ナンセンスも度を越している「幼稚園国家」
 FC2ブログは1カ月間放置していると、画面がバカでかい広告で塞がれてしまうようなので、それを避けるエントリーを書いておきます。
 公私ともにバタバタしているため、しばらくは更新が途絶えがちになるでしょう。でも、ブログをやめたわけじゃありません。ポツポツとでも書き続けていきますので。I will be T-back.

 で終わらせようと思ったけど、それではやはりあんまりなので、また、人様のスピーカー騒音に関する文章を紹介しておきます。東洋文化研究家、アレックス・カー氏の著書『犬と鬼』(2002年)から。

 本書は、主にこの国の醜く爛れきった景観の問題について書かれたもので、スピーカー騒音についてはそれほど多くを割いていません。しかし、景観にしろ音の問題にしろ、その原因は同じ根っこでつながっています。
 『犬と鬼』というなんのことやらよくわからない書名は、そうした日本人の病理を表している言葉。読み進めるうちに「なるほどなあ、そうだよなあ」と思えるようになるはず……なのですが、まあ、どうせならない人が99.9%でしょうね。それこそが、この国の病が重篤であることを示しているわけですが。

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ありがとうございます、ごめんなさい、危険です!

 拡声器が発する命令に従うよう訓練されて、現代の日本人は公共放送中毒にかかっている。ホテルのロビーでも、デパートでも、駅でも、エンドレステープのアナウンスがわめき続ける──忘れ物をするな、切符を出せ、通路は右側を歩け。

 日本は深刻な騒音公害に蝕まれている。エスカレーターには拡声器が取り付けられていて、テープの声がああしろこうしろと、四歳児にでも言って聞かせるようなことを指図する。駅では、「エスカレーターではベルトにおつかまりになり、黄色い線の内側にお立ちください。お子様をお連れの方は、手をつないで中央にお立ちください。ブーツやかかとの細い靴を履いている方は、溝にはさまれないようお気をつけください。手や頭をベルトの外に出すと危険です」と言われる。

 学校教育で重視されるのは挨拶である。言うまでもなく「挨拶」はこの国の魅力的な一面だ。その半面、録音された挨拶や指示の中毒になるあまり、人々はそれがないと寂しく感じるほどになっている。来店を感謝したり、さまざまな情報を伝えたり、迷惑や不便を詫びたり、あるいは命令や警告を伝える言葉から逃れる場所はどこにもない。そのうえに、ブザー、チャイム、ベルのピンポン伴奏が入るのである。

 最もよく耳にするのは、「危険」と「危ない」の二語だ。日常生活は危険に満ち満ちているかのようだ──規則に従っていないと。バスや電車や地下鉄に乗れば果てしない「キケン」の連続で、「お忘れ物のないように」「電車が来ますので後ろにお下がりください」「駆け込み乗車はやめましょう」「ドアに指をはさまれないようご注意ください」「列にお並びください」などの指示がついてまわる。だが騒音はこれだけでは終わらない。国立公園にも京都の石庭にも、スキー場にも大学のキャンパスにも、寺社にも、音響効果つきの録音されたアナウンスが響きわたる。鳥のさえずりと電子音のチャイムがひっきりなしに流れ、甲高い女性の声が、ここは名高い景勝地であるとか、危険だ、迷惑をかけて申し訳ない、としゃべりまくっている。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と芭蕉は詠んだが、今では芭蕉の岩にしみ入るのは、警察がチャーターしたセスナ機から降ってくるアナウンス──「シートベルトを締めましょう。歩行者は左右をよく見て、横断歩道をわたりましょう。こちらは○○警察署です」。『静かさとはなにか』の著者のひとり福田喜一郎は、この種の放送に税金を使う公共機関は、「公共サービス」のなんたるかがわかっていないのだと指摘する。真の公共サービスはどうすればよいかわかっていない官僚は、アナウンスをするぐらいしか思いつかないのだ。福田は、「さしずめ、交通安全協会あたりが、活動しているぞというアリバイ工作のためにでも仕組んだ茶番劇であるのだろう」と書いている。

幼児化

 しかし、アナウンスの送り手についてはこれでわかるとしても、受け取る側の人々がこんな指示や警告を受容し、それどころか求めるのはなぜなのかということだ。アナウンス文化のおしつけがましさについて、福田は次のように書いている。

