への声が響いている。太陽光発電のポテンシャルは東京が1位で、屋根が多い。もっと私たちはやらなければいけないことがあるし、選挙結果に結びついていないことに自覚的にならなくてはいけない」と訴えた。

反原発デモ.jpg

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 『築地にある新聞社記者のおもろい「コント」』というエントリーで、批評家の小浜逸郎氏が特定秘密保護法に反対するデモと、そのデモを賛美する新聞の社説を揶揄した記事を紹介しましたが、これはまさに「その続きを書いてくれ」と言っているかのようなお笑いコメントです。

 「脱原発の流れは止められない」……いや、脱原発の流れなんかできてないでしょう。この流れというのは、大飯原発の運転差し止めを命じた判決のことを指しているのかもしれませんが、それが「流れ」などと言えるほど大きなものになっていないからこそ、この人たちは「原発やめろおおお!」と叫び続けてるんじゃないの?

 「私たちがあげてきた脱原発への声が響いている」……声が響いてるのは、あなたたちがそこで絶叫しているからでしょう。そりゃ響くよ(笑)。

 「もっと私たちはやらなければいけないことがある」……そう思ってるんだったら、人前でギャーギャー叫んでばかりいるより、その「やらなければいけないこと」をすればいいじゃない。

 「選挙結果に結びついていないことに自覚的にならなくてはいけない」……だから、「流れ」なんかきてないわけでしょ(笑)。

 なんかもう、言ってることが支離滅裂です。

 たったこれだけの短いコメントをあげつらうのは、意地が悪いのかもしれません。もしかすると現場では、もう少しまともなコメントを残したのに、紙面にはこんなふうに載ってしまったのかもしれません(新聞記者がコメントを「捏造」するのは常識だし)。でも、いくらなんでもこれは、自分たちの行動を「盛り過ぎ」じゃないんですかねえ。キャバクラ嬢の髪形じゃないんだからさ。

 それにこの人は翻訳家だそうですが(調べたら有名人なんですね)、自分が執筆でうんうん唸っているときにデモでギャースカギャースカ絶叫されても平気なんでしょうか。私なら「仕事ができん」と頭を抱えますが、「自分は気にならない」と言うなら、ずいぶん図太い神経をお持ちですこと。

 私はこういう人に、少なくとも「自分はデモの絶叫をうるさいとは思わないが、迷惑だと思う人もいるだろうなあ」と想像する力ぐらい持ってほしいのですが、それを望むのはとても無理な相談なんでしょうか?

 脱原発、反原発大いに結構。でも、もう少し落ちついて、冷静に、客観的に、自分たちの行動を組み立てることはできないんでしょうか。記事ではデモの動画も見られますが(朝日の記事は、読者登録しないと一部しか読めません)、百歩譲って演説だけならともかく、相変わらずやかましい太鼓を叩き絶叫するバカ騒ぎも繰り返しているみたいですし。

 それにさあ、この人は「流れ」なんて言葉を軽々しく使ってますが、世の中「流れ」ができればそれが「正義」なのか?

 私は知識人だの文化人だの、社会に影響力を持つと言われる人たちこそ、気分次第でどこにでも向かってしまう「大衆」の「流れ」を警戒して、そこに棹を差してでも冷静に議論するよう諭すことが求められると思うのですが、違うんでしょうか。
 そういう思慮はどこへやら、「この流れは、もう誰にも止められない!」なんて、安っぽいアクション映画のキャッチコピーみたいなセリフを吐いて悦に入ってる人たちは、「流れ」ができればイコール「正義」だと思っているんでしょうか?

 それなら、今の日本には「中国との衝突は避けられない!」だの「韓国との激突は必然だ!」だの、「この流れは止められない!」と言いたい人が山ほどいるんだから、その流れが「正義」になってしまうということになります。それでいいんでしょうか。
 主義主張にかかわらず、「これが流れだ!」とムードで周囲を巻き込むことの怖さを、日本人はいつになったら学習するんでしょう。「止められない流れ」ほど、怖いものはないと私は思うんですけどねえ……。

 ま、そんな話はともかくとして、私がなぜ、ここまで「デモ騒音」について腹を立てているかというと、この騒音が永田町だけでなく、最近は私が住んでいる東京の外れの住宅地にまで影響を及ぼしているからです。

