「情報」に頼り「現実」の確認を後回しにする老人
 9月18日の朝日新聞朝刊に、神里達博(客員論説委員)というエラーイ人のコラムが掲載されています。先日の集中豪雨による水害に関する内容です。一部抜粋。

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「月刊 安心新聞」
繰り返す豪雨災害 力づくの治水の限界

 《註:近代国家という》巨大な集権システムに河川管理が委任されたことで、それを自らの共同体の問題と見なす意識が希薄になっていき、逆に「お上任せ」の傾向が強まったのである。本来、川には個性があり、長い歴史に基づく地域の「つきあい方」がある。そのようなノウハウは、ローカルな知として蓄積されていることも多い。集権的なシステムは、専門主義の名の下に、これらを軽視することも少なくない。

力ずくの治水の限界.jpg

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 ここに抜粋した内容は、私も「その通りなんだろうなあ」と思います。「月刊 安心新聞」というタイトルは気に入らないけれども、それは今はどうでもいいや。

 それでは、このコラムで指摘されているような視点から、次の読者投稿を読んでみると、どうでしょうか。同じ朝日新聞の13日付朝刊「声」から。

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災害時にどう行動するか再認識

民生児童委員 ××××(福島県 73)

 鬼怒川の堤防が決壊して街ごと水につかる惨状、ヘリで救出される光景をかたずをのみながらテレビで見た。東日本大震災の惨状を思い出した。我が家は海岸から約1キロ、2級河川から300メートル。住んでいる自治体からは、ひっきりなしに緊急情報が携帯電話や緊急情報受信専用ラジオに入った。心配になって家の裏を見ると、道路は川の様相を呈していた。

 出かけていた妻に状況を連絡し、帰宅の際のルートを指示した。軽自動車のため、いつものルートを使うと途中で身動きができなくなると警告した。

 もし堤防が決壊していたら、鬼怒川と同様の被害を受けたはずだ。日ごろからどのような行動を取るべきか考えておくこと、情報を丁寧に聴くことの大切さを、改めて認識した。

災害時にどう行動するか再認識.jpg

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 最初にこの投稿を読んだとき、3日目のパンツを前後逆に履いてしまったような気持ち悪さを感じたのですが、しばらく考えてわかりました。この人の行動が「テレビや自治体の緊急情報を聞いて心配になった→家の裏を見た(すると、道路が川のようになっていた)」という順番になっていることが、その理由です。

 この人は、外が豪雨であることを「知って」いる。現実にざあざあ雨が降り続いているんだから、それは当たり前のことでしょう。
 それなら、テレビ中継に固唾をのんで囓りついたり、自治体からの情報を聞き取ったりという行為に熱中するより、自分の家の周りがどうなっているかを、もっと早くからたびたび見ていればいいじゃないか。
 緊急情報を聞くのが先で、実際に家の周囲がどうなっているかを見るという「実感を伴った」行為を後回しにしておいて、〈日ごろからどのような行動を取るべきか考えておくこと、情報を丁寧に聴くことの大切さを、改めて認識した〉と本当に言えるんでしょうか。これが「情報に頼るより(情報に頼ると同時に)、自分自身の目で確認することが大事だとあらためて認識した」という教訓につながるのならわかるのですが。

 もちろん、今のアスファルトでガチガチに固められた道路は、少し大雨が降ればあっという間に川のようになってしまいます。この人もそんな常識ぐらい知っていて、何度か外を見ていたのかもしれません。数分前に見たときは何も起きていなかったのに、急に道路が水浸しになっていて驚いたという可能性はあるでしょう。
 また、この人が心配になったのは、緊急情報を聞いたからというより、実際に降り続く雨の様子や周囲の雰囲気によってなのかもしれません。「緊急情報を聞いて心配になったから家の裏を見た」という表現は、文章の構成上そうなっただけなのかもしれません。

