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騒音学者が褒め称える「感動ストーリー」への疑問
 以前、このブログで批判したことがある某大学の「騒音学者」様(以下・A教授)が、最近、自身のブログで次のような「物語」を褒め称えています。

──────

 隣家のおじいさまが亡くなった。話したことはなかったが、1通の手紙が縁で、ずっと素敵な方だと思っていた。

 子どもが2歳と4歳だった8年前、周りには子どもがいない静かな環境。私は「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育てをしていた。ある日、切手の無い手紙が1通届いた。それには「隣に住むおじいさんです。子どもさんの声が聞こえることがとてもうれしいです。私は耳が遠いのでぜひもっと気になさらずに大きな声で遊んでください」と書かれていた。

 私は涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった。それからは怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生きてこられた。隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした。ありがとう。

──────

 これは、朝日新聞に掲載された読者投稿だそうです。

 A教授がこの文章のどこに感銘を受けたのか、いまひとつよくわからないのですが、日頃の主張──騒音問題はコミュニケーションで解決できるのだ! 人と人とのつながりがあれば騒音は騒音でなくなるのだ! など──から考えると、次のようになるでしょう。

 ──この投書の主(おそらく主婦)は、近隣紛争の火種になりかねない「子供の声」に、神経質なほど気を使っていた。しかし、その悩みを解決したのは「耳の遠い隣家のおじいさま」からの、「気兼ねせず大きな声を出してほしい」という温かい手紙だった。この1通の手紙というコミュニケーションがあったから、子供が大声で遊べるようになり、しかも「騒音」にならずに済んだのだ。やはり、人と人とのコミュニケーションがあれば、世の中から騒音はなくなるのだ。コミュニケーション万歳!──

 しかし、この投書の出来事は、本当に「すばらしいコミュニケーション」と呼べるものなんでしょうか。私にはむしろ、ここから「コミュニケーション不全」と「想像力の不足」という二つの問題が見えてくるのですが。以下、少し考えてみたいと思います。

コミュニケーション不全

 この主婦は、「ある日届いた、隣に住む耳の遠いおじいさんからの手紙」に感激し、〈おじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした〉とまで言っています。しかし、不思議なことが一つあります。〈涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった〉と咽び泣くほどの手紙をもらっておいて、なぜ、主婦はおじいさん本人に一度も会わなかったのでしょうか?

 100kmも離れた場所に住んでいるペンフレンド(!)との文通ならともかく、隣に住んでいる者同士なら、手紙をもらった後で「温かい手紙をありがとう!」と、直接、おじいさんを訪ねて言葉を交わせばいいじゃないか。しかし〈話したことはなかった〉という表現から判断すると、この主婦が手紙をもらっておじいさんが亡くなるまでの8年間、二人は一度も顔を会わさなかったようです(そもそも、どちらかがこの地に引っ越してきたときに挨拶すらしていない!)。

 手紙を書くほどなのだから、このおじいさんに「とても人と顔を合わせることができない事情」(じつは指名手配されている、極秘任務を遂行中のスパイである、正体が狐であるなど)があったとは思えません。ならば、ほんの数歩歩いて隣家を訪ね「お手紙ありがとう!」と交流を図ればいい。なのに、この主婦は(そして、おじいさんも互いに)そのような行動はとっていないようです。
 それでいて〈隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした〉と大げさなほど感動するというのは、ちょっと「コミュニケーションの捉え方」がおかしいのではないでしょうか。

 この投書は「あー、典型的な新聞の読者投稿っすね」と言いたくなる「感動のストーリー」です。しかし、上っ面の表現に騙されず少し考えを巡らせてみれば、いくつもの理解し難い点が見えてきます。
 隣家から「温かい手紙」をもらったのに、互いに顔を合わせることすらなかった──という空虚なストーリーから浮かび上がるのは、「コミュニケーションのすばらしさ」ではなく、「この両者はなぜ、本当のコミュニケーションを成立させようとしなかったのか。コミュニケーションの意味を理解していないのではないか」という疑問ではないでしょうか。

想像力の不足

 さて、この主婦はおじいさんからの手紙をきっかけに、〈周りには子どもがいない静かな環境〉にもかかわらず、〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生き〉る方向に舵を切ったようです。
 しかし、たった一人の(しかも耳の遠い)おじいさんが〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったからといって、それがなぜ「周囲の住民すべてが『子供が大声で遊ぶこと』を認めた」という解釈になるのか。
 私には、ここがわからない。