「日本における管理社会化は極端に私的領域にまで介入していると言えるであろう。もちろん管理化というのは、管理したい人たちがいるだけでは成立しない。それと同時に管理されたいマジョリティが必要条件である。これは社会学で言われている『自発的服従』ということと同質の構造をもつ。つまり管理化は自ら管理されたい人たちが競って実現しているのである。それは高校生や大学生になっても教師に注意してもらいたい生徒や学生が絶えないという事態に結びつく。日本の大学生は、権利と義務を担った大人ではなく、自他ともに『子ども』と称されている」

 キーワードは「子供」である。アナウンスの最大の特徴は、その徹底した子供っぽさである。福田はこう指摘する。「そもそも、あのエスカレーターのそばに流れる『手すりにつかまって』も、駅員の『乗り降り続いて』も、『手回り品に気をつけて』も、どれもこれもが幼稚園向きでありながら、これがれっきとした大人に向けて流されているのだから驚くべき状況であるわけだ」。「幼稚園国家」に見られるナンセンスは度を越していて、とうてい信じられないところまで達している。伊丹市のバスでは、乗客に石鹸を使いましょうとアナウンスしている。葉山の海岸では、「遠くから来られた方はゆっくり休んでから海に入りましょう! 溺れそうになったときは大声で助けを求めましょう!」と注意してくれる。

 かいつまんで言えば、戦後日本の教育システムは、日本の次世代を幼児化しようとしている。どこに行っても「危険!」と「危ない!」の警告が鳴り響いていることは、心理学的な研究が必要だと思わせる。

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
日曜日もスピーカー騒音まみれで一日が終わる
 人様のスピーカー騒音についての文章を三つ紹介します。
 まず、音楽評論家・吉田秀和氏のエッセイ集『音楽の光と翳』(1980年)から。

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魔法の乗物

 一体に、私たち日本人は、ふだんはあんまり歌をもっていないくせに、音楽の効用によりかかるのは大好きだ。映画やテレビのドラマをみても、何かというと音楽が出る。女性が一人海辺に立っていると、音楽。流れに花びらが散りかかると、音楽。街に雨が降ると、音楽。男が歩き出しても、女が立ちどまっても──風が吹いても、ライオンが欠伸しても──音楽が鳴り出す。要するに、画面に何が映し出されようと、その視覚像に注意を集中し、それについて感じさせ、考えさせようというより、何とかして画像のまわりのもの、いわば絵画での余白に当るものに托した一つの気分、いわく言いがたい気分に、みるものをひき入れ、それにひたらせることが、何よりも好きらしい。画面より余白に何かを書き入れたり、認識より情緒にひたることをたっとぶ習慣が、この国では圧倒的に有力なのだ。

 私は、それが、いくら何でも多すぎ、強すぎるように思う。

 しかし、それは、私が、音楽に対し、今目の前にない何かを思い出させたり、連想させたりする上でのすごい力、魔力といってもよいような力強さが具っていることを認めないからではない。いや、その力を信じていればこそ、私は、それがやたら安売りされるのを見るに忍びないのだ。そうでなくとも、とかく甘ったるくなりがちの日本の映画やテレビドラマに、まるでアンコの上塗りみたいに、音楽をべたべた塗りつけてほしくないのである。

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お正月の音

 私の住んでるのは海辺の小さな古い街で、別に空港が近くにあるわけでもない。それでも暁方早く、航空機の不気味な唸りで眠りからひき離されることが少なくない。この音は日中もよくきこえることがある。それに大空から降ってくるこの種の音で、私の神経を特にいらいらさせるのは、ヘリコプターの低空を飛ぶ音である。どうやら、この街の役所はヘリコプターを使うのが特別に好きらしく、ここではヘリコプターは単にモーターの音をふりまくだけでなく、若い女性の声を私たちの頭上から降らせるのである。何といっているかはっきりきこえたためしはないのだが、たまにその一部がわかることもある。すると、その声は「道路の横断には信号を良くみるように」とか「外出には、戸じまりに気をつけるように」とかいっているようなのだ。しかしそれは誰でも知ってることだし、これ以上当り前のことはない。それでもうっかりする場合があるのは、私自身をふりかえってみても、事実だが、そういう点は、ヘリコプターからききとりにくい声で警告されて直るというものではなかろう。《中略》