 しかし、いずれにせよ、この出来事から得られる教訓は「アスファルトの道路は、すぐに水があふれるなあ。大雨のときはテレビのニュースや緊急情報に関係なく、自分の家の周りぐらい自分の目で見て注意しなければ」ということであって、〈情報を丁寧に聴くことの大切さ〉ではないでしょう。
 むしろ〈情報を丁寧に聴くこと〉に熱中すればするほど、この人のように実際に身の回りで起きていることへの関心が後回しになり、現実というリアルな世界と、情報というバーチャルなものへの依存度が逆転してしまう可能性すらある。

 たとえば、日本では殺人事件などの重大犯罪はほぼ一貫して減り続けているのに、自分の生活圏からかけ離れた場所で事件が起きてメディアが大騒ぎすると、すぐそれに影響されて「この国はなんて危険なんだあああ、もっと監視カメラを取り付けろ! 防犯パトロールを強化しろ! 不審者情報を放送しろ! 怪しい奴はいねが~!」と叫び出すのがそういう人たち、つまり「バーチャルな情報に依存してしまった人たち」です。
 この投書から読み取れるのは、「最近の若者は、ゲームやアニメなどのバーチャルな世界と現実の世界との区別がついておらん!」などと偉そうなことを言う高齢者自身が、情報というバーチャルなものに頼りきって、身の回りのリアルな世界を把握しようとしない──という問題じゃないでしょうか。

 防災無線を初め、放送や看板など使えるものはなんでも使い、至る所でああしろ、こうしろ、これはするな、あれに注意しろという情報(しかも、そのほとんどは完全に無意味)を撒き散らすことに夢中になったり、それをおかしいとも思わずにただ聞き流したりしている人たちばかり──というこの国の「現実」にうんざりしている身としては、こんな小さな投書にすら違和感を覚えてしまいます。
 まあ、私自身も、たまたま目にした新聞の投書という、どうでもいいバーチャルな情報に振り回されているだけなのかもしれませんが。

カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
ただ「聞かない態度」を養うだけの防災無線
 たとえば、1年ほど前にこんなことがありました。
 京王線調布駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいると、外から「ぼひらわぁじょうふじやくじょでずう。ごどおだぢがぎあうすうじがあんどなりまじだあ。じゅういのおどなはびばぼっでぐだざい」というような、くぐもった声が響いてきたのです。

 実際に聞こえてきたのは「§∥〃♂〆※★―~♪◇¶●》@♭〓」という、ただの解読不能な音。午後1時過ぎという時間や音量から、「どうせ、防災無線の『子供を見守れ放送』だろう」と判断しただけです。
 正確な文言もわからないし、大人の声なのか、それとも、この手の放送によくある、わざわざ子供に録音させた「私たちを見守ってください」という薄ら寒い(子供の人権や自尊心を無視した)放送なのかも判別不能でした。

 不思議なのは、こんな「正体不明の大音量放送」が聞こえているのに、店内にいる人間が誰一人、気にも留めていなかったことです。
 このとき、店の中には30人ほどの客がいました。私は不気味な音が響いてきたので、読んでいたエロ本から顔を上げ、うんざりした気持ちで「なんだろう」と注意を向けましたが、周囲を見る限り、ほかにこの放送を聞き取ろうとしている人は皆無。
 放送が始まる前と同じようにスマホをいじったり、書類を見たり、連れ合いとしゃべったり、イヤホンで耳を塞いだりしているだけ。「なんの放送? よく聞こえないけど何か起きたの?」と話題にしている客もいません。
 もちろん、放送内容を確認するためにわざわざ店を出る客など、いるわけがありません(もちろん、私もそんなバカなことはしません)。
 誰もが無関心なだけです。

 「市民全員(正確には『そのとき、市内にいる人間一人残らず』)に、この放送を聞かせてやる!」と、大音量で喚き散らす防災無線の放送。でも、この喫茶店のように「何かを喚いているのはわかるが、なんと言ってるのか聞き取れやしない」場所で、その放送に注意を向け、積極的に理解しようとする人はいません。
 オフィスビルや商業施設など、もっと防音のしっかりした屋内にいれば、そもそも放送はまったく聞こえません。
 その反面、路上や自宅にいると、そのとき何をしていても、何を考えていても(仕事に集中していようが、頭が痛くて寝ていようが、堀北真希食ったなんとかいう俳優許さねえちくしょうと転げ回ってようが)、耳をつんざく大音量で無理やり放送を聞かされます。
 なんとも理不尽で、ただの無意味な騒音でしかないのが防災無線です。

