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注意看板の残骸を平気で放置する「自称善人」たち
 景観(特に注意・警告・道徳を押しつけてくる看板、貼り紙、のぼり)についての話を続けます。

 前回のエントリー等で挙げた看板のほかにも、不快なバカ看板はこの国のいたる所に、無数にあります。中にはすでに「看板」とすら呼べないものも。

 たとえば、こんなものはどうでしょうか。

とびだし注意?貼り紙.jpg

交通安全?看板.jpg

 上の電柱の貼り紙は、「とび」という書き出しに見えるので、「とびだし注意」とでも書いてあるんでしょう。
 下の交差点の車止めにくくり付けられているのぼりは、無残にも引きちぎれ、風にはためいているので、もはやなんののぼりなのかすらわかりません。かろうじて一番上の字が「交」と読めなくもないので、やはりこちらも「交通安全」とかなんとか書いてあるのでしょう。

 いったい、どういうつもりなんですかね。

 世の中の「自称善人」たちは、こうした看板、貼り紙、のぼりなどを、蟻が砂糖に群がるように、隙あらば街のあらゆる場所に取り付けます。
 取り付けたら取り付けたで、最後まで責任を持って管理するならともかく、その看板がぼろぼろになり、なんの役にも立たなくなり、街の景観を汚らしくするだけの状態になっても、このように平気で放置し続けます。
 うちの周囲にも、こうした看板やのぼりはいくつもありますが、「あ、撤去されてきれいになってる」と感じたことは一度もありません。どれもこれも何年たってもそのままです。
 掲載した下の写真ののぼりなんて、「交通安全のぼり」どころか「交通事故誘発のぼり」にしかなっていませんね。

 自分たちの「善意」や「善行」をアピールし、自己満足に浸りたい「善人気取りの連中」たちの、最も恐ろしいのはこういうところ。自分たちがなんの目的で、何をしているのか、それは本当に役に立つことなのか、むしろ世の中にとってマイナスになっているのではないか、と考えることすらできない点です。

 私は、この手の看板を貼り出す連中のことを想像すると、風俗に行ってヤルことをヤッた後で、「キミもいつまでもこんな仕事をしていないで、まっとうな道を歩きなさい」などと説教するクソオヤジを連想してしまいますね(しかも、割引券を使ってセコかったりして)。
 私が風俗嬢だったら、「どの口で言うとんじゃボケ!」と腹が立つでしょう。
 いや、なんかちょっと違うような気がしなくもないけど、要は人様に対して偉そうに説教する前に、自らのやっていることを少しは振り返ってみろ、ということです。

 こういう連中は、看板を立てたら立てっ放し、ヤッたらヤリッ放し、という点では「看板バイアグラオヤジ」と言ってもいいのかもしれません。なんだそれは。まあ「人に説教をするくせに、自分の行為のでたらめさには気づかない」のはオヤジに限らず、バアサンも若いのも無数にいるわけですが。
 う~ん、書いていて自分でもわけがわからなくなってきた。

 ともあれ、ここに載せた残骸と化した看板は、「とても珍しいから写真に撮った」というわけではないのです。どの街のどんな場所にでも、ちょっと周囲を見渡せば必ず見つけられるほど溢れかえっています。それをいちいち写真に収めるほど私も暇じゃないので、撮影したのはたった2枚というだけです。

 このような汚物同然のものが街中に氾濫しているのに、「日本の道路にはごみ一つ落ちていないぞ」「日本人は高い道徳意識を持っているのだ」「日本は美しい国だと世界にアピールしよう」などと、根拠不明の美化されたイメージだけでものを言う連中がどれだけ多いことか。
 スピーカー騒音の問題(「日本人は静けさを好むのだ」なんて、ウソを言ってはいけません)や、コミュニケーション全体の問題(「いらっしゃいませこんにちわああああ」の連発が「お・も・て・な・し」なのかよ)を含め、日本人の自己イメージと現実との病的なまでの乖離は、取り返しのつかない深刻なところまできているのではないかと思いますね。

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カテゴリ:景観
何を注意したいのかわからない「出会い事故多し」看板
 景観(看板)についての話に戻ります。

 この国のいたる所に溢れかえる、

●役所・警察・自治会・学校・PTAなどが立てる注意・道徳・スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙

 が、どれほど街の景観をみすぼらしく、汚らしく、幼児的なものにしているか。それには、そこに書かれた「言葉」も大きく影響してきます。
 そもそも「あれに注意しろ、これに気をつけろ、ああしてはいけない、こうしなさい、どうしてわからないの、何回も言ってるでしょ!」というヒステリックな言葉(そのヒステリックさをオブラートでくるんだ、「自称善人」たちのニチャニチャした気持ちの悪い言葉)が、(アナウンスも含めて)これほどまでに氾濫している国は尋常ではない……と言うしかないのですが、その「言葉」がデタラメな日本語であれば、なおさらそれを「無理やり見せつけられた(聞かされた)」ときの怒りは激しくなり、その後にむなしさだけがつのる白いテラスの午後3時という心境にさせられます。

