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30年前より劣悪な音の後進国「日本」
 92歳の現役ピアニストとして話題になっている、室井摩耶子さんという方がいます。日本では超有名というわけではないようですが、30年近くヨーロッパで活躍後60歳を過ぎて日本に戻り、現在もリサイタルを開いたりCDを録音したりしているという、なんだかすごい人です。

 その方の『ひびきを求めて―ピアニストからのメッセージ』というエッセイ集(といっても、30年も前の著書です)をパラパラとめくっていたら、日本のあまりにもひどいスピーカー騒音事情に腹を立てている一文を見つけました。

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 親切過剰

 私は朝からピアノの勉強に熱中していた。曲をある程度ひきこむと、それからは逆にひたすら曲の中にひきこまれ、坂道をころがりおちるように集中へとつき進んでいく。ちょっとした音の響き、音色の差が曲の姿をがらりと変えてしまう。指のはなし方つなぎ方と、事はどんどんデリケートになって行き、聴覚の神経はますます鋭くピアノの音に密着する。そこへ突然、「毎度お騒がせして申し訳ございません。おなじみのちり紙交換車でございまーす」との大音声が耳をつんざいた。私はとび上がりそうになった。

 家に土足で踏みこんでくるという表現があるが、まさにそれである。土足で踏みこんでくれば姿があるから家宅侵入罪が成立し、警察に引き渡せば解決がつく。が声は姿がないだけに始末が悪い。お騒がせして申し訳ございません? 悪いのがわかっていればやめれば良いでしょ。大体日本語の「すみません」という言葉がこの頃は乱用されすぎている。よくある「謝れ」「謝れば良いだろう」という会話が示すように、謝意を表現すればそれですむという、形態だけがまかり通っているから、こんなとんでもない事が許されてしまう――ノダ、と腹立ちまぎれに日本語全体にまでとばっちりが行ってしまう。

 私の知人がヨーロッパから帰って来て、「成田の騒音はすごいですね」と言う。「お疲れさまでございます」から始まって歩道ベルトの乗り降り、税関の注意、パスポート検査場への並び方。「あげくのはてにパスポートの持ち方まで、とにかく飛行場を出るまでに、アナウンスは二重にも三重にも重なって途切れる時がないんだから」と彼は苦笑いをしながら言った。それはもう言葉という形をもった騒音群にすぎない、と。

 昨年四月ごろ、国鉄の神田駅などでアナウンスを一時全部消してしまうという試みが行われた。そしてそれは成功で好評だったということだった。私はそれを新聞でよんだ時、雲の切れ目から落ちる一条の日光の明るさを感じた。が相変わらず何を言ってるか判らぬ駅のラウドスピーカーからの音塊をきくたびに、あの一条の日光は夢だったのかとがっかりする。騒音の上に親切という言葉をペンキで塗りたくって押しつけてくるのはもうごめんだと、私は怒り狂っているのでアル。

――――――

 この本が出版されたのは1985年のようですが、何が怖いって、ここに書かれている日本の騒音事情が、30年後の今もまったく変化していないことです。変化がないどころか、ますますひどくなっていく一方であることです。本会が結成されたのは偶然にもほぼ同じ1984年ですが、その後も日本の音環境は劣悪になるばかり。
 『「静かに笑顔で」商売するアイスクリーム屋』というエントリーで紹介したロンドンの音事情と比べれば、日本というのは進歩するということをやめてしまった、どうしようもない「音の後進国」であることがよくわかります。

 何も音楽家でなくたって、もう少し「この国のうるささは、なんなんだ」と考える人がいてもよさそうなのに、むしろ反対に、誰も彼もが「もっとうるさくしてえええ! どんな場所でも私に命令して、指示して、ああしろこうしろ、これを聞けと言い続けてえ!」と要求し続けるこの国に、このエッセイで言うところの「日光」なんか差すことはないのかもしれません。すっかりどんよりと、分厚い雨雲に覆われてしまっていて、誰もそれを追い払おうとはしないんですからね(というか、雲に覆われていることそれ自体に気づきもしない)。