 〈周りには子どもがいない静かな環境〉というからには、この投書の主が住んでいるのは、いわゆる「一般的な住宅地」だろうと想像できます。「周囲数十mに、この主婦とおじいさんの家しかない」というような場所であるとは考えにくいです。
 ならば、「たった一人の耳の遠い隣家のおじいさん」が〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったとしても、そのせいで他の住民にとって耐えがたい騒音が発生した可能性は十分にあるでしょう。

 もちろん、これはあくまでも可能性であり、「本当に周囲の住民の誰一人、この主婦と子供たちの大声に困ることはなかった」という可能性もあります。それならそれで結構なことです。この主婦が〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと〉という方針で子育てをしたからといって、それが現実的にどの程度の「大きな声でのびのびと」だったかは判断のしようがないのだから、結果として誰も困らなかったのであれば万事オッケーです。

 しかし、一般的な住宅地なら、家の中や庭先であまりにも〈のびのびと〉し過ぎた場合、周囲に「あの家は親も子供たちも、とても耐えがたい大声ばかり発している。うるさくてたまらない」と感じる住民が出た(そして、それに黙って耐えていた)「可能性」だって十分にあり得るでしょう。
 たった一人の「耳の遠いおじいさん」からの手紙で、そうした「辛い思いをしている人がいる可能性」を頭の中から完全に吹き飛ばしてしまうこの主婦は(そして、このようなストーリーに安易に感動してしまう人たちは)、想像力があまりにも不足していると言えるのではないでしょうか。

 もちろん、ここで疑問を呈したことはすべて「可能性」の問題であり、事実がどうだったかはわかりません。子供を育てるのに〈「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育て〉をしていたこの主婦が、一転して〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと〉と態度を変えたといっても、どの程度〈気を使って〉いたレベルから、どの程度の〈大きな声でのびのびと〉への移行だったかは、読み手に判断のしようがないからです。

 しかし、「騒音問題はコミュニケーションで解決する! 大切なのは絆だ! つながりだ!」と呪文のように唱えるのが大好きな人たちは、すぐにこの投書のような情緒たっぷりのストーリーを持ち上げて、「だから、子供の声をうるさいと言うのはおかしいんだ!」と一般化しがちです。
 「たった一人の耳の遠い隣家のおじいさん」が〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったことを一般化するのなら、「たった一人の住民が、『ちょっとうるさ過ぎますよ。勘弁してくださいよ』」と言った(そういうケースは私自身も含め世の中にいくらでもある)ことも一般化しなければおかしいはずなのに、「涙を誘うええ話」に夢中になる人たちが、そのように考えることはまずありません。

 騒音問題の解決に、コミュニケーションが重要な役割を果たすのは当然です。けれど、今回の投書のような「一杯のかけそば」的お涙頂戴ストーリーを元手に近隣騒音を語ることに、いったいどんな意味があるのでしょうか。
 私はこの投書のようなストーリーを、まるで「宗教か!」というほどうやうやしく祭り上げる行為こそ、子供の声を含む近隣騒音やスピーカー騒音問題を解決することの難しさを露わにしていると思いますね。
 もっとも、A教授はまったくそうは考えていないようですが。

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カテゴリ:子供・学校・保育園
今はなんとか小康状態を保っている「子供の騒音」
 本当は「景観」の話の続きを書くつもりだったのですが、かなり面倒臭いので一度休み、「子供の騒音」について記録中心のエントリーを書いておきます。

 このブログでは、しばらく子供の騒音について何も書いていませんでしたが、これは私の家の周囲では状況が小康状態を保っているから。理由はただそれだけです。

 いわゆる「道路族」については、確か前にも書いたとおり、うちの目の前の道路で叫び狂っていた子供の集団は、いつの間にか現れなくなりました。別に私が対策を講じたからというわけではなく、子供たちの年齢が上がり、毎日同じ道路で遊ぶのに飽きたから現れなくなっただけでしょう。
 キーキー奇声を発しながらバドミントンを始めた小学生女児の集団が出現したとき、すぐ「ここは車も通る道なんだから、バドミントンをしてはいけない。公園に行きなさい」と注意するなど、やってきたことの効果が多少はあったような気もしますが。