 前々回のエントリー「たった一人の要求で立てられた『スリップ注意』のバカ看板」に掲載した、東京・多摩センター駅前のペデストリアンデッキに立てられた看板もその一種でしたが、そんなバカ看板はこの国の街中にいくらでも乱立しています。今回もそのひとつを取り上げます。またしても、役所と警察が立てた看板です。

出会い事故多し!!.jpg

 これは東京・武蔵野市の三鷹駅近くに広がる住宅地の注意看板です。
 この一帯は田園調布だの成城だのというレベルまでいきませんが、それなりに高級住宅地として知られる一画で、道路がきれいな碁盤の目のように走っています。その何十という道路の交差点のほぼすべてに、これと同じバカ看板が立てられているのです。

 この看板を設置した武蔵野市役所や武蔵野警察署の職員はもちろんのこと、毎日毎日飽きるほど見せつけられている住宅地の住人たちは、「この看板のフレーズ、なんかおかしいなあ。どうにも据わりが悪くてしょうがないぞ」という違和感のひとつも覚えないのでしょうか(つまりそれが、「注意看板なんて誰も見ちゃいない」ことの証拠なのですが)。

 私は通りすがりにこの看板を見て、
 「ほほう。この住宅地では『わたしぃ24歳のOLでぇ、顔はよく石原さとみちゃんに似てるって言われまぁす(はあと)』つーから会ってみたら、石原さとみじゃなくて石原軍団じゃねえかバカヤロウ!──事故が多発しているのか」
 と思いました。
 この住宅地の住人はよほど「出会い」が好きなんだなあ。スケベだなあ。それに、わざわざ路上で赤の他人にまで「事故」の注意をうながすなんて親切だなあ。でもなあ。そのための注意看板にしてはちょっと字が足りないし、「一時停止」とか「左右確認」とか意味不明。本当はこの看板、何を注意したいんだろう──。
 そんなふうに悩みに悩み、苦悩のあまり玉川上水で入水自殺してやろうかと思いました。

 というのはもちろんウソ。この看板の字句のどこがおかしいか、どう書き直せば「最低限、日本語としてまともな看板」になるかは、自転車ですれ違い様に一瞬でわかりました。わからないほうが日本語話者としてどうかしています。
 いや、本当に「どうかしている」としか思えないのですが──多摩センター駅前の看板と同様、こんな看板を設置する側も、見せられる側も、そのおかしさに気づかない人ばかりなのが「この国」です。

 交差点という交差点で「飛び出し注意!」「ブレーキかけろ!」「死亡事故発生地点!」などという、人を小バカにした、おどろおどろしい文句の看板ばかり見せつけられるこの国の街並みにはほとほとうんざりですが、それに加えてそこに書かれた「言葉」がこんなにもテキトーなものであれば、さらに腹が立つばかり。
 パチンコ屋の看板の「パ」の字が取れているなら「×ンコ~、チ×コ~」と笑うこともできますが、人様に向かって偉そうに説教をする看板の言葉がこれじゃあね……。

 この国では、もう長いこと「日本語ブーム」と言われ、漢字検定だのなんだのも受験者が増え、「正しい日本語、美しい日本語」についての意識が高まっている──と言われてますが、そのわりに、こんなデタラメな言葉の看板(やアナウンス)が増え続け、そのことを誰も気にしないのはなぜなのでしょう。
 私はこんなブログを書いているくらいだから、この国のことなんてもう大嫌いだし、日本語に特別な愛着なんかまったく持っていませんが、それにしても巷間言われる「日本語ブーム」と、実際にあらゆるところ(街中、駅、店、テレビ、新聞など)で垂れ流される「現実の日本語」との、あまりにも広い乖離には愕然とするばかりです。

 三鷹駅北口から徒歩数分の某住宅地に住むお金持ちのみなさーん。
 いくらお金があっても、こんないいかげんな言葉の看板を放置していたら、お×むの程度が知れますよ。せめて市や警察に「まともな日本語の看板にしろ!」ぐらい言ってみてはどうでしょうか。
 本当は「こんなギンギラギンの看板で、住宅地の景観を汚らしくするな」と言ってほしいのですが、それはどうせ無理でしょうからね。こういう看板を「汚い」とすら思わないなら仕方ありません。
 えっ、ここまで読んでも「この看板の言葉の、どこがどうおかしいのかわからない」? そういう人は、小学校から国語の勉強をやり直したほうがいいですね。