 このエッセイをはじめ、音楽家の文章を読むと、ときおり、日本の音環境を嘆くものが出てきます。それはそれでうれしいのですが、実は日本をこういう「どうしようもない音の後進国」にしているのは、音楽家や音楽好きと言われる連中の責任でもあるのですよ。
 それについては言いたいことがたくさんあるのですが、またの機会にします。

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
度が過ぎれば「井戸端会議」だって迷惑だよなあ
 道路で遊ぶ子供、つまり「道路遊び」がうるさいという声がある一方、「井戸端会議」がうるさいという声もあるようです。
 無理にでも分類すれば、路上で子供だけが騒ぐ、あるいは大人がいても「うるさい」の中心が子供の場合は「道路遊び」、大人だけが騒ぐ、あるいは子供がいても「うるさい」の中心が大人の場合は「井戸端会議」と言っていいのかなと思います。ま、両方合わせて「道路族」ってことですね。

 道路遊びの被害についてはこのエントリーなどに書いてますが、私も以前、うるさい井戸端会議に悩まされた経験があります。

 数年前の秋、20メートルほど離れた近所の家に、夕方になると2人の小学生が集まるようになりました。理由はよくわかりませんが、雰囲気からすると、その家の住人がパートで夜まで働く同級生の親に「よかったら、仕事が終わるまでお子さん、うちで預かるわよ!」なんて言って、その家が簡易託児所になった……そんな印象でした。
 別にそのこと自体はかまわないのですが、問題は母親3人と子供3人、計6人の「解散式」です。

 夜7時頃になると子供たちの母親がやって来て、路上でその家の母親と子供を交えて「どうもお世話様でした!」「バイバイ!」「また明日ね!」みたいな挨拶が始まるのですが、こいつらは「またね!」と言っているくせに全然帰らない(笑)。何度も「またね!」「バイバイ!」と繰り返しながら、結局は「ところで奥さん、お聞きになった!?」とばかりに、そのまま路上で井戸端会議が始まるのです。そして、その声のでかいことでかいこと。30メートル離れたうちの中にまで、キンキンキンキン突き刺さってくる金切り声でした。

 親がうるさけりゃ、子供だって真似をしてうるさくなります。小学校低学年らしい3人の子供たちは、すぐに「ジャンケンポン!」だのと大声で叫ぶようになり、「よーい、ドン!」と路上でかけっこを始めます。キャーキャーキャーキャーはしゃぎながら、かくれんぼなんかもしていたなあ……。

 季節が秋ですから、夜7時といえばもう真っ暗で住宅地は静まりかえっています。そこに響く主婦の金切り声や子供の奇声、「ドタドタドタ!」と走り回る靴の音は、もう明らかに騒音です。
 私が運が良かったのは、この騒ぎが週に3回、1回あたり30分ほどで済んでいたことでしょう。それでも次第に耐えられなくなったので、「このまま続くなら、苦情を言いに行かねば」と思っていたのですが、半年ほど経ったところで、いつの間にかこの路上集会は開催されなくなりました。

 それ以来、いわゆる「井戸端会議」には悩まされていません。たまに、どう見ても70歳くらいの老人たちが「いったい、どこからそんな声が出るんだ」と不思議に思うほど、大声を張り上げながら路上ではしゃいだり(見苦しいねえ)、夜10時頃に「あら~あ、ほんとなのそれ!?」なんて主婦の立ち話が聞こえてきたりすることもありますが(何時だと思ってんだろうね)、別に日常的にというわけでもないので、気にせず放っておくしかありません。

 井戸端会議や道路遊びをする人たちのことを「道路族」と言うらしいですが、どちらも結局、程度問題でしょう。たまたま顔を合わせた知り合いと少し路上で立ち話をしたり、どこかへ出かける前にちょっと道路で子供たちが遊んだりするくらいならかまいませんよ。それなのに同じ路上を毎日のように、まるで自分の家ように占拠して、しかもキーキーギャーギャー桁外れの叫び声を上げながらはしゃいだり、遊んだりするから、こういう「道路族」というのは嫌われてしまうのです。