 私が本当にひどいと思うのは、商店の広告とか、催しごとの宣伝に使われる場合で、今日どこどこで安売りがありますとか講演会がありますとかいった話を空からまきちらすのは、公安を害する行為の最たるものではなかろうか? 私たちには防ぎようがないのだから、愚劣というより邪悪な利己行為以外の何物でもない。これに比べれば、暴走族のあの無茶な行為の如きは、迷惑の点では同じでも、まだ恕すべき点がある。

 これとは逆に、なまの人間の声という形での街の音は、本当にへってしまった。金魚売り、棹竹売りといったもの売りの声は、全くといってもよいほどきこえなくなった。この種の音では、例のチリ紙交換の奇妙な猫撫で声があるが、これはテープをまわし、マイクで拡大した音であって、人間の自然の声の中には入れられない。

………………

騒音主義者

 私の家では夏になると、たくさんの蝉が集って鳴き続ける。《中略》ある時も、訪問客が、部屋に坐るなり、「いや、これは大変な蝉ですな」と言ったので、気がついてみると、なるほどすごい鳴き声である。《中略》

 だが、私は、蝉の声が好きらしい。大変なものだとは思うけれど、うるさいからいやだとか、何かをするのに気が散るので困るとか、考えたことがない。私の苦手なのは、こういう自然の音ではなくて、人工の音、というか、要するに人間の作り出す音の方が多い。自動車の音とか、ヘリコプターの音とか、こういうのは、いくら長年きいてきても、慣れるということがなく、いつもうるさいと思う。それから、あたり一面に拡がるラジオやどこからともなくきこえてくるテレビの音。

 今年の夏、知人に招かれて、蓼科の彼の山荘にいった時、知人は、彼の車で近くの霧ヶ峰の高原に案内してくれた。《中略》私たちの自動車から降りたあたりでは、黄色の、ちょっと百合みたいな花が一面に咲き乱れていて、名物になっているのだそうだが、その花の咲く高原について、自動車から一歩出ると、途端に、大きな音楽の音がきこえてくる。あたりの休憩所、レストランからも拡声器を通じてまきちらされる上に、高原いっぱいに、それこそ花の数にも負けないほど大勢出てきている人の群れ、また群れの中にも、携帯ラジオのヴォリュームをいっぱいにあげて鳴らしながらゆく人が、一人ならず何人も、いるのである。

 日本の人は、いつから、こんなに音を大きく出さずにはいられなくなったのだろうか?《中略》私の知人は「天下の絶景だ」なんて御機嫌だったけれど、私はとまどっていた。いずれにせよ、私の耳には蝉の声の嵐に全身を打たれるのは少しも苦にならないように、知人の目には、この常軌を逸した騒音音楽は、景色をみる上で全然邪魔にならないのだ。

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 ああ、こうしている間にも、どこかの車がスピーカーから、何事かを大音響で喚き散らしながら走って行きました。たぶん、警察の広報車が振り込め詐欺うんぬんと叫んでいたのでしょう。
 不特定多数に向けた「振り込め詐欺に気をつけましょう!」の大声に、「はい、わかりました!」と素直にうなずく人間ほど、「息子さんが大変ですよ。お金を振り込んでください!」と言われて「はい、わかりました!」と騙されるものだと思うんだけどなあ。

 次に、同志社大学教授(社会学)・山本明氏のエッセイ集『風俗の論理』(1979年)から。

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日本の雑然文化

 《註:日本の》雑然趣味は、それを「設置」する人にとっては、自己を満足させるとともに、他人に対するサービスのつもりである。「よかれ」と考えてやっていることだ。この「よかれ」がやっかいなのは、それを不愉快とか迷惑だと考える人がいないという確信に支えられているからである。

 たとえば、喫茶店のレコード。これがやかましい。本式のBGMは特別につくられた音源で、音量が一定していて、聞こえるか聞こえないか程度の静かな音だが、喫茶店のレコードはたいていの場合、会話の邪魔になるほどの音量で鳴っている。瀬戸内海の連絡船に乗ると、客室にテレビが置いてあって、大きな音で鳴っている。船は内海の島々をぬって走り、乗客はその景色に見とれているが、テレビでは「愛してます。あなたとならどこまでも参ります」と、よろめきドラマのせりふをわめきたてている。観光地では、売店がスピーカーで歌謡曲のレコードを一町四方に聞こえる大音量でかけているし、観光船や観光バスでも説明のあいまに、歌謡曲のテープを聞かせる。交差点では、歩行者用信号が青になるとブザーで童謡が鳴る。盲人用だが、なぜメロディーが必要なのか。妙なテンポのブザーで「通りゃんせ、通りゃんせ」や「靴が鳴る」「赤とんぼ」などを聞くのは、ぼくには耐えがたい。京都の通勤用バスでは、終点に近づくとオルゴールの「祇園小唄」を演奏するし、新幹線では「鉄道唱歌」第一節のメロディーを鳴らす。