カテゴリ:景観
たった一人の要求で立てられた「スリップ注意」のバカ看板
 今回も「景観」の話題の続きです。

 前回のエントリーにも掲載した、東京・多摩センター駅前のペデストリアンデッキに立てられている「スリップ注意」のバカ看板。

多摩センター駅前ペデストリアンデッキの交通看板01.jpg

多摩センター駅前ペデストリアンデッキの交通看板02.jpg

 これについて、設置責任者(多摩中央警察署と連名)の多摩市に電話し、道路交通課の職員と話をしました。そのときの会話を再現します(2枚目の写真に写っている「喫煙禁止」のしつこい看板にも腹が立ちますが、とりあえず無視)。

 以下、わかりやすいよう、私の名前を福山(福山雅治)としておきましょう。
 まあ、名前なんてただの記号です。福山雅治が気にくわなかったら、レオナルド・ディカプリオとでも読み替えてください。ジョージ・クルーニーでもいいや。はっはっは。

──────

福山 もしもし。私、福山雅治またの名をレオナルド・ディカプリオと申します。そんなことはともかく、多摩センター駅南口のペデストリアンデッキに、自動車のイラスト付きで「スリップ注意」と書かれた看板が、何枚も立ってますね。ペデストリアンデッキは車道ではないし、物理的にも車が進入できないようになっています。あんなところに車を乗り入れるのは、ジェイソン・ステイサムくらいじゃないですか。それなのになぜ、自動車のスリップに注意しろ、という警告看板があるのでしょう。

職員 ペデストリアンデッキに、自動車のスリップ注意の看板ですか……。ちょっと確認してみないとわからないので、お時間をいただけますか。

福山 わかりました。数日後にまたお電話します。なお、このような看板が立てられた経緯についても知りたいので、調べておいてください。よろしくお願いします。

《数日後》

福山 もしもし。私、福山雅治またの名をレオナルド・ディカプリオと申します。そんなことはともかく、注意看板についての問い合わせなのですが。

職員 はい。まず、現地にそのような看板があることは確認しました。それで、おっしゃるようにペデストリアンデッキにあの看板はおかしいので、自動車のイラストがない看板に立て替えることにしました。

福山 ちょ、ちょちょちょちょちょちょちょちょっと待ってください。するってえとなんですか。今後は自動車のイラストがない「スリップ注意」の看板が立ち並ぶ、ということですか。

職員 はい、そうです。

福山 それは、誰に向けた「スリップ注意」の看板なのでしょう。

職員 歩行者ですね。

福山 私には今ひとつ理解できないのですが……。その場合「スリップ」とは、具体的に何を意味しているのでしょう。

職員 たとえば冬の日の朝、道路が凍結すると滑りやすくなりますよね。そのようなときに注意をうながすための看板です。

福山 つまり「スリップ」とは、歩行者が「滑って転ぶ」ことを指してるんですか?

職員 そうですね。

福山 あのー。多摩センター駅前のペデストリアンデッキは、凍結すると特に滑りやすい材質でできているとか、ものすごく転びやすいデザインになっているとか、そのような不具合でもあるのでしょうか。

職員 そういうわけではありませんが……。

福山 ですよねー。私もあのペデストリアンデッキを何度も通ってますが、ほかの道路と比べ「滑りやすくて危険だなあ」と感じたことはありません。それなのになぜ「滑って転ばないよう注意しろ」の看板が必要なのでしょう。そもそも現在の看板はいつ、どのような経緯で立てられたのでしょう。

職員 経緯については、申し訳ありませんが資料が残っていないので、よくわからないんです。たぶん、実際に歩行者が凍結したペデストリアンデッキで転倒し、市に「注意看板を立てるべきだ」という要望をお出しになったから、立てられたのではないかと思います。

福山 資料が残ってないのは仕方ありませんが、率直に言って、その説明では納得できないですね。まずお聞きしたいのは、「転倒して市に注意看板設置の要望を出した歩行者」というのは、何人くらいいたのでしょうね。10人でしょうか、50人でしょうか、100人でしょうか。

職員 おそらく……お一人だと思います。

福山 私もそうだろうと思いますよ。あのペデストリアンデッキが、短期間に何十人も転倒するほど滑りやすい構造だとは思えませんからね。それにもし、そのような危険な場所であったとすれば、必要なのは凍結しても転倒にくい道路に改修するというような物理的な対策であって、看板を立てて注意をうながすことではありませんよね。

職員 おっしゃるとおりですね。

福山 つまるところ、その要望を出した歩行者は、何も問題のないペデストリアンデッキなのに、自らの不注意で滑って転んだだけじゃないですか。たった一人の歩行者が不注意で転び、要求してきたからといって、「転倒注意」の看板をあちらこちらに立てるというのは、過剰反応だと思いませんか。