 うちのすぐ横にある児童公園からは、毎日、夕方になると幼児から中学生までの子供の絶叫が響きますが、これも少し落ち着いたような感じです。こちらも特に理由があるわけでなく、たまたまそうなっただけですね。
 以前、中学生の集団が本格的なサッカーをしていた時期は、野太い雄叫びやボールを蹴るときの「ダン! ダン!」という低音の響きに頭を抱えたものですが、今のところは幼児が走り回ったり、小学生がボールを投げて遊んだりしているのが中心。
 もちろん「ただブランコを漕いでいるだけなのに、なんでそんなに」と言いたくなるような、喉も裂けよという奇声は張り上げます。それでも声量が大きい中学生の集団よりましだし、そもそも公園がすぐ横にあることを知っていて住み始めた家なので、あまりにもひどい状況でなければ、ある程度は我慢するのが筋だろうと考えているので何も言いません。

 うちから70mほど離れたところにある保育園の騒音は、あいかわらずと言えばあいかわらず。どんなふうにあいかわらずかは以前のエントリーの繰り返しになるので書きませんが、今年は秋の運動会の練習でも大音量の音楽は聞こえてこなかったし、今のところ何かを言うべき状況ではないので黙っています。
 本当は、週に2日ぐらいやって来る男の保育士の絶叫がなければもっといいのですが。
 この保育士は園庭で、「ほーら、ボールがあっち行ったぞ、わーはっはっはっはっ、わーっはっはっはっはっはっ!」、「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ、うほほほほほー、ぬぅおおおおおおおーーーー!」などと、口から内臓が飛び出るんじゃないかというような絶叫を常に上げ続けています。
 数十人いる園児たちのはしゃぐ声より、この保育士一人の絶叫のほうが、はるかにやかましいのだからたまりません。
 別に保育園で子供たちを「黙らせる」必要なんかないけれど、子供を「煽る」必要はもっとないはずです。こういう保育士を見ていると、つくづく「子供の騒音というのは子供自身の問題じゃない。子供を教育する大人の問題なんだ」と感じます。

 保育園の騒音については、今年、東京都が環境確保条例の規制から外してまで「子供の騒音問題なんてないことにする」という、いかにも役人の考えそうな「ごまかし」に乗り出しました。
 この条例「改悪」を前に、都は都民からの意見を募集しましたが、その結果は「『子供の声等に関する規制の見直し』に関する意見募集の結果について」というページにまとめられています。
 もともと、役所の「皆様からのご意見をお聞きします」というのは、ただのアリバイ作り。最初から条例を改悪するつもりなのは見え見えでした。それでも私は意見を送ったし(もちろん反対意見)、それはまとめられた資料の中にも含まれています。

 この条例が改悪される前後、つまり去年の後半から今年の前半あたりは、新聞や週刊誌に「子供の声は騒音か」という記事がよく出ていたようです。
 雑誌についてはいちいち読まないので(読んでも不愉快になるだけだし)、どんな記事が出ていたのかよくわかりませんが、新聞(朝日新聞)を読む限り「子供の声だって、程度と環境によっては騒音になる」という当たり前の論調を見たことは、たった一度しかありません。
 それが、以下で紹介する北海道大学工学研究院教授・松井利仁氏の寄稿(5月13日朝刊)です。

──────

(私の視点)子どもの声 特別視せず騒音規制対象に 松井利仁

 東京都は3月、環境確保条例を改定し、保育所などから上がる小学校就学前の子どもの声を、「音の大きさ」に基づく数値規制の対象から外した。

 背景には、子どもの声が騒音基準の数値を上回り、被害を訴える住民が法廷で争うようになったことがある。都議会では、条例の数値規制が「新たな保育所開設の障害になっている」「子どもの健全な育成を妨げる」といった意見が述べられ、報道でも「子どもの声を騒音とするのはおかしい」といった声が多く見受けられた。

 しかし、保育所周辺で生じている騒音被害は広く認識されているだろうか。保育所の設計・運用によっては、隣接する住居で毎日長時間、テレビの聴取や会話もままならない生活環境となり得る。実際にそこで暮らしてみないと被害は分からない。被害を経験していれば、「子どもの声を騒音とするのはおかしい」とは言えないだろう。