 10万人、20万人という人間に、一斉に「これを聞け、こう行動しろ」と強要するような放送は、よほどの緊急事態に限られるべきです。
 時報だの、音楽だの、子供を見ろだの、子供は帰れだの、振り込め詐欺にひっかかるなだの、バザーをやるから来いだの、狂犬病の注射に行けだの、納税しろだの、水を飲めだの手を洗えだのと(ほんと幼稚だね)、緊急性ゼロの放送を日々垂れ流しているから、「なんか放送してたみたいだけど、なんだっけ? まあいいや」という「ロバの耳」が、無意識のうちに出来上がってしまう。
 路上で防災無線の放送を聞かされると、私は耳を塞いで我慢しますが、目の前で井戸端会議をしている主婦などは、何食わぬ顔でケタケタケタケタ会話を続けています。おそらく、この人たちに「今、防災無線から何を放送してたかわかりましたか」と聞いても、「えっと、なんだっけ?」という答えしか返ってこないんじゃないでしょうか。
 こうして、立派なロバの耳が鍛え上げられるわけです。

 真面目に放送を聞く(聞いてしまう)人ほど「うるさい!」と腹を立て、無関心な人間にはなんの影響も及ぼさない。こんな放送が町中に、当たり前のように鳴り響いている国というのは異常です。
 防災無線などという無駄なものに費やす時間とコストを、実際に災害時に使う避難所を整備したり、食料を備蓄したり、老人を集めて振り込め詐欺被害防止の講習会を開いたりという具体策に振り分ければ、少しは現実的な効果も積み上げられるだろうに、ただ無闇に喚き散らして「何を言われても聞かない態度」を養うために奮闘している。
 日本の「防災政策」なんてアホの極みです。

カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
刑務所と変わらない「戸別受信機」のある町
 先日の朝日新聞別刷り「GLOBE」で、「日本の集落」という特集をやっていました。海外から日本に来て田舎暮らしをする外国人のコメントもいくつか掲載されているのですが、その中にこんな内容がありました。

――――――

ジョン・エジー(31)
オーストラリア出身
三重県大台町在住

 母国オーストラリアのシドニーで出会った日本人女性と結婚を決め、今年の春、日本に来ました。三重県大台町の山あいの集落で、空き家だった一軒家を借り、2人で暮らしています。

 田舎に住みたいと希望したのは私です。自治体が集落活性化のために空き家の情報を提供してくれる「空き家バンク」の制度を利用して、今の家を見つけました。

(中略。田舎暮らしのいい点をいくつか挙げたあと)

 ただ、気になることもあります。たとえば家の中に防災無線のスピーカーがあることです。プライベートな場所であるはずの家の中で、役所や集落の放送を聞かされるのは、オーストラリアでは受け入れられにくいと思います。でも、災害のときなどに無線が便利なことは分かります。(後略)

(聞き手・左古将規)

日本の集落.jpg

http://globe.asahi.com/feature/article/2014121800004.html?page=4

――――――

 家の中に防災無線のスピーカーがある、というのは、戸別受信機のことなんでしょう。ネットでざっと検索すると、三重県大台町は屋外に防災無線のスピーカーがあって、さらに戸別受信機まで全戸に取り付けている(取り付けつつある?)ようです。

 ふーん。

 私は本会の機関誌『AMENITY』を読んで、自分が体験したことがないスピーカー騒音が世の中にたくさんあることを知りましたが、中でも一番びっくりしたのは戸別受信機の存在。『AMENITY』30号には、奈良県のある市で暮らし始めた人の嘆きが掲載されています。

 アパートに入居すると、すぐ電器屋がやって来て部屋の中に「スピーカー」を取り付けられた。その日から毎晩7時になると、「●丁目の●●さんがお亡くなりになりました」「明日は小学校の廃品回収の日です」「班長さんは回覧板を取りに来てください」などと、自治会の定時放送が大音量で鳴り響くようになった。そして夜中だろうがなんだろうが、(どんなに遠くても)市内で火事が発生するとサイレンで叩き起こされるのだそうです。