 今年に入ってから、毎月一度以上のペースで共産党か、その関連団体の東京土建が、うちの周囲で「原発に反対しましょおおおおおお!」「特定秘密保護法に反対しましょおおおおおお!」「憲法9条を守りましょおおおおおお!」「東京土建に入りましょおおおおおお!」などと、演説や宣伝を繰り返すようになりました。車で走りながらのときはまだいいのですが、うちの近くに車を止めてがなり立てられた日には、もううんざりして仕事になりません。
 もともとこの手の連中は年に何度か現れていましたが、調子こいて月に一度もやって来るようになったのは、今の住まいに引っ越してから初めてのことです。

 また、先日はある駅の駅前で、やはり共産党の演説に遭遇してしまいました。その駅前にはここ10年近く、毎月何度か行っているのですが、小さい駅なので選挙期間中を除けば、政治家や政党の演説に出くわしたことなど一度もありませんでした。それがいきなり「憲法を守り、私たちの暮らしを守りましょおおおおおお!」。
 お前らの無神経な大声のほうが、よほど人様の暮らしを脅かしてるっちゅうの!

 こういう「デモや演説で絶叫すること」が、どんどん当たり前になっていく風潮。私にはその「流れ」のほうが、原発や特定秘密保護法などより、よほど恐ろしいですね。
 世の中には「デモや演説がうるさいなんて言うな! 大切なことを訴えてるんだよ!」と叫びたい連中が山のようにいるみたいですが、今、目の前にいる人様の大切な時間に配慮することができない人間に、そんな偉そうなことを言う資格はありませんよ。
 町中で叫び声を上げる、何かに取り憑かれてしまった人たちを見ると、私は江川のように「まあ、そう興奮しないで。冷静にやりましょう」と言いたくなりますね。
 ちょっとたとえが古いですが、わからない人はお父さんにでも聞いてください。

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カテゴリ:政治家・団体・デモ
廃品回収車への110番回数(2014年5月)
 2014年5月の廃品回収車(不用品回収車)に対する110番通報は、1回でした。

 5月は上旬から中旬にかけてはほぼ現れなかったものの、中旬から月末まで二日に1台くらいのペースでやって来ました。合計すると10台前後。最近にしては多かった。

 ほとんどの業者が、姿は見えずどこからか音だけ聞こえてくるとか、うちの近くまでやって来ても、けっこうなスピードで通り過ぎるだけ、というような現れ方だったのですが、中に1台だけ、近所をうろうろし始めた業者がいたので110番。警察を呼んでなんとか追い払いました。

 離れたところから音だけが聞こえてくる、という場合でも、2時間近くうろつく業者がいたりして、5月はちょっと鬱陶しかったですが、とにかく今は地道に通報を繰り返すしかありません。
 行政や警察がきちんとした対策をとるとか、それ以前にこの国の音に鈍感な大多数の人たちが、「誰でも自由に拡声器を使って放送できるなんて、おかしい」ということに気づいてくれるまでは。

●2010年6月以降の110番回数

2010年6月  2回
2010年7月  5回
2010年8月  8回
2010年9月  7回
2010年10月  8回
2010年11月 14回
2010年12月  6回
2011年1月  4回
2011年2月  2回
2011年3月  1回
2011年4月  0回
2011年5月  1回
2011年6月  5回
2011年7月  5回
2011年8月  1回
2011年9月  5回
2011年10月  1回
2011年11月  7回
2011年12月  4回
2012年1月  3回
2012年2月  1回
2012年3月  1回
2012年4月  3回
2012年5月  2回
2012年6月  1回
2012年7月  2回
2012年8月  1回
2012年9月  2回
2012年10月  5回
2012年11月  3回
2012年12月  5回
2013年1月  1回
2013年2月  2回
2013年3月  4回
2013年4月  4回
2013年5月  0回
2013年6月  1回
2013年7月  2回
2013年8月  4回
2013年9月  0回
2013年10月  3回
2013年11月  1回
2013年12月  1回
2014年1月  1回
2014年2月  3回
2014年3月  1回
2014年4月  0回
2014年5月  1回

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カテゴリ:廃品回収・移動販売
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Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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