 都条例の数値規制はどういうものか。通常、環境騒音の規制値は、昼間の聴取妨害、夜間の睡眠妨害を防ぐことを主な目的とし、科学的根拠に基づいて定められている。重要なのは、自動車の走行音でも子どもの声でも聴取妨害や睡眠妨害は生じるという当たり前の科学的知見だ。

 都は今後、住民の「受忍限度」を超えるほどなら事業者に勧告や命令を出すという。しかし科学的根拠を欠いた条例で、保育所開設の際の十分な住民への説明や、適切な設計を行わない事業者への指導ができるのか。子どもの声を特別視した条例改定は、「子どもの声は受忍すべき特別な音」との誤ったメッセージを与えるのではないか。

 最も危惧するのは、「子どもの健全な成長」という美辞によって少数の被害者が「受忍」を強いられ、声も上げられなくなる事態だ。かつて「経済の健全な発展との調和」との美辞を伴う環境政策で多くの被害者が生まれ、今も大気汚染や騒音被害が生じている。

 行政には少数派であり弱者であるこのような被害者を保護する義務があり、そのために科学的根拠に基づいた各種規制値が定められている。数値規制は、行政の指導に従わない事業者に対する切り札として残しておくべきではなかったか。

(まついとしひと 北海道大学工学研究院教授〈環境衛生学〉)

(私の視点)子どもの声 特別視せず騒音規制対象に.jpg

──────

 これと正反対なのが、同じ朝日新聞1月17日朝刊の紙面に載った、梅田聡(心理学者)・宇野常寛(評論家)・斎藤慈子(行動生物学者)という、とんちんかんな連中による「(耕論)子どもの声は騒音か」です(不快なので転載はしません。リンクと画像を貼るのみ)。

(耕論)子どもの声は騒音か.jpg

 神戸市の保育園騒音訴訟に関わっているツンデレ弁護士もブログで書いているとおり、これはちょっとひどすぎますね。「共感する心が大切だ!」と言っておきながら、自分たちは騒音に苦しんでいる人たちへの共感ができないこの手の連中の頭の中は、いったい何がどうなっているのかじつに不思議です。
 そもそもこのページでは、「耕論」と言うわりに3人が3人とも「子供の声が騒音なわけねえだろ」、「子供がうるさいなんて言う奴は我慢が足りないんだ」などと決めつけています。一人くらい「子供の声が騒音になる場合もあり得る」という意見の人間を入れなければ、「論を耕す」とは言えないはずなのですが、いったい新聞の「バランス感覚」とやらはどこへ行ってしまったのでしょう。

 特に宇野常寛というひょーろんか様は、「子供の声がうるさいという奴は原発に反対しない奴」などと意味不明な方向に話を広げるだけで、最後は自分でも何を言っているのかわかっていないんじゃないでしょうか。「今日はこのお題でひとつ」と言われ、その場で思いついたことを適当にしゃべるだけのいいかげんな商売は、やめてほしいですね。もっと自らが苦しんで苦しんで、考え抜いたことだけ発言しろ。
 私は「あ、これは読まなきゃ」という本を忘れないようリストにしているのですが、この記事を読んで、何冊か含まれていた宇野常寛の本はすべて外しました。

 最後に。これはネタとして読んでもらえればいいのですが、私の家の前の道路で毎日毎日何時間も叫び狂っていた「道路族」の母親が、こんなTシャツを着ているのを見たことがあります。書いてある文字をネットで検索したら商品画像を見つけました。

もう知らにゃい。Tシャツ.jpg

 さもありなん、というところです。

カテゴリ:子供・学校・保育園
女性用化粧水を使ってよ~くわかったこと(笑)
 あらかじめお断りしておきますが、今回のエントリーの90%は、ただの与太話です。言いたいことは最後の数行だけなので、もし読む人がいたらそれを承知の上でお願いします。

 先日、うちの郵便受けにD●Cが試供品を入れていきました。中年のおっさんの一人暮らしの家に女性用化粧品を投げ込んでどうすんだ、と思いつつ、捨てるにしても分別しなきゃならないので袋を開けると、7種類くらいの商品が。

 そのうち2種類はメイク落としとか、明らかに「わしにゃ関係ないよ」というものなのですぐ捨てましたが、残りの5種類は洗顔後につける化粧水やジェル、クリームなど。私も一応、洗顔後に男性用化粧水を使うぐらいのことはしているので、この際、女性用の商品を試してみることにしました。別に害があるわけじゃなかろうし。