 ちなみにこのスピーカーは、音量を調整することも電源を切ることもできないようです。三重県大台町の戸別受信機も、「役所や集落の放送」というからには、どうせこうしたくだらない放送まで強制的に聞かせているんでしょう。

 私は「屋外スピーカーは廃止する」「戸別受信機のスイッチは住民の自由意志でオン・オフできる(音量も調整できる)」「放送は災害関連に限定する」「テストと称して放送するなら、週に一度、時報などの短い音を鳴らす程度にする」という条件なら、公共空間をすべて音で支配する屋外スピーカーより、戸別受信機のほうがまだましだと考えますが、屋外スピーカーに加えて戸別受信機まである、しかも、むやみやたらと町内会レベルの連絡にも使われるなら、そんな町は刑務所と変わらないと思います。

 このエジーさんも、<災害のときなどに無線が便利なことは分かります>と言っていられるうちは幸せでしょうが、そのうち「まるで刑務所で、看守に命令されてる気分だ!」とならなければいいのですが(まあ、よけいなお世話だね)。

 ところで、スピーカー放送と「ファシズム」との関連はよく指摘されるところですが、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の映画『特別な一日』は、スピーカーから「誰もがこの放送を聞け!」と強制される生活の異様さが伝わってきます。

 第二次世界大戦前夜、イタリアにヒトラーを迎え記念式典が開かれる日、ローマのアパートで冷たい夫に無視されながら子育てに追われる主婦(ソフィア・ローレン)と、ファシスト政権に反対して職を失ったラジオアナウンサー(マルチェロ・マストロヤンニ)の、一日だけの出会いと別れを描いたこの映画は、劇中、屋外スピーカーから式典の実況中継やプロパガンダの叫びが絶え間なく流れ続けます。

 昂揚しきったプロパガンダ放送と、人生に疲れて何もかも投げ出してしまいそうな中年男女の逢瀬の対比が見事なこの映画は、「お前らはみんな、こう考えろ! こう行動しろ!」と、選択の余地なく押しつけられる暮らしの惨めさが鮮やかに描かれた名作です。

 ま、防災無線に限らず選挙カーから駅の構内アナウンスまで、「大声で叫ばれること」「一挙一動を指示されること」が大好きで、「世界で最も成功した集団主義国家」と言えるのが日本という国。
 どんなに幼稚な内容でも常にメッセージを浴び、命令されることを「自ら望む」日本人に、その危うさに気づいてくれと言ってもどーせ無理なんでしょうけれども。

カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
実は走っていた音楽拷問付きごみ収集車
 うんざりする事実に気づいてしまいました。
 私の住んでいる市では、ごみ収集車が音楽を鳴らしていないのはありがたい、と以前のエントリーに書いたことがあります。でも、それは勘違いで実は鳴らしていたのです。

 普段から自転車で市内を走っていると、童謡のようなメロディーが聞こえてくることがありました。私はこれを「移動販売業者の音楽か」と思って、そのたびに「うちの近くには来るな、来るな、またぐなよ~!」(c長州力)と気にしていました。
 ところが、しばらく前に自宅からかなり離れた場所で、ごみ収集車が大音量の音楽を鳴らしながら走っているところに遭遇。その後も数回目撃しました。
 どうやら、私の自宅がある地域では音楽を鳴らしていないのに、他の地域では鳴らしているようなのです。

 ごみ収集車が、うちの近くで音楽を鳴らしていない理由はわかりません。
 別に私が「音楽を鳴らすのをやめろ」と言ったわけではありません。今の家に住んで10年ほどになりますが、ごみ収集車が音楽を鳴らしていることに気づかなかったのに、「やめろ」と言う理由がないからです。
 以前は鳴らしていたものの、私以外の住人が「うるさいからやめてくれ」と言ってなくなったのか……そう考えるしかなさそうですが、本当のところはわかりません。
 もし、市役所に「うちの地域だけごみ収集車が音楽を鳴らしていないのは、なぜですか」なんて聞いたら、「(張り切って)じゃあ鳴らしましょう!」なんて言い出しかねないので、質問する気もありません。やぶへびになったらたまらんわ。