職員 ただ、市民の安全を守るのは自治体の役目なので。

福山 ですから。さきほども申し上げたように、あのペデストリアンデッキが特に転倒しやすい構造になっているなら、それはすみやかに改修工事をすべきであって、看板を立てれば解決する問題ではありません。でも、そもそもあのペデストリアンデッキは、転倒しやすいわけでもなんでもないんですよ。それは市も認めるわけでしょう? どんな道路でも、路面が凍結すれば滑って転びやすくなるのは当たり前なのだから、要望を出した歩行者がペデストリアンデッキで転んだのは、ただ自分が注意を怠っただけじゃないですか。凍結した道路を歩くとき、転ばないよう自分自身で注意するのは、人間として当然のことですよね。

職員 それは、おっしゃるとおりですが……。

福山 それなのに、なぜ現在の看板を撤去した後、わざわざ歩行者向けの注意看板を立てる必要があるのでしょう。看板の設置には税金を使うのだし、管理やメンテナンスにも費用がかかります。たった一人の歩行者、それも自分が転んだことを市や道路のせいにする歩行者の一言で、そんな無駄遣いをする必要があるのでしょうか。それに、市がわざわざ「転倒注意」の看板を立てるということは、「このペデストリアンデッキで歩行者が転んだら、それは市の責任である」と認めることにもつながるんじゃないですか? 別に整備を怠ったわけでもないのに、わざわざ自らに責任があるかのような看板を立てる必要なんかないじゃないですか。

職員 ……。

福山 あのですね。どんな道路でも凍結すれば転倒しやすくなるのは当たり前なのだから、「注意をうながせ」という要求にいちいち応えていると、道路という道路が「転倒注意」の看板だらけになりますよね。どこもかしこも「転倒注意」と書いてあるということは、逆に言えばどこも等しく「転倒に注意する必要がない」と言っているのと同じです。道路を注意看板だらけにするというのは、そういうことを意味してるんですよ。

職員 ……。

福山 そもそも、その歩行者は自分が転倒したからといって、ペデストリアンデッキを通る誰もが看板で注意されるべきだと要求しているわけですよ。これって、ものすごく人をバカにした考えだと思いませんか。私はわざわざ看板で注意されなくても、凍結した道路は注意して歩かなければ、転倒することぐらい知っています。そんなの、小学生にでもなればわかることですよ。

職員 ……。

福山 もちろん「ここは凍結しているから気をつけよう」と思っていても、転倒するときはします。私だって冬の凍結した道路で転んだことぐらい何回かありますよ。でも、それは仕方のないことだと思っています。道路が陥没していたとか不自然な急斜面があったとか、明らかな不具合のせいで転倒したなら「私が転んだのは、道路の整備を怠った市の責任だ」と文句を言うかもしれませんが、そうでなければ「転んだのは自分の注意が足りなかったせいだ。仕方がない」で済ませるしかないじゃないですか。

職員 ……。

福山 そもそも「看板を立てろ」と要求してきた歩行者は、すでに一度転倒したのだから「自分は、このペデストリアンデッキが凍結すると滑って転ぶ人間だ。気をつけなければいけない」と学習したはずですよね。本人にとってはそれで十分であって、無数の赤の他人に同じ注意をしろ、と市に要求する必要はないはずです。だいたい「転倒注意」と書いた看板を立てたからといって、実際に転ぶ歩行者が減るとはとても思えないのですが、あなたは本当にそんな看板に効果があると思いますか?

職員 ……。

福山 それに「転倒注意」の看板というのは、一度設置したらそのままそこに立ち続けるわけですよね。「冬に路面が凍結すると危険だから看板を立てる」とおっしゃいましたが、それなら、真夏の日中でも「転倒注意」の看板があるのは変でしょう。というか現状の「スリップ注意」の看板が、すでにそうなっているわけですよ。まじめに看板の注意書きを読む私のような人間は、その看板を見て不思議に思ったり、不快感を覚えたりするだけです。何も感じない人たちは、そもそも看板が目に入ってないか、内容を理解しようという気がないということです。そんな看板になんの意味があるのでしょう。

職員 ……。

福山 私がなぜ看板について、ここまであれこれ申し上げているかというと、あの黄色い地に赤い文字のドギツイ看板が立っていると、それなりに落ち着きのあるペデストリアンデッキの景観が台無しになるからですよ。原色の毒々しい看板が鬼のツノのように突き出ているせいで、周囲の雰囲気をぶち壊しています。無意味で汚い看板を立てるより、せっかく開発した多摩センターの景観を保つことを優先しよう──そんな発想も大切ではないでしょうか。