 道路だけではありません。公園だって「子供が遊ぶ場所」とはいえ山の中じゃないんだから、周囲に民家があり、そこで人が暮らしていることが想像できるなら、少しは「そんなに騒がないで遊びましょ」と子供をしつける親がいてよさそうなものですが、現実にはそんな期待をしても虚しいだけです。
 先日も、近くの公園にキーキーと巨大カミキリムシのように叫ぶ女児がいたのですが、見るとその母親らしい女はベンチの上でスマホを睨みつけながら「体育座り」をしていました。小学生や中学生じゃあるまいし、人が座るためのベンチに靴底をべったり付ける、そんなはしたない座り方をする親が、子供をしつけられるわけないよなあ……。

 ああそれから、こういうエントリーではどうしても「主婦」や「母親」のマナーの悪さばかり書いてしまいますが、あんたたち、スーパーの通路で立ち話をするのはやめてくれよ(泣)! 邪魔くさくてしょうがないんだよ(怒)! 私は「黙って睨みつける」とか「肘で押し退ける」というようなやり方はあまりしたくないので(でも、たまにするよ。私も『そういう意思表示の仕方がデフォルトになっている』現代日本人の一人だからね)、できるだけ「邪魔なんで、どいてくださいよ」とはっきり言うようにしているのですが、そういうとき、主婦って必ずと言っていいほどこちらをチラッと見て、無言のままたった数センチ横に移動するだけ。「すいません」だの「ごめんなさい」だのといった言葉を聞いた記憶がありません。もちろん、その後もほぼ同じ場所で、延々と立ち話が続くだけです。

 どうして、ああいう人たちは、そこまで「スーパーの通路が大好き」なんでしょうか。スーパーの通路には、何かあの手の人たちを引き付ける磁場みたいなものがあるんでしょうか? スーパーの通路での立ち話は「道路遊び」や「井戸端会議」に通じる見苦しい行為だと思うのですが、あんなことをして人に迷惑をかけて何が楽しいのか、私にはさっぱり理解できません。

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カテゴリ:近隣騒音
ますます増える防犯カメラにうんざり
 町がますます防犯カメラだらけになるようです。昨日の朝日新聞の記事。

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 全公立小の通学路に防犯カメラ 都内、6500台設置へ

 通学路の安全を守るため、東京都は今年度、都内の公立小学校全1300校の通学路に防犯カメラをつける事業を始めた。2018年度までに6500台を置く。プライバシーに配慮するため、記録の保存期間を1週間程度にとどめる。

 都内では昨年、練馬区で下校中の男児3人が男に刃物で切られる事件などがあり、「20年東京五輪までに治安をよくする」と訴える舛添要一知事が始めた。

 1校の通学路にカメラ5台を置く想定で、全事業費は24億7千万円。費用は都と区市町村で折半する。都は今年度、260校に設置する予定で、区市町村教委に呼びかけている。カメラは各小学校か区市町村教委が管理する。

 都の織田博安全・安心まちづくり課長は「防犯カメラ設置ではプライバシーとの兼ね合いが重要」と話す。①「作動中」などと看板で明示する②記録は1週間程度しか保存しない③記録を見られる人を限定する――などの要項を管理側に作ってもらうという。

 都は04年度から商店街、10年度から町内会を対象に防犯カメラ設置を補助する事業を始めている。

防犯カメラ.jpg

――――――

 やれやれです。
 「絶対に犯罪の起きない町」なんて作れるわけがないし、人間がいる以上、多少の犯罪が起きるのは仕方がないことなのに、どうしてここまで過剰な反応ばかりするのでしょう。
 犯罪を完璧になくしたいなら、人間がこの世からいなくなるのが一番でしょうに。なんてったって、人間以外の動物は「犯罪」を起こしませんからね。「犯罪ゼロ」を目指すのなら、さっさと水爆を1000個くらい落として、人類なんて根絶やしにするほうが手っ取り早いんじゃないの?