 これも以前のエントリーに書いたことですが、ごみ収集車はエンジンの音が大きいし、職員の「オーライ、オーライ!」という大声も、ごみを収集するときの作業音もよく響きます。
 音が聞こえたら「ごみ収集車が来た」とすぐにわかるし、そもそもごみ収集車が来る時間は種類や曜日でほぼ決まっています。その時間までにごみを出しておけばなんの問題もなく収集してくれるのだから、わざわざ「音楽を鳴らしてくれないと、ごみ収集車が来たことがわからないでしょ!」と要求する住人も、「ごみ収集車が来たことがわからない人のために、音楽を鳴らしてお知らせしてあげよう!」などと考える自治体の職員も、私には理解できない異星人のようです。
 まあ、そういう人間が駅で「足元にご注意ください」なんてわかりきったアナウンスを聞かされて、「やさしい!」「うれしい!」「もっと注意して!」と喜ぶ典型的な人たちなんでしょう。世の中、そういう人間ばかりで本当にうんざりします。

 私が住んでいる市のごみ収集車の音楽は、音量が非常に大きいのも特徴で、周囲100m以上に響きます。これまで、別の自治体の音楽を鳴らしているごみ収集車とすれ違ったことは何度もあるのですが、それらはたいてい、角を曲がったら急に聞こえてきた、という程度の音量です。それでも目の前で鳴らされたらうるさいのに、大音量の音楽を、しかも曜日によっては何度も何度も聞かされたら、とても我慢できないでしょう。

 今のところ、うちから一番近い場所で、ごみ収集車が音楽を鳴らしているのに出くわしたのは500mほど離れた隣町です。これ以上「強制的音楽拷問付きごみ収集車」がうちの近くまで来ないよう祈るしかありません。
 「ごみ収集とご一緒に、音楽はいかがでしょーかあー」
 「い・り・ま・せ・ん・!」

カテゴリ:防災無線・広報車・夜回り
貞子の「振り込め詐欺に注意しろ」放送?
 ここ1、2カ月ほど、私の住んでいる市で、警察の広報車が「振り込め詐欺に注意しましょう!」と放送しながら走り回るようになりました。
 同じ場所にやってくるのは2、3日に一度ぐらい。毎日毎日、防災無線から流されるよりましですが、それでも非常に鬱陶しいです。やれやれ。

 この「振り込め詐欺に注意しましょう!」の放送がいかにバカバカしいかは、これまでのエントリーで何度も何度も繰り返し指摘しているのでもう書きません。
 今回、特に呆れてしまったのは、警察が「自分たちがどんな放送をしているか、確認もせずに走り回っている」のが明らかだったことです。

 先日、昔のアナログテレビの放送終了後に流れる「砂嵐」のような、ザーザーというノイズが聞こえてきました。窓を開け外を見ると、バカでかいスピーカーを付けた警察の車が走っています。周囲に響いているのはただのノイズだけ。
 「いったい、なんなんだ」と思いながら耳を澄ますと、ようやくノイズの中から小さな音で「ふ・り・こめ…さ・ぎに・き…を・つけ・ま…しょ・う」というような声が、かすかに聞き取れました。まるで深夜のテレビ画面から、幽霊がつぶやいているような声です。お前は貞子かよ!(貞子はしゃべらなかったか?)

 「振り込め詐欺に注意しろ」という放送自体、迷惑なだけなのに、このようなザーザーザーザーというノイズしか聞こえない放送を垂れ流して、いったいなんの意味があるのか。
 いくら窓を閉めているとはいえ、車を運転している警察の人間にも、そのノイズだらけの放送は聞こえているはず。それなのに「なんだこの音は。こんな放送をしてもしょうがないから中止しよう」とは考えないのだろうか? それ以前に、警察署を出る前にテスト放送ぐらいしないのだろうか?
 私の頭の中は?マークだらけになるばかりです。