職員 ……。

福山 それから、ちょっと話を戻しますが、そもそも今の看板は、なぜ「自動車のスリップに注意」になっているのでしょう。歩行者に注意する目的で立てたのに、自動車のイラストが入っているのはおかしいですよね。設置するとき、誰もそう思わなかったのでしょうか。

職員 そのようですね……。

福山 あの看板を立てようと企画し、制作し、設置するまでに、何人もの関係者が看板を見ているんでしょう。誰一人おかしいことに気づかなかったんですか。

職員 ……。

福山 それはつまり、無意識のうちに「こんな看板、どうでもいいんだけどね」と思ってるからじゃないんですか。とにかく、現在の看板を撤去した後に新しい看板を立てるのはやめていただきたいですね。せっかく整備したペデストリアンデッキなんだから、無駄で汚らしい夾雑物は少しでも減らしましょうよ。これで、私が言いたいことはすべて申し上げたのでよろしくお願いします。

──────

 会話の中に書きそびれましたが、この看板について市に問い合わせをしたのは、私が初めてのようです。多摩センター駅前のペデストリアンデッキは一日何千人か、何万人かの人が通っているはずなのに、これまで誰一人、あの看板について「おかしいのではないか」という意見を寄せた人がいない。これが一番残念なことです。

 まあ、何をどう言っても、新しい「歩行者の転倒注意」の看板は立てられ、無意味な警告を発し、ペデストリアンデッキの景観をみすぼらしいものにし続けるんでしょう。
 もし、多摩センター付近の住人で、この「人様を何もわからない幼児扱いする看板」に腹が立つ人がいたら、多摩市に苦情を言ってはいかがでしょうか(いるとすれば、ですけどね)。
 「滑って転ぶの注意!」と言われバカ扱いされるのは、この看板の前を通るすべての人なんですよ。

 次回もまた、景観(看板)の話が続くと思います。

カテゴリ:景観
多摩センター駅前の「スリップ注意」はバカ看板の代表
 今回も、前回のエントリー「日常の生活圏から荒廃していくこの国の景観」の続きを、ちんたらちんたら書いていきます。

JR横浜線中山駅南口商店街.jpg

 この、JR横浜線中山駅前の景観があまりにも醜くて、思わず写真を撮ってしまったわけですが、ここにある醜さを構成している要素は、じつのところかなり単純です。

●高さも形もデザインもバラバラなビルと、その汚らしい並び方
●建物の壁面にへばりついているものはもちろんのこと、縦横あらゆる方向に飛び出して、攻撃的に人の視線を奪おうとする無数の商業看板・のぼり
●乱立する電柱と街灯。そこから延びて頭上を這い回るグロテスクな電線やケーブル類

 ほぼ、これだけです。
 商店街によっては、ここに「万国旗」だの「セルロイドのビラビラ造花」だのという、いかにも日本的でチープなアイテムが加わったりするのですから、じつは「中山駅前が特に醜い」ということもないのでしょう。

 それでも、一目見て「きったねええええ!」という印象を抱いたのは、この場所の場合、電線のインパクトが強烈だったからなのかもしれません。
 前回のエントリーで紹介した、松原隆一郎氏の著書『失われた景観―戦後日本が築いたもの』にも同じようなことが書いてありましたが、電線は道路に沿って延びているぶんには、まだ我慢できる。でも、中山駅前のように電線が道路を横切って、視野を分断するように這い回る光景は、見苦しくてとても耐えられるものではありません。

 ところで、松原氏はこの夏『無電柱革命』(まだ読んでないけど)という本を出版し、政治家にも働きかけ、電線を地中化する活動を進めているようです。ツイッターをちらっと見るとシンポジウムを開いたり、国会議員や全国の自治体首長とともに無電柱化を進める会を設立したりして、本格的に活躍されている様子です。

 言うまでもなく、私も地上から電柱や電線を減らすのは大賛成です。
 政治家や役人がこの問題に急に熱心になったのは、景観のことを考えたからではなく、「電柱は災害時に倒れたりして二次被害をもたらす」ことに気づいたのが主な理由じゃないのか。じつは、電線の地中化工事で生まれる利権がすんごいおいしいからなんじゃないのか。などと嫌みなことは言わず(言ってるけど)、本心から「少しでも無電柱化が進み、まともに見られる景観が増えればいいなあ」と思います。

 しかし、この国の汚らしい景観の中で、電柱や電線が占めている割合など、ごく一部に過ぎないのも事実です。また、景観に関しては電柱・電線だけでなく、前回までのエントリーで挙げたさまざまな点について、松原氏をはじめそれなりに多くの人(建築家や学者、ジャーナリストなど)が疑問を呈しています。