 舛添のように「今の世の中は犯罪者だらけだ。もっともっと治安をよくするぞ!」なんて、なんの根拠もなく息巻いている人の多いことには驚かされます。
 今の日本が世界に類を見ないほど犯罪が少なく、安心して暮らせる社会であることは、浜井浩一、芹沢一也著『犯罪不安社会 誰もが「不審者」? 』などを読めばわかる通り、きちんと統計的に証明されています。別に社会学や統計に頼らなくたって、ある程度の年月を生きてきた人間なら、世の中がどんどん無菌化されるにつれいいにつけ悪いにつけ、安心して暮らせる社会になってきていることは、十分に実感できるはずだと思います。

 にもかかわらず、たった一つの事件や事故が起きて大々的に報道されると、それがいかに自分の生活とは関係なくても「こんな不安な社会じゃ暮らせない!」と過剰に怯え、監視カメラを増やして(「防犯カメラ」なんて言葉の言い換えがまたイヤラシイ。「監視カメラ」と言いなさい)、「あいつも不審者だ、こいつも不審者だ!」と指摘したがる社会って、いったいなんなんだろう。
 人のことを犯罪者扱いする自分だって、いつ、どこで同じ目に合わされるかわからなくなるんだよな――という可能性には考えが及ばないんだろうか。

 私は監視カメラそのものも嫌ですが、こんな風潮がますます強まって、今以上にさまざまな場所から「注意しましょう! 気をつけましょう!」という防犯放送を浴びせかけられたり、そこら中に注意看板を立てられたりするようになる、そのことのほうがもっと嫌ですね。これ以上、町を音や看板で汚されて、しかもそれが「あいつもこいつも、みんな不審者だぞ!」という、ヒステリックなメッセージだらけになるというのは、とても耐えられません。

 それに、このような監視カメラを増やせば増やすほど、新たな犯罪は増えますよ。断言できます。理由は簡単。
 ・記録を見られる人を限定する
 なんて規則を作ったって、必ずそれを破って記録された映像を見ながら「うひひひひ」と喜ぶ人間は出てくるからです。
 ・記録は1週間程度しか保存しない
 も、守られるかどうか怪しいな。うっかりか意図的かは別にして、「管理ミスで映像が1週間以上保存されていました」なんてことが発覚して、処罰される人だって必ず出てくるでしょうね。

 よけいな監視カメラなんて付けなければよかったのに、付けたばっかりに新たな「犯罪」を生むことになる。きっと5年後、10年後には「うっかりでは許されない! 監視カメラの『盗み見』犯罪が激増!」なんて記事が、テレビや新聞や週刊誌を賑わしているんじゃないかと思いますよ。どうするんですかね。
 そうだ、「監視カメラを管理する人間を監視するカメラ」を取り付けましょう。不審者は絶対に見逃しません!

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
「やかましい応援団の問題」は無視する新聞
 1986年に刊行された、ジャズのサックス・プレーヤー中村誠一氏の『サックス吹きに語らせろ!』というエッセイ集を、たまたま読みました。
 その中に、「これでいいのかプロ野球の応援」というエントリーで触れた本『よみがえれ球音―これでいいのかプロ野球の応援』(渡辺文学・編著)でも軽く紹介されている、中村氏がプロ野球の応援を批判しているエッセイがありました。

――――――

 野球場の太鼓について

 このところずっとスポーツと音楽との関係について書いていますが、ここで一回、閑話休題。
 なぜかといいますと、プロ野球の下田コミッショナーが、野球場に鉦や太鼓やのぼり、それに楽器などを持ち込まないように各球団に要請したからであります。
 私は、ハッキリ言ってこの意見に大賛成。このような取り決めが早くできないものかと待ちわびていたのでした。それにしても下田さんはエライ!!
 この取り決めにはずいぶん考慮なされたことと思いますが、大英断、大ヒットであります。

 なんたって、野球場の太鼓ほどうるさいものはありません。非音楽的なことこの上ないんであります。いい音を出そうなんて気持で叩いているんじゃあない。ただ思いきりひっぱたいてるんですから、隣にいた日にゃあたまりません。野球どこじゃあない。応援団の奴共に金返せと怒鳴りたい位であります。