 そもそも、こんなくだらない活動には一生懸命なくせに、警察は廃品回収車だの不動産業者の違法看板だの、「見ればわかる」犯罪を一向に取り締まろうとしません。
 具体的に「何かをする」より、「何かをしているとアピールする」ことに血道を上げ、それだけで「何かをした」気になるのは日本人の悪い癖です。
 その典型は「交通安全週間」だの「町を明るくする運動」だののように、「なんとか週間」「なんちゃら運動」と名付けて、街頭でワーワー喚いたりキャンペーンをしたりすることです。
 日本人はこういう行動が大好きですが、本当に意味のある行動などほとんどないでしょう。

 つい先日も、むかっ腹の立つ出来事がありました。
 ある町の片側一車線の道路を自転車で走っていると、前を「交通安全パトロール協会」と書いた車が塞いでいるのです。
 その道路はバスも通る交通量の多い道です。自転車は道路の左側の車道を走るのが原則。やむを得ないときは歩道を走ってもいいとされていますが、その道は歩道が狭いので私は車道を走っていました。これは交通法規に則った乗り方のはずです。
 しかし、その行く手をこともあろうに、路駐した「交通安全パトロール協会」の車が塞いでいるのです。中を見るとドライバーはいません。しょーもなー。

 自転車を止めて周囲を見渡すと、近くのコンビニ(駐車場なし)の店頭で、缶コーヒーを飲みながらケータイでしゃべっているおっさんがいました。「間違いなくこいつだ」と確信して声をかけると、大当たり。
 「あなた、交通安全のためにパトロールしてるんでしょ? こんな交通量の多いところに路駐してたら危ないじゃないですか。私は自転車で走っていて、あなたの車を避けるためセンターラインの近くまで出なければなりませんでしたよ。後続の車もみんなスピードを落として、怖々と追い越してるじゃないですか。緊急事態で車を止めたというならわかりますが、缶コーヒーなんか飲んでいるところを見るとそうも思えないし、どういうことなのか説明してもらえませんか」
 そう声をかけると、おっさんはヘラヘラ薄ら笑いを浮かべ「すいません、すいません、すいません」と繰り返しながら車に戻り、あわてて発進させ逃げていきました。

 「まず説明してほしい」と言っているのに、ひたすらペコペコ頭を下げて逃げるだけ。これも日本人の典型的な態度ですね。
 私は「説明責任」などという言葉は嫌いですし、そういう言葉を盾に人を追い詰めることが大好きな新聞やテレビなどのマスコミも嫌いです。毎日のように報道される「謝罪ショー」を、涎を垂らしながら喜んで見ているアホな連中も大嫌いです。
 STAP細胞騒ぎのように、自殺者まで出すほど人を追い込んで何が楽しいのか。

 しかし、別に衆人環視の中で「謝罪しろ!」と追い詰めているわけでもなく、一対一で「どういうことなのか聞かせてください」と言っているだけなのに、「すいません、すいません、すいません」と逃げるだけでは話になりません。「路上に車を止めたのはかくかくしかじかで……」と理由があるならそれを説明してくれればいいし、なければ「すいません、ついうっかりして……」と言ってくれればいい。うっかりすることなんて、誰にでもあるんだから。

 「なぜ?」と聞いたら「こういう理由で」と答える。「カトちゃん」と言われたら「ペッ!」と返す。「話」というのは言葉のキャッチボールから始まるものなのに、この「交通安全パトロール協会」のおっさんのように、最低限の説明すらしようとせず、人との「対話」を拒むのではどうしようもありません。
 そういう連中に限って、「振り込め詐欺に注意しましょおおおおお!」「交通ルールを守りましょおおおおお!」「子供たちを守りましょおおおおお!」などと、人様に向かって一方的に、大声で叫ぶことは大好きで、しかも自分を「善人」だと信じ込んでいるものだから始末に負えません。
 大切なのは、ただ「叫ぶ」ことではなく、「具体的に何をするか」であり「人と話をすること」です。一方的に叫べば叫ぶほどその大切さを忘れてしまうものだからこそ、私は、はた迷惑なスピーカー騒音を「やめろ」と言い続けます。

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■プロフィール

Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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