 つまり、ぼくたちのまわりには、音楽という名の雑音が満ちている。しかし、これの「送り手」は、「よかれ」と思っているのだから仕末が悪い。

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 《註:日本の雑然文化には》都会文化と田舎文化とが混存している。京都のバーの中には、壁面に桜の造花がぶらさがり、電球は青、有線放送でいつも演歌を流し、ホステスはどういうわけか長いドレスを着て、話題はもっぱら森進一と美空ひばりというところがある。こういうのは、人口三〇〇〇人くらいの田舎町にぴったりだと思うのだが、これが京都のどまんなかにある。かと思うと田舎町に「これで客が来るのだろうか」と心配するような、しょうしゃなレストランがひっそりと立っている。もちろん、それだけならなんということはないかもしれないが、そのレストランのそばに、店内は昼なお暗いソバ屋があるし、前述の桜の造花のバーの隣には、超デラックスなサロンがあるのだから面白い。

 都会とは、ぼくの理解では、「隣は何をする人ぞ」でよろしい場所で、また一五〇円のカレーライスもあれば、三万円のステーキの店もあり、どちらを選ぼうが個人の自由というところだと思うのだが、意外に町内会があって、朝のラジオ体操だ、地蔵盆の寄付だとうるさく共同体意識の高揚を図る人がおり、他方、田舎では共同体意識が崩れつつある。

………………

 この文章を、ぼくは、琵琶湖畔の国民宿舎で書いている。右隣の部屋から、テレビの大きな音が聞こえ、左隣からは、子供連れの夫婦が「靴が鳴る」をうたっている。戸口はふすまでカギがないから、女中さんが勝手に入ってくる。こういう環境では、とうてい西欧的自我など生まれっこなさそうである。

………………

 《註:日本の》雑然文化は、二つの異なる文化が渾然一体となるという面白さがある。その一体化のプロセスを推し進めるのは若者だ。いや、若者と子供だ。

 日本では、子供が大人社会の中に割りこんでいる。いや、大人は子供に振りまわされている。

 《中略》子供は何をしても許されるべきだという風潮が日本では強い。早い話、夏休み中の新幹線に乗ってみたまえ。特にグリーン車。ここでは、通路を子供が大声でわめきながら走る。自動ドアを開けたり閉めたりして遊ぶ。大声で兄弟げんかをして、一方が負けると泣きわめく。あまりうるさいので親のほうをグッとにらむと、「オジサンに叱られるわよ」。それだけである。この言葉には、「あなたも大人気ない。子供が騒いでいるんですよ。しかたがないでしょ」という意味が含まれている。だから、子供は相も変わらず、走り、叫び続ける。

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 そうしているうちに今度は、たった1台の救急車が大音響のサイレン3種類「ピーポーピーポーピーポーピーポー」「ウーーウウウウーウーーウウーウーウー」「プゥゥゥゥゥーゥ、プゥゥゥゥゥーゥ、プゥゥゥゥゥーゥ」プラス「はい救急車通ります道を空けてください!」の絶叫連呼で通過。車がみんな道の端に除け、交差点を渡ろうとしている歩行者など一人もいなくても「はい救急車通ります道を空けてください!」
 そんなに叫ぶのが好きなら、プロレスのリングアナウンサーにでもなったほうがいいと思うんですけどね。「言われなくても除けてるじゃないか!」と怒りもしないこの国の大多数の人間も、どうかしているし。

 最後は、ジャズ評論家・久保田二郎氏のエッセイ集『手のうちはいつもフルハウス』(1979年)から。

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 信号が変って青になる《中略》……とにかく青になると、どこからともなく、実になんともいえない不快な音響が鳴りわたってくるのだ。一応それらは音程らしきものをそなえていて、音の配列から言うと古い童歌「通りゃんせ」のように聞える。

 一体なんであの音を発しておるのか。とにかくその音たるや、もう言語道断、人をしてこのくらい不快感を感じさせるという音響はまずないだろう。どこか山奥の荒れはてた洞穴の奥深いところで、ビール瓶を口にあてて発したような、まことにおぞましい、マガマガしい、醜悪極まりない、魔界の悪魔どもも、地獄の赤鬼、青鬼どもも、ともに嘔吐感をもよおすほどの不快音である。