 私も野球が好きでありますから、たまには見に行きたいなあ、などと思うんでありますが、あのウルサイ応援団のことを思うと、つい二の足を踏むんであります。特に、パ・リーグはいけません。西武球場の相手チーム側なんかに行ってごらんなさい。イライラして健康に悪いことこの上ありません。なにせ太鼓のやむ閑がないんですからたまりません。
 ですから今回のこの下田さんの大英断には、諸手をあげて大賛成なのであります。野球なんて静かに見ていて、自然に盛り上がればいいんであります。

 そこへ行くと大リーグはいいですなあ。おととしN・Yに行ってヤンキースタジアムで野球を観ましたが結構でしたなあ。
 ホームランを打った打者が次の打席で観客の期待に応えようとブンブン振り回す。結果は三振でしたけど観客は大喜び。こういうのがいいですな。鉦や太鼓、それになんとかラッパなんていらないんであります。
 そしてヤンキースが勝ちますと、フランク・シナトラのニューヨーク・ニューヨークの唄が流れて、それを背に球場を後にする。これが文化ですな。

――――――

 「下田コミッショナーの要請」というのは、「これでいいのかプロ野球の応援」にも書いた通り、「1984年、当時の下田コミッショナーが『他人に応援を強要しない』、『他人の耳をつんざくカネや太鼓(後にトランペットも追加)を鳴らさない』、『他人の目を奪う大きな旗やのぼりを振らない』という『応援倫理三原則』を定めファンに呼びかけたものの、『各球団や関係者の強い反発もあって』結局は実現しなかったこと」を指しています。
 中村氏のエッセイは『アサヒ芸能』に連載されたものらしいので、執筆時は下田コミッショナーが「応援倫理三原則」を発表した時点だったのでしょう。しかし現実は、まるでそんな呼びかけなどなかったかのように無視されて、今に至るまでプロ野球のクソやかましい応援は延々と続いているというわけです。

 このエッセイの内容に、付け加えたい点は何もありません。書かれている通りのことを私も思ってます。30年たって、ますますひどくなるプロ野球の応援団の乱痴気騒ぎは、いったいどこまでエスカレートするんでしょうか。

 そういえば、これはうろ覚えで書くのですが、今年の春のオープン戦で、中日の東海地区の応援団が「カネや太鼓を使った応援」の申請をしなかったので、対戦相手の攻撃時はプープープープーカンカンカンカンカンやかましいのに、中日の攻撃時は人の肉声が聞こえるだけで、球場のバランスがとても悪かったというような新聞記事を読みました。

 それでバランスが悪ければ、両チームの応援団がプースカプースカとヒステリックな応援合戦を「して」バランスを取るのではなく、そんなものを「なくして」、野球本来の音が響く試合にすればいいじゃないかと思うのですが、やっぱり日本人はそういう発想ができないようです。

 記事には球場にいた「ファン」のコメントがいくつか載っていましたが、それは「太鼓やトランペットがないと張り合いが出ない!」だの、「誰かがリーダーになってくれないと応援しにくい!」だの、「選手に気持ちが届かない!」だのという、呆れ果てるような声ばかりでした。あんたの「張り合い」のためにカネや太鼓を鳴らされても迷惑だし、リーダーがいないと何もできないなんて「あんた子供か?」としか言いようがないし、選手に応援する気持ちを届けたければ、自分の肉声で自分らしく応援すればいいじゃないか。
 そんなことすらできない連中が群れを成し、調子に乗って周囲を威圧しているのが「応援団」なのだから、暴力団とのつながりが云々と言われるのもさもありなんというところです。

 それに名前は覚えていませんが、中日の選手まで「なんか静か過ぎてやりにくいっすね」というようなコメントまでしていたのには、嫌になってしまいました。まあ、高校野球からプロ野球まで、彼らのプレーは常に「カネや太鼓のどんちゃん騒ぎ」の中でするものだったのだから、それがないと不自然だと感じるようになってしまっているんでしょう。