 どの化粧水やジェルも「美肌に欠かせないコラーゲンとヒアルロン酸をたっぷり配合!」とか、「うるおい成分が肌の奥深くまで浸透!」とか、期待を煽るキャッチフレーズが書いてあります。
 いざ使ってみると、どれも1回分の量がものすごく多く感じて、何分間、顔に塗り続けてもぬちゃぬちゃしている。「いつになったら浸透するんじゃ!」とイライラしました。

 ところが、「もういいだろう」と思って顔をこねくり回すのをやめ、しばらくすると、確かに肌がつるっつるに(笑)。触るともちもちして、いつもの自分の顔とはまったく違う肌触りになりました。しかも、翌日までそのぷるぷる感が続くのです。恐るべし本格的化粧水。

 テレビでうっかり通販番組を見てしまうと、「これで10歳若返りました!」とか、「人生が変わりましたね!」とか、「何を大げさなこと言ってんだ」と思うことばかりですが、いやあ、実際にこういうものを使ってみると、確かに「いつもと違う」ことが(文字通り)肌で実感できる。これはちょっとした驚きでした。

つるっつる.jpg
つるっつるやがな!

 私は別にD●Cのまわし者じゃないので、商品を宣伝するつもりでこんなことを書いているわけじゃありません。何が言いたいかというと、「世の中には、実際に体験しないとわからないことが山ほどある」という当たり前のことです。
 誰に向かって言いたいのかというと、「子供の声がうるさいわけないだろ!」と決めつけて善人ぶりたい人たちにです。もう御託はいいからさ、そういう人は進んで保育園や公園の隣、道路族が雄叫びを上げ続ける住宅地に住んでみたら? それをしないで、自分は一切傷つかない安全地帯から石を投げてたって、何も解決しないんだよね。
 「子供の騒音」については書きたいことがたんまりあるんですが、とりあえず今回はそれだけです。

 試供品で残念だったのは、「美白クリーム」を塗ったらバカ殿みたいになるのかなあ、とちょっとだけ楽しみにしていたのですが、別にいきなり顔が白くなるわけじゃなかったこと。あたりまえだ~ね(ただのバカ)。

カテゴリ:子供・学校・保育園
「子供騒音裁判」ただいま3件係争中?
 基本的に自分のためのメモ。

 神戸市の保育園騒音裁判で、原告(騒音被害者)の弁護人をされている蔭山文夫弁護士の「ツンデレblog」に、「同様の騒音訴訟はいくつかあるけど、すべて現在進行中なので判例はない」というようなことが書いてあったので、できる範囲で調べてみた。ネットで検索したのと「裁判所」のホームページで過去の判例を調べただけだが、確かにそのようだ。

 保育園の騒音裁判は、まず、この神戸市の訴訟が今年提訴され係争中。

 それより前、2012年に東京都練馬区でも同じ構図の裁判が始まり、これも現在係争中。2年も経っているのにまだ判決が出ないなんて、日本の裁判は本当にどうしようもないな。

 似たような事例では、東京都西東京市の「いこいの森公園」騒音問題がある。
 これは07年に公園の隣に住む女性が騒音差し止めの仮処分を申し立て、地裁で認められたので市が噴水など一部施設の使用を中止。しかし、女性が亡くなると差し止めが無効になり元通りの状況になってしまった――というところまでは知っていたけど、その後、女性の親族が再度仮処分を申し立て、話し合いが進まないものだから12年になって<本訴の準備を進めている>――という話は初耳だった。
 それ以後の経緯は検索しても見つからないけど、どうなったんだろう。去年の6月にこの公園の近くを通ったので様子を見たときは、それは凄まじい騒音だったけど。
 この公園は明らかに設計ミスと指摘している建築家のブログ。
 「西東京いこいの森公園」に行ってきた。
 「西東京いこいの森公園」について
 ミス以前の問題でした…。

 この三つの訴訟に揃って触れている産経新聞の記事。内容は「子供の声がうるさいなんて言う奴は異常者だ、社会から排除してやる!」と息巻いている偏ったものなので読む価値はないが。