 その不快音による「通りゃんせ、通りゃんせ」が鳴りわたると、全員それにつられて、まるでホメルンの笛につられてゆく鼠のごとく、イソイソと横断してゆくそのアホ面まで腹が立つわい。

 《中略》いや、それにしてもあの横断歩道のあの音はたまらぬ。よーし、というので、この僕はかたわらに丁度幸いあった薬局店にとびこんで、はやその勢いのすさまじさに、なにごとならんと身構える女店員に叫んだのだ。

 “タ・タ・タンポン”
 “え、え? なんですって”
 “タ・タ・タンポン、長崎タンポン……いや違った、それ、ほれ、あの例の、女性の……”
 “あ、はいはい、解りました、これですね”

 とようやく我をとりもどした様子のその女店員の、これだけはワタシ達の領分よ、といわんばかりの変に自信と慈愛に満ちた微笑とともに差し出された、これぞ噂には聞くが現物見るは初めてという変にメルヘンふうの小箱を引ったくるやいなや、その場でバリバリ、ゴソゴソ、ポンと引き出し、それを左右の我が耳の穴に一つ、二つ、ええい、これでも間に合わぬかと、ただただ驚く女店員のゆれるまなざしにたじろぐこともなく、三つ四つと詰めこんだのでありました。

 あれね、初めて知ったけどリプトン、またはブルックボンドのティーバッグについてるようなヒモがついてるのね。そのヒモ先を四、五本ずつ左右の耳の穴からたらしつつ、ヒラヒラとたなびかせつつ、僕は再び例の横断歩道へともどったのであります。そして、おお、今度こそあのおぞましい「ホラ穴サウンド」の「通りゃんせ」は聞こえないぞと、一人涙しつつ意味もなく、わけもなく、そして勿論必要もなく、二度三度と足どり軽く横断歩道を行きつもどりつしたのであります。

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 もうじき、防災無線からけたたましい夕方の音楽が鳴るので、その前に今日は図書館へ。図書館もいろいろ不愉快なことが多いけれど、とりあえず雑誌を読んで、それからスーパーへ買い物に。

 押しつけがましいBGMと、「いらっしゃいませいらっしゃいませいらっしゃいませ、いらっしゃいませいらっしゃいませいらっしゃいませ!」「お時間限定ワンパック198円、ワンパック198円、ワンパック198円でご奉仕中!」「警察からのお知らせです。近年、車上荒らしが増えています!」「お肉~♪ お肉~♪ お肉~♪」のアナウンスや、「ヴエ゛ー!」「ゼエ゛ー!」「ドエ゛ー!」(店員の意味不明な叫び)、「こちらおあずかりいたしまあああす、こちらおあずかりいたしまあああす、こちらおあずかりいたしまあああす!」「よろしかったでしょーかあああああ、よろしかったでしょーかあああああ!」「たいへんしつれいいたしましたー、たいへんもーしわけございませえええん!」「ありがとうございまああああす、ありがとうございまああああす、ありがとうございまああああす!」(ただボタンを押して発しているだけのような店員の機械語)にまみれて、数時間後にはヘトヘトになって帰宅するはずです。

カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
拡声器の放送にこそ「そもそもお前は誰なんだ!」と応戦したい
 景観についてのエントリーを続けるつもり(まだまだ続く)なのですが、忙しくてじっくり書いている暇がありません。ちょっとしたネタ話でお茶を濁します。

 40歳過ぎのおっさんアイドルグループが組織の逆鱗に触れ公開処刑されたとか、おねいちゃんタレントが不義密通の罪で人民裁判にかけられて島流しにあったとか、そんなこと、どうでもええやん。

 あの人たちの世界の乱闘や椅子取りゲームが、なんで「国民的関心事」だの「私たち一人ひとりが考えるべき問題」になるのか。勝手におれを「国民」とか「私たち」の中に入れるなよ! と思うわけですが(そのわりに、いちいち内容を知っているのはなぜだ)、それよりも、たまたま見た芸能ニュースの「一言」が妙にツボにはまってしまいました。

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火種は10年前…鑑定団プロデューサー 初対面で石坂浩二を泥酔愚弄