 ところが、そこからまったくと言っていいほど抜け落ちているのが、

●役所・警察・自治会・学校・PTAなどが立てる注意・道徳・スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙

 の問題なのです。

 次の写真は、中山駅と同じく数カ月前に仕事で何度も通った、東京・多摩市の多摩センター駅南口に広がる、ペデストリアンデッキに立てられている看板です。この「スリップ注意」の看板を見て、何かおかしいと感じないでしょうか。
 自分がペデストリアンデッキ(空中回廊)を歩いていると想像しながら見れば、一瞬でわかるはず……だと思うのですが。

多摩センター駅前ペデストリアンデッキの交通看板01.jpg

多摩センター駅前ペデストリアンデッキの交通看板02.jpg

 私は一目合ったその日から、この超ウルトラスーパーエキサイティングバカ看板のことが忘れられなくなり、日毎にムカムカが迫り上がってきました。とても我慢できそうになかったので、数週間前、設置責任者である多摩市役所に電話をし、道路交通課の職員と話をしました。
 そのときの会話にはインド人もびっくり! ということで、また次回に続きます。

カテゴリ:景観
日常の生活圏から荒廃していくこの国の景観
 前回のエントリー「JR東日本のトイレットペーパーと日本の景観」の続き。今回もだらだらした、牛のよだれのような、まとまりのない内容になるんじゃないかと思います。

 さて、上記のエントリーで、

──────

 景観の問題と一口に言うけれど、それにはどんな要素があるのか。箇条書きにすればこうなります。

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール
 など。

──────

 と書きました。同時に〈(これまでこのブログで)景観についてほとんど書かなかった理由は「騒音は耳を塞いでも防ぐことができない。でも、視覚の問題は目をそらしたりすれば意識から排除することもできる」という、じつに単純な違いがあるから〉とも書きました。

 もちろん、「わしゃ音よりも景観のほうがよほど気になるわい」という人がいてもいいわけで、その一人が東京大学大学院教授(社会経済学)の松原隆一郎氏です。
 松原氏は経済学の教授にして格闘家という異色の学者(総合格闘技団体「大道塾」師範代でもあるらしい)で、私も格闘技雑誌で文章を読んだことはあるのですが、景観について何冊も本を書いている方だとは、ごく最近まで知りませんでした。

 松原氏の景観に関する著書『失われた景観―戦後日本が築いたもの』(2002年)は、こんな導入部から始まります。いきなりですが長々と紹介。

──────

序章 生活圏における景観荒廃

生活圏の景観問題

 日本における景観の荒廃について考えてみたい。

 とはいえ日本の景観が「荒廃」しているというだけで、いきなり反論が返ってくるかもしれない。事実として荒廃などしていないではないか、という反論である。ゴミは放置されていないし、新しい看板など整然と並んでいる、駅前の再開発はそれなりに進んでいるではないか、と。けれども私は、清潔で新しくはあっても秩序のないことにかけてこれほど突出している景観を持つ国は、世界に類を見ないと感じている。そもそもそうした感覚、つまり景観が荒廃しているという共通の認識がないことじたいについても、絶望的な気分にさせられてしまう。それゆえ景観にかんする考察は、まずは私感から始めるしかない。《中略》

 私はこの頃、自宅周辺を散歩するたびに憂鬱な気分になる。一番気鬱なのは、蜘蛛の巣のように張りつめ、空を覆う電線である。小学校の頃、校庭に寝ころぶと青空は大きく広がり、不安や希望をかき立てられた。その空が今では、電線によって幾つもの区画に切り取られている。不安も希望も、電線のせいで縮んでしまった。高い樹木にしても、空に届かんばかりにそびえるというよりは、電線に絡まりながら窮屈そうにしているように見える。《中略》ああした電線群を見るたびに、目の辺りが不快になりイライラしてしまう。

 近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている。駅におけるアナウンスが無益な過剰サービスだ、役所が子供向けに流す「夕焼け子やけ」も余計なお世話だ、商店の呼び込み音楽は騒音公害だ、といった主張である。私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。ただ、騒音を拒否する主張が、あくまで生活環境の中での実感にもとづいて唱えられていることには好感をもつ。

 景観をめぐる対立についても、近年しばしば耳にするようになった。マンション建設に反対する運動が全国で頻発しているのである。ところがそういった対立で損なわれると公認された景観はというと、歴史的建築物や伝統的な街並み、自然環境のそれが中心である。もちろん私も歴史的建造物が廃棄されず、ビルの高さに制限があり、自然環境が守られるのには賛成である。《中略》しかしそれと同時に、いや利己心の告白を許されるならそれ以上に、自分の生活圏で日々出会う景観の荒廃の方に目が向いてしまうのだ。というのもそうした景観問題が強調されればされるほど、朝晩の通勤途中でちょっと眺めて心和むような樹木が年々電線に覆われていくことには、議論は及ばなくなる。散歩の途上、見やるのが好きな山並みが醜いマンションで浸食されることに対する憤りのやり場がなくなる。歴史的建造物にせよ都心の眺めにせよ自然環境にせよ、日々の暮らしの中で我々が体験するものとは切り離されて論じられている。《中略》