子供の声は「騒音」か01.jpg

子供の声は「騒音」か02.jpg

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子供の声は「騒音」か04.jpg

子供の声は「騒音」か05.jpg

http://www.sankei.com/premium/news/141018/prm1410180003-n1.html

 西東京市の公園問題は、このタウン誌の記事に詳しいが続報は見当たらない。

いこいの森公園騒音記事.jpg

http://www.town-t.com/article.php?i=61

 どこのどんな人が書いているのか、プロフィールがないからわからないけど、子供の騒音について考察しているブログ「考え事」。参考になる。特に、
 「マスクをして遊ぶサイレントキッズ」は実在しない
 には驚いた。目的のためなら平気でデマゴギーに走る世田谷区長・保坂展人は、ちょっとヤバ過ぎる。

 明治大学で哲学を教えている清水真木教授のブログから、「静穏な環境で生活する権利」。ほかにも、
 「おもてなし」の嘘
 「言論」の再定義
 とか、読んで頷ける内容がいろいろ。

 それにしても、蔭山弁護士というのはぶっちゃけた人みたいで面白い。ブログにこんな画像を載せる弁護士って(笑)。

「がもる」メルモちゃん.jpg
「がもる」メルモちゃん

カテゴリ:子供・学校・保育園
住宅地でBBQはダメよ~ダメダメ!
 うちの前の道路を溜まり場にするクソガキども、つまり「道路族」のガキは、以前のエントリーで書きましたが道路で遊ぶのに飽きたらしく、数カ月前からパッタリと現れなくなりました。
 家のすぐ横にある児童公園には、夕方になると「キーキー! ウガーウガー!」と奇声を上げる小学生や中学生が入れ代わり立ち代わりやって来ますが、学校が夏休みの間はあまり現れません。ここまで暑いと外で遊ぶ気にならないのかもしれないし、学校が終わったらそのまま公園に直行! ともいかないのでやって来ないのでしょう。

 そんなわけで、去年もそうでしたがうちの場合、1年で学校の夏休み期間中が一番静かに過ごせます。
 夏特有の音、たとえば夏祭りとかその踊りの練習(7月に入ると週に2、3回は夜、近くの公民館からドンドンドンと音楽が響いてくる)というのはありますが、そのほかの「音」は総じて減ります。
 特に、学校が休みになるというのが大きい。

 うちから200m以上離れたところにある小学校からは、普段「みなさんおはようございます! 今日はなんちゃらかんちゃら~!」と、朝礼という名の演説でマイクを使い、大音量で叫ぶ教師の声が響いてきます。チャイムや校内放送の音も1日十数回聞かされます。
 これも以前のエントリーに書いたかもしれませんが、私は数年前、チャイムの音量があまりにも大きすぎるとその学校に電話をしたことがあります。電話に出た教頭は「私も、学校からかなり離れた場所を歩いていてもチャイムが聞こえるので、驚くことがあります」と答えました。「そう思うならなおさら、よく検討してください」と言って電話を切ったのですが、その後も変わる様子はありません。

 朝礼のマイクも「目の前に並んでいる子供が聞き取れればいいのだから、何百mも離れたところまで響くほど大音量で話す必要はないでしょう」と言い、「検討します」という返事をもらったのですが、その後もまったく変わりません。
 そもそも、まるで刑務所のように生徒を並ばせて朝礼をしたり、チャイムという音で行動を管理したりするのではなく、子供の自主性を伸ばすためにも「ノーチャイム」「ノー演説」に取り組んでみたらどうか……というところまで話してみようかと思っていたのですが、私はその学校のPTAでもないし、どうせ言っても無駄だろうとあきらめています。

 同じく200m以上離れたところにある中学校からも、毎日毎日チャイムの音が響いてくるし、校庭での朝礼はしていないようですが、その代わり夕方になると運動部員の咆哮やブラスバンドの音楽などが聞こえてきます。
 部活の音はともかく、チャイムの音量についてはやはり数年前に電話したことがあるのですが、「検討します」と言われたきり何も変わりません。

 どうせ夏休みが終われば、こうした「学校騒音」や、公園にやって来るガキの奇声・絶叫まみれの毎日に戻ってしまうのはわかっています。私は暑いのが苦手で夏が大嫌いなのですが、「音」についてだけなら永遠に夏が続いてくれないかと思ってしまいます。

 もう少し、最近の「子供」について続けます。

 うちの周囲には、3、4歳くらいの幼児や小学生の子供を、夜10時、11時といった遅い時間に風呂に入れる家庭が何軒もあります。
 風呂で子供がはしゃぐ声がうるさい、というつもりはありませんが、いくらなんでも時間が遅すぎる。子供なんてもっと早いうちに風呂に入れて、9時、10時には寝かせたほうがいいんじゃないか? と思うのですがどうなのでしょうか。
 もう深夜と言ってもいい時間に子供を風呂に入れる家庭は、明らかに年々増えています。