 テレビ東京から「開運!なんでも鑑定団」の司会降板を通告された俳優石坂浩二(74)と、騒動の引き金になっているチーフプロデューサーとのトラブルの詳細が29日、分かった。

 《中略》当時の番組関係者によると、プロデューサーは石坂や鑑定士らにあいさつする機会がないまま、スタジオで業務を行っていたため、忘年会が実質の初対面の場だった。

 ひどく酔った状態で、石坂と当時のマネジャーの席に歩み寄ったプロデューサーは、《中略》石坂がメーンだったコーナー「鑑定ルーム」について「あれ、何でやってんのかな?」と話しかけ、「やめた方がいい」などとまくし立てた。

 《中略》石坂は静観。それでもプロデューサーが話しかけてきたため、しばらくすると石坂が「そもそもお前は誰なんだ!」などと応戦し、大勢が止めに入る騒ぎになった。

鑑定団プロデューサー初対面で石坂浩二を泥酔愚弄.jpg

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 「そもそもお前は誰なんだ!」

 ツボにはまった言葉は、これです。何度読んでも笑ってしまう。
 もう私は、この国のあらゆる場所で「そもそもお前は誰なんだ!」と応戦したいですね。

 エスカレーターからしつこく鳴り響く「手すりにつかまり、ステップの内側に立ち……」の幼稚なアナウンスに「そもそもお前は誰なんだ!」

 ひと駅ごとに「お忘れ物にご注意ください」と、他人を愚か者扱いし続ける自動アナウンスやねじ巻き車掌に「そもそもお前は誰なんだ!」

 商店街で「地元に愛されて40年。硬井布団店は3丁目交差点、追込信用金庫すぐ隣です」などと、人様の頭の上でけたたましくしゃべり続けるアナウンスに「そもそもお前は誰なんだ!」

 気が狂ったような大音響で「オレ様のCDを買え! イベントを見ろ!」と押しつけてくる街頭ビジョンの宣伝に「そもそもお前は誰なんだ!」

 歩行者など一人もいないと見ればわかる交差点で、「左に曲がります、ご注意ください!」と繰り返すバスやトラックのボイスアラームに「そもそもお前は誰なんだ!」

 「子供たちを見守りましょう」と、市民全員に同じ行動をしろと強制する防災無線の放送に「そもそもお前は誰なんだ!」

 「あと一歩、あと一歩でございます!」と、おもちゃをねだるガキのように叫び続けるウグイスババアや政治屋に「そもそもお前は誰なんだ!」

 「これが民主主義だ!」などと勝手に決めつけ、正義感に陶酔して雄叫びを上げるデモ連中に「そもそもお前は誰なんだ!」

 書いているとキリがなくなるほど、「どこの誰だかわからない奴から、ああしろ、こうしろと言われ続ける」この国は、全員が「なんでも鑑定団」のチーフプロデューサーみたいなものですね。誰も彼もが酩酊し、わけもわからずひたすら叫び続けている状態。言われている側も酩酊しているから、苦痛ひとつ感じないまま平気な顔で聞き流す。
 耐えかねたわずかな人間が「そもそもお前は誰なんだ!」と応戦すると罰を受けてしまうのも、世の中の仕組みとまったく同じです。
 スピーカー騒音や注意看板が当たり前のように蔓延するこの国は、1億2000万人の酔っ払いが徘徊する壮大な泥酔国家なんでしょう。

 本物の酒のように許容量というものがあり、限度を超えるとアル中になって死ぬか治療を受けることになるならまだいいのですが、拡声器放送の洪水に酩酊している人たち(放送する側も、それを聞いている側も)にはそれがない。そこが、最も恐ろしいところです。

 で、こんなブログを書いている「そもそもお前は誰なんだ!」

カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
「Making noise about keeping the decibels down」の超訳
 前回のエントリー「 『AMENITY』33号発行のお知らせ」でリンクを張った、「The Japan Times」掲載の「Making noise about keeping the decibels down」(英文)。ニューヨーク在住のジャーナリスト、ダニエル・クリーガー氏によるこの原稿を翻訳してみました。
 ただし、私は英語なんて「This is a pen」しか知らないので、翻訳サイトで日本語にしたものを、原文を見ずに思いきり改変しただけ。翻訳というより「ハナモゲラ超訳」です。原文の意味がどこまで反映されているか、まったくわからないのであしからず。