 でも、以前のエントリーと同じことを書きますが、果たして球音一つまともに聞こえない環境でやる野球が、本当に「スポーツ」と言えるんでしょうか? 掛け声やベンチからの指示が選手に聞こえず、激突したり落球したりという「事故」だって、かなり起きてるんじゃないの? グラウンドで選手同士、選手と監督、監督と審判などが話をするときに、思いきり顔を近づけて大声を出さないと聞こえない! という仕草を見せるのにも笑ってしまいます。
 メジャーリーグの中継を観ていたら、グラウンドでもっと普通に会話をしてるでしょう。あれこそ「まともに野球ができる球場」というものだと思うんだけどなあ。

 そしてもう一つ腹立たしいのは、私が読んだ記事にはファンの側からも選手の側からも、「やかましい応援団がいなかったから観戦を楽しめた」とか「プレーしやすかった」という、応援団がいなかった試合を肯定する声がまったく載っていなかったことです。記者が、クソやかましい応援団の存在を「あって当たり前」のものとして、記事を書いているのは明らかでした。

 まあ、私が読んだのは朝日新聞の記事で、朝日は甲子園大会の実質的な主催者ですからね。バカみたいに大声を張り上げたり楽器を叩き鳴らしたりする高校野球の応援を、万が一にも否定することにつながる「応援団なんてないほうが、野球を楽しめるのではないか」という視点の記事など、絶対に書くわけがないんでしょう。
 「体が出来上がる前の投手の肩は、投げ過ぎると壊れる」という、今では常識となった考え方を絶対に取り入れず、炎天下の中「倒れるまで投げろ!」という非科学的な根性論で、子供たちに「模擬戦争」をさせて喜んでいるのが新聞なのだから、「野球そのものを楽しむ」という視点を持った記事など期待するだけ無駄というものです。

 でも、少なくともプロ野球の応援については、コミッショナーという最高の権力者が「カネや太鼓はやめましょう」と呼びかけたことは確かなのに、それを誰も守らない、守ろうとしないというのはおかしいよなあ。そんな呼びかけがあった以上、しっかりした議論を重ねて結論を出す義務はファンやマスコミにあるはずなのに、そんな話がされた記憶はまったくないものなあ。

 ここから先、話はどんどん変わっていきます。

 私がなぜ「応援団の問題について、ちゃんと議論しないのか」、「コミッショナーの要請が、ここまで無視されていていいのか」という点にこだわるかというと、朝日新聞には西村欣也というスポーツ記者(編集委員という偉い人らしい)がいて、この記者の書く記事(コラム)が、いつも異様なまでに教条的で失笑しているからです。
 選手獲得に関する「裏金」だとか、試合でもタイトル争いでの疑問を感じる選手起用だとか、野球界でちょっと問題があると、この記者は「コミッショナーには指導する義務があるのに動こうとしない!」だの、「以前の発言と矛盾しているじゃないか!」だのと(主にアンチ読売の立場から)、紙面の私物化と言えるほどコミッショナー(と、それを背後から動かす読売)という「権力者」を攻撃する感情的なコラムを書き続けています。

 スポーツに限らず、新聞は政治家の発言などについても「10年前にはああいう談話をしたのに、今、言ってることは違うじゃないか!」という、微に入り細を穿ちすぎた「追及」をするのが大好きです。まあ、それはマスコミの役目でもあるし当然のことだとも思うけれど、それなら、下田コミッショナーからはっきりと「過度な応援は控えよう」という要請があったのに、それが無視され続けている現実についてだって、「歴代のコミッショナーは、この要請をしっかり守らせるため動くべきだ」と書いてもよさそうなのに、新聞は絶対にそんな発言はしません。上記の記事のように「応援団サイコー!」という、30年前のコミッショナーの呼びかけに反する記事しか載せません。