景観私感

 景観に対しての私の感じる苛立ちについて、もう少し続けさせていただきたい。ある地方都市に、空路で行ったときの話である。空港は郊外にあり、中心地区に向けてタクシーで走ると、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。沿道の景観が東京郊外のそれと酷似していたからだ。ラーメン店のけばけばしい景観、全国展開しているガソリン会社のスタンド、中古車の販売所。それらは日頃東京に住んでいて見慣れた光景であり、だからこそ身体を動かして地方にやってきたという疲労感が視覚とズレてしまう。《中略》

 地方といえば、観光地の景観にも悲惨なものがある。車で行く場合にとりわけ気になるのが、看板だ。《中略》否応なく看板の字が目に飛び込んでくるのである。《中略》せめて看板のデザインくらいは、ただ目立つものではなく、土地土地の風土に合わせる工夫ができないものだろうか。

 《中略》さらにいおう。東京の住宅地では古い住宅が突然更地となり、マンションや建売住宅に建て替えられるというのは日常茶飯事である。《中略》一律に旧家の建て替えが悪いとは言いようがない。けれども、消失することにより町の印象が一変してしまう、「臍」のような家屋が存在するのも事実なのである。そうした家が何の前触れもなく消え去ると、過去との時間の連続が切れたように感じてしまうのだ。生活圏における景観がいかに移ろいやすく保ちがたいかを、如実に示す例であろう。

 視野を電線で区切られず、そぐわぬペンキを塗られず、景観により自分の居場所が分かり、せめて旅先では看板の洪水にみまわれず、暮らしている町では過去との連続を実感していたい──私が景観に望むのは、そうした些細なことである。それは私にとっては心身の健全さにかかわることと思えるのだが、それが世の共感を得られぬ望みであるのか、贅沢にすぎる願いであるのかは、よく分からない。ともあれ私が「景観が崩壊しつつある」というときに想定しているのは、もっぱらこうした生活圏における景観の変化と、それから体感される不快感のことなのである。少なくとも私の身体は、それを不快と感じるのだ。

──────

 本書はこの後、四つのケーススタディー(「均質化する郊外の風景」、「山を切り崩し海を埋め立てる経済優先政策で荒廃する神戸市の景観」、「全国でも珍しい条例“美の基準”を制定した神奈川県真鶴町の理想と現実」、「電線の地中化問題」)を取り上げて、日本の景観について論じています。

 さて、紹介した「序章」に〈近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている。《中略》私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。ただ、騒音を拒否する主張が、あくまで生活環境の中での実感にもとづいて唱えられていることには好感をもつ。〉とあり、巻末の参考文献に中島義道氏の『うるさい日本の私』も挙げられていることから、松原氏は「静かな街を考える会」の存在や拡声器騒音の問題点をある程度理解した上で、このように書かれているようです。

 もちろん、人それぞれ感受性に違いがあって当然なのだから、松原氏が〈私は騒音にはさほど敏感ではないので、これらには共感できるものもできないものもある。〉と言うのはまったくかまわない。
 「駅のアナウンスも夕焼け小焼けも呼び込みの音楽もいいことじゃないか!」と、(圧倒的多数の音に鈍感な人たちのように)騒音を擁護されると困ってしまいますが、氏の言うとおり〈生活環境の中での実感にもとづいて〉考えていけば、多少、ベクトルの違いはあっても、この国の景観と拡声器音の両方に「ちょっと汚すぎる(うるさすぎる)んじゃないか」という問題意識が芽生えるのは当たり前のはずだからです(「はず」なのに、な~んにも感じない人たちばかりであること、何よりもそこが問題なのですが)。

 その上で、松原氏が本書(他の景観に関する著書でも)で述べている景観論と、(あくまでも)私個人の景観に対する不快感には、小さいようでそれなりに大きい開きがあるもんだなあ、やっぱり人間いろいろだなあ──と、まあ、そんなふうに感じることを、これからうだうだ書いていこうと思っています。