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騒音の中で静けさを求める

2007年の参院選で東京の街を走り回る、拡声器を取り付けた騒々しい選挙カー.jpg
2007年の参院選で東京の街を走り回る、拡声器を取り付けた騒々しい選挙カー

 東京の駅で列車を待っている中島義道は、ホームの駅員にマイクの音量を下げてもらえないかと尋ねた。「難しいですね」という返事に中島はマイクを掴み、線路に投げ捨ててしまった。彼は駅員室で自らの行為を伝えたが、駅長は声も出ない様子だったという。

 中島──騒音を嫌う日本では珍しいタイプの人間──は、酒屋の店頭からスピーカーをもぎ取り、警察官からメガホンを強奪したこともある。「そのようなことを、何度も繰り返してきた」中島は私にメールで告げた。「しかし、後悔したことは一度もありません」

 静けさに高い価値を置く文化のはずなのに、日本では電車やバス、ショッピングセンター、街頭スクリーンなどから不協和音や長ったらしいアナウンスが鳴り響く。選挙運動中の政治家は耳をつんざくボリュームで名前を売り込み、右翼の街宣車は軍歌とともに帝国主義スローガンを撒き散らす。

 日本にも公共空間の拡声器音を規制する条例はあるものの、適用されることはない。しかも、選挙カーはその規制すら免除されている。東京都議会議員の伊藤ゆうは、選挙カーを使わない議員と立候補者のため「NO!選挙カー推進ネットワーク」を立ち上げたが、ただそれだけのことだ。

 言論の自由を盾に公共の場で音を出せば、同時にプライバシーの権利を侵す。中島は、数十年前にヨーロッパでの暮らしを切り上げて日本に戻った際、母国がどれほど騒がしいかに気づいてしまったのだ。

 中島は、電車のアナウンスを初めとする日本の拡声器騒音について記した『日本人を<半分>降りる』など、「文化騒音」と呼ばれる厄介な問題に関する一連の本を書いた哲学者だ。駅や店舗で無限にループするその騒音は、エスカレーターやATMなどさまざまな場所に溢れている。これらの執拗なアナウンスは迷惑の範疇を超え、人々の心を過剰にかき立てようとする。

 しかし最大の問題は、中島の大胆な行為にもかかわらず、ほとんどの日本人がこれらの音を騒音と認識していない点にある。むしろ「もっと騒音を!」と望んでいるのだ。中島はそれに気づき、最終的に解決するのは無理だろうとあきらめている。

 早稲田大学でビジネス・コミュニケーションを教えるダニエル・ドーラン教授は、日本の拡声器騒音を取り上げた論文「文化騒音:日本における拡声器音と表現の自由、プライバシーの権利」を執筆。「インターナショナル・ジャーナル・オブ・コミュニケーション」のサイトに発表している。

 20年前、米シアトルから日本に移住したドーランは、拡声器騒音に遭遇したときの狼狽を日本人の妻や知人に話した。しかし、誰からも賛同を得ることができなかった。一般に日本人よりアメリカ人のほうが騒音に寛容であるとみられているが、にもかかわらず、日本の街ではアメリカよりはるかに大きい音が流れているのだ。

 これらの音が法律や条例に違反していることを示すため、ドーランは騒音計を使い調査を始めた。そしてほとんどの場合、アナウンスや音楽が70dbを超える大音量であることを確認した。地元の市役所で証拠を見せながら、職員に「なぜ、このような違法行為が許されているのか」と質問する。だが、職員は肩をすくめ「人手不足で取り締まることができない」と言うだけだった。

 一般的な店や路上はもちろんのこと、パチンコ店の店内から電車の中まで、人々が頻繁に足を運ぶ場所で避けて通ることができない拡声器音。これに焦点をあて研究したドーランは、ひとつの結論に達した。「企業の健全な経営は、すでにある法律を守ることから始まる。私は何も新しい法律を作るべきだと言っているわけではないのだ。しかし、このような騒音が少なくとも一部の人に不快感をもたらせている事実があるのに、日本では誰もが法律を守る義務を放棄している。私の論文も何ひとつ議論を巻き起こさなかったし、むしろ周囲から人々を遠ざけることになってしまった。日本人は、自分たちのやり方を変えることをとても嫌うのだろう」