 それは、応援団に象徴される「ただひたすら騒ぎたい」圧倒的多数の大衆に迎合するためであり、うっかり「やかましい応援は控えたほうがいいのでは」などと言って、高校野球のあり方にまで火花が飛ぶのを避けるためであり――というところが理由なんでしょうが、なんとまあ見苦しいものかと思います。
 特に西村欣也という編集委員は、やたらと「スポーツの本質とは」といったお題目が好きなのですが、観客論も含めて野球の本質を少しでも真面目に考える気持ちがあるのなら、「やかましい応援団の問題」についても肯定、否定どちらでもいいので、一度でいいからコラムを書いてみてもらいたいものです。
 もちろん「巨人の応援団は」というような、私怨の塊としか思えない偏向した内容じゃなく、まともな原稿としてですけれども(この人のコラムは、アンチ巨人の私も辟易するほど「読売憎し」で凝り固まっていて、ちょっとどうしようもないのです)。

 話が変な方向に行き過ぎてしまいました。
 ま、プロでもアマでも、やっている選手が「応援がうるさくても別にいい」というのなら、そんな状態が続くのもしょうがないのかもしれません。私としては、まさか21世紀も15年近くたって、いまだに応援を含めた野球というものが「こんな有様」であることに、ただただ驚くだけの話です。

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カテゴリ:プロ野球の応援
ダイドーの自動販売機は絶対に利用しません
 先日、あるスーパーに行くと、エスカレーターの踊り場で「イラッシャイマセ!」というけたたましい機械音を聞かされるようになっていたので、さっそく「お客様ご意見箱」に苦情を投函しました。
 その音声は常に流れているのではなく、センサーを設置して、人が通ると自動的に「イラッシャイマセ!」と流す仕組みのようでしたが、うーん、なんでこんなよけいなことをおっぱじめるんだろうなあ……。

 センサーに反応した機械から「イラッシャイマセ!」なんて流して、それが本当に「歓迎します」という感情を表していると思えるのなら、店の人間は人としての感受性がバカになっているとしか思えません。そして、そんな音声を聞かされて違和感を抱かない大多数の買い物客の感受性も、ネジが一つ二つ吹っ飛んでいるとしか思えません。

 そのスーパーはうちの近くでは比較的、BGMの音量が小さめで、売り場にも宣伝用のラジカセや液晶モニターがほとんどなく(もしあったら、可能な場合即座にスイッチを切る)、しかもエスカレーターから、あの身の毛もよだつ「よい子のみなさん!」アナウンスも流されていない(今どき珍しい!)、買い物がしやすい店でした。
 まあ、店員が、まさにセンサーに反応する機械のように「イラッシャイマセーイラッシャイマセー」「ドーゾゴリヨウクダサーイ」と、型どおりの「すれ違い挨拶」や見境のない「大声挨拶」を繰り返すのが玉に瑕ですが、これも他のスーパーと比べて頻度や声の大きさはましなレベル。
 私にとって不倶戴天の敵であるイトーヨーカドーのような轟音地獄店より、はるかに落ち着いて買い物ができる店なので、絶対によけいなスピーカー音や、店員の非人間的な繰り返し挨拶、すれ違い挨拶などは増やして欲しくありません(できれば一切やめて欲しいのだけど)。
 そのために今回もそうですが、何かあれば小まめに苦情を言うようにしています。結果がどうなるかは、まだわかりませんけれども。

 機械音の「イラッシャイマセ!」といえば、私は自動販売機で飲み物を買うとき、絶対にダイドーの販売機だけは利用しません。ダイドーの自動販売機は昔から「アリガトウゴザイマシタ!」と、けたたましい音声が流れてくるのが不快で不快でしょうがないからです。ダイドーと他社の販売機が並んでいたら必ず他社の販売機から買うし、ダイドーの販売機しか見当たらなければ他社の販売機が見つかるまで探します。

 本当は今どき、缶コーヒーなんかを買うときは自動販売機よりコンビニのほうが安いようですが、けたたましいBGMや宣伝放送と、機械のように無機質な店員の接客にうんざりするコンビニなんかに行くのは極力避けているので、私はあえて自動販売機を選んでいます。
 黙って売ってくれるのなら、「まるで機械のような」コンビニやスーパーより、「本物の機械」である自動販売機を相手にするほうがずっとましですよ。

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カテゴリ:店・施設・商店街
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■プロフィール

Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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