 まず、序章には〈近年、我々の生活環境を侵す騒音を告発する声が高まっている〉とあるのですが、これ、全然高まってなんかないっすよ。この本が出版された02年の時点を振り返っても、「いずれは拡声器騒音が減るんじゃいないか」と希望が持てる、夢のような「高まり」があったとはとても思えません。
 むしろ氏も書かれているように「歴史的建造物を守ろう」「伝統的な街並みを保存しよう」などと、景観に関する意識のほうは(「歴史建築物を保存して観光客を呼ぶ」というカネ目当てであっても)多少なりとも広まっているのに、拡声器騒音についての人々の意識は年々鈍感になっていくばかりです。
 でなければ、駅に駅メロという名の騒音が氾濫し、繁華街といえば街頭ビジョンだらけになり、アドトラックが我が物顔で走り回る国になるわけがない。

 例の新国立競技場の問題にしても、エンブレムがどうしたとかくだらない話題に埋もれたのかもしれませんが、そもそも競技場のデザイン自体がよくないとか、周囲の景観に与える影響が大きすぎる、という論点があったはずです。
 ところが、拡声器騒音についてこうした指摘をする人は、あいかわらずほとんど現れません。繁華街で早朝から深夜まで街頭ビジョンが轟いたり、家のすぐ横で大音量の防災無線が鳴り響いたりする異様な音環境について、そこで働いたり住んだりしている人ですら「おかしい」「いいかげんにしろ」「も~やめて!」(懐かしの横山弁護士)と言わないのです。
 拡声器騒音問題より景観問題のほうが、まだしも世間に認知されているとしか思えない。なんとも複雑な気持ちにさせられます。

 ただ、景観の問題が認知されていると言っても、それはごく一部を対象にしたものでしかないのも事実でしょう。
 前回のエントリーで〈一般に、多くの人が「景観を守ろう」「美しい風景を残そう」と言い始めるのは、「由緒ある神社の横に高層マンションを建てるな!」「自然豊かなこの川にダムは必要ない!」などという、じつにわかりやすい問題が持ち上がったときだけです。〉と書きましたが、僭越ながら松原氏も「日常の景観が荒廃しているという共通の認識がない」と、同じように嘆いているわけです。

 ところが、ここから先に私と松原氏でちょっと違う点がある。氏が本書で主に取り上げている日常景観の問題は、私が挙げた「要素」に当てはめると、

●高さも色もデザインもバラバラなビルや家屋、それが乱立する街並みそのものの醜さ
●コンクリート、フェンス、生垣など、素材にも形にも色彩にも統一感のない住宅地の塀
●ハコモノ行政が建てる、その土地の風土とそぐわぬ異様な姿の建造物
●乱立する電柱、空中にとぐろを巻く電線
●企業や商店のけばけばしい看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙

 に、ほぼ絞られているようです。その他の要素、

●役所・警察・自治会・学校などが立てる幼稚な注意道徳スローガンの看板、のぼり、垂れ幕、ポスター、貼り紙
●街のあちこちに貼られている政治屋どものポスター
●やたらめったら設置され、目の前の風景フレームを分断するガードレール

 については、他の著書も含めてそれほど言及していません。
 このうち「政治家のポスター」と「ガードレール」はとりあえず省いておきますが、注意・道徳・スローガンを押しつけてくる看板、のぼり、垂れ幕、ポスターや貼り紙などについて、松原氏はあまり「見苦しい!」と気にしてはいないようなのです。
 どうしても、ここがもやもやしてしまう。

 注意・道徳・スローガンの看板の話がほとんど出てこない理由は、どうやら氏が社会経済学者で、景観の問題を論じるにもその観点から分析することに焦点を当てているからのようです。
 郊外の景観が均質化し汚らしくなるのは、人口分布の変化やフランチャイズ制というビジネスの手法が広がったから。(氏の出身地である)神戸の街が醜く変貌したのは、経済発展を何より優先する市の姿勢に問題があるから。真鶴町が制定した「美の基準」が機能しないのは、開発を進めたい不動産業者の反発や制度上の難しさがあるから。電線を地中化できないのは、コストを理由に国や地方自治体、電力会社が工夫を怠っているから。
 まあ、乱暴にまとめればそんな分析が主となっています。もちろん、もやもやすると言いつつも、これらの指摘は頷けるものばかりですが。

 ところで、ひとまず「もやもや」は置いといて、松原氏が指すような(もちろん私も同様に思う、そして多くの人は何も感じていない)「日常の生活圏における景観の荒廃」とは、具体的にどのような風景のことなのか。
 数カ月前、仕事でJR横浜線中山駅に降りたとき、「きったねえええええ!」とのけぞって思わず撮影した駅前商店街の写真があります。

JR横浜線中山駅南口商店街.jpg

 この景観がどれほど醜いか(醜いと思いませんかねえ?)──という話から、こんなブログを読む人なんかいないだろうなと思いつつ、次回に続きます。

カテゴリ:景観
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Author:H・K
市民グループ「静かな街を考える会」会員H・Kのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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