 夏の間は昼間、外に出ると暑いので、夜になってスーパーへ買い物に行くことが多いのですが、そこでも8時、9時という遅い時間に、幼児や小学生を連れ買い物に来ている客をよく見かけます。先日、9時過ぎに行ったスーパーでは、半分ぐらいが子供連れでさすがに驚きました。

 そんな時間まで子連れで買い物に来る親は、しつけもできていないので、ガキが奇声を発しながら走り回ったり、商品を床に落としたりしても平気でいる……なんて、一概に決めつけるつもりはありません。おとなしく買い物をしている家族も確かにいます。
 でも、やっぱり迷惑なことを平気でするガキや、それを注意しない親が多いのもまた事実。なんという商品なのか知りませんが、ローラーの付いた靴でスーパーの中を走り回ったり、おいかけっこやかくれんぼをしたり。
 この間、売り物の傘をバサバサ広げて遊んでいるガキがいましたが、親は一言も注意しません。「こっちに来なさい」と呼ばれたガキは傘を畳んだものの、そのまま床に放り出して駆けていきました。

 アイス売り場で「ジャイアントコーンのチョコナッツとクッキー&クリーム、どっちにしようか!」と真剣に悩んでいたら、横から小学校低学年のガキが突進してきて、私を押し退けるようにアイスを一つ、かっさらっていったこともあります。
 腹立つねえほんとに。ジャイアントコーンだけに、空手チョップか河津落としでKOしてやりたいわ!
 もちろん、その様子を近くで見ていた親から「すいません」の一言などありません。私はスーパーなどで「暴挙」を働くガキを見かけると、できるだけ「やめなさい」と注意することにしていますが、こういう瞬間的な出来事だとそれもできず、唖然としてしまうだけです。

 夜遅くに、子供連れでスーパーに来る親って、何が理由でそんなことをするんでしょうか。
 母親と父親のどちらかしかいなくて、子供だけで留守番させるわけにいかないから買い物に連れて行くんだ、というならわかりますし、そういう家庭も実際にあるのでしょうが、両親がそろっているなら母親か父親のどちらかが買い物に出て、どちらかは家で子供を寝かしつければいいじゃないか。そう思うのですが、やっぱり「うちはどこに行くにも一緒、仲がいい家族だもんねー」的なことをアピールしたいのか、ただ単に夜遅くまで出歩くことが習慣になっているのか。
 いかにも「ヤンキー」という若い親ばかりじゃありません。老人が幼稚園児ぐらいの孫を連れて深夜、買い物に来ているのを見たときは本当に驚きました。

 また、公園の話題に戻りますが、先日、うちの横にある児童公園で奇声を上げていたガキ(夏休みだからといって、まったく来ないわけでもない)が、おそらく弟に向かって「車戻ってるかどうか見てこいよー! 戻ってたらバーベキュー始まるからあ!」と怒鳴っていました。
 バ、バーベキュー……。
 推測すると、親が食材を買いに行っていて、戻り次第バーベキューが始まる。わざわざバーベキューが許可されている公園だの河川敷だのに行くとは思えない(そんな場所は近くにない)ので、どう考えても家の庭か路上でやるつもりなんでしょう。

 「うちの近くで、そんなことをされたらたまらん!」と思って窓を開け、様子をうかがっていると、「見てこい」と言われた弟は「おれがあ!?」などとブーブー言いながら、自転車で走り去っていきました。同じ町内なのは間違いないと思いますが、それほど近くの家ではないようです。
 でも、これから町内のどこかでもうもうと煙をあげ、どんちゃん騒ぎをしながらバーベキューが始まるんだなあ、と想像すると、それだけで気分が悪くなります。
 テキサスの広大な牧場主の家とか、コロンビアの麻薬王の大庭園付き豪邸でもあるまいし、狭苦しい日本の住宅地で煙と騒音を撒き散らしながらバーベキューなんかやって、何が楽しいのかねほんとに。

 住宅地でバーベキューはダメよ~ダメダメ!(最近のギャグはこれしか知らない)

カテゴリ:子供・学校・保育園
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■プロフィール

Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

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