 クリス・ディーガンは、まだ闘いをあきらめていない。この騒音防止活動家は「変革は日本人の内面から始まらなければならない」と言う。ロンドン生まれの彼は40年以上東京に住む翻訳家で、一度は日本のやかましさに耐えきれずこの国を離れようとした。だが偶然、拡声器騒音に反対する日本人たちのグループ「静かな街を考える会」の存在を知り勇気づけられて、ここに永住しようと決めたのだ。

 この会の創立者は、どのような活動をしても日本の拡声器騒音が減らないことに絶望して会を去った。その後、ディーガンは全国に60人ほど会員がいる会の代表になった。「日本を少しでも静かにするために、努力しています」

 ディーガンは年に一度、会が発行している機関誌『AMENITY』の編集も担当している。欧米で暮らした経験を持つ者も多い会員と共に、ミーティングも開催している。そして、この果てしなく骨の折れる闘いに小さな勝利を得ようと、妥協しながらも活動を続けている。

 彼らは以前、JR立川駅に駅長を訪ね、無限に繰り返される禁煙放送の間隔を、もっと長くしてくれるよう頼んだことがある。驚いたことに駅長はこの申し出を受け入れてくれた。しかし、半年後には元に戻ってしまった。それはなぜなのか。尋ねると駅長は言った。「大勢の人が、この放送を流し続けるよう求めてくるのです」

 「問題は“普通の人たち”にある」とディーガンは言う。会のメンバーは鉄道会社や自治体に手紙を送ったり、『AMENITY』でその経験について書いたりしている。「最終的に日本の拡声器音を西欧のレベルまで減らすことができれば、すばらしいでしょう。でも、音量を少し小さくするだけでもいい。それだけで私たちは幸せになれるのですが」

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
日本の社会は「いらない日本語」ばかりだだ漏れだ
 また、人様の発言の尻馬に乗ったエントリーです。

 不遜な言い方ですが、たまに「これ、おれが書いたんじゃねえか?」と思ってしまう本があります。今回、紹介するのもそんな一冊。『大切なことば、いらない日本語』(2002年)という本です。

 著者の鷲見徹也氏は略歴によると、共同通信社ニューヨーク特派員・大阪支社文化部長・編集委員・福井支局長、横浜国立大学講師などを歴任した方だそう(過去形でいいのかよくわからん)。
 この本は冒頭の「恐怖の絶叫床屋」のエピソードから始まり、日本中に溢れる(スピーカーか肉声かを問わず)空疎な大声や、上滑りしているだけの看板・貼り紙の言葉などについて、「思考力が枯渇している」「言葉が独り歩きし過ぎてすり切れてしまっている」「自閉した詩人が多いようだ」と皮肉たっぷりに活写しています。

 でも、この本の内容を読んで「確かにそうだよなあ」と思う人は、きっと日本人の1%にも満たないでしょう。残りの99%は「大きな声で元気がいいじゃないか!」「いろいろ注意してくれてるんだから、ありがたいことでしょ!」などという人ばかり。

 私はつくづく思うのですが、たとえばそろそろラーメン屋に行くと「わりばしは中心付近をを両手で持ち、左右に引いてお割りください。先端のほうをお持ちになるときれいに割れず、ささくれができるなどして危険な場合がありますのでご注意ください。また、当店の料理はできたてをご提供しておりますので熱い場合がございます。お召し上がりの際は必ずお箸で麺をつかんで持ち上げ、しばらく冷ましてからお口に運んでいただきますようお願いいたします。また……なお……さらに……」なんてアナウンスが流れるようになるんじゃないですかね。
 今だって、ほとんどそれに近いご注意、お願い、ああしましょうこうしましょうの放送ばかり聞かされる(&貼り紙や看板ばかり見せつけられる)毎日なんだから。
 でも、そんな、壊れた水洗便所のような「だだ漏れの言葉」をありがたがる人ばかりじゃ、もうどうしようもない。

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 第1章 媚びる店員、無関心な客

 異様な声出し集団

 朝、十時の開店時にデパートの前を通ると、店長らしき中年の男性を先頭に、入口の両側に店員がずらっと並んで「いらっしゃいませ!」とやっている。実に日本的な光景だ。

 私は、こうした儀礼的なあいさつで迎えられるのはあまり好きではない。《中略》

 だが、世の中の大半の人は、人に頭を下げられるのが大好きだ。だから、こうして迎えてもらうと、いたく快感を覚えるのだろう。《中略》

 組織やグループの成員が、いっせいに声を張り上げるというのは、決して珍しいことではない。《中略》しかし、組織のメンバーでもない客や第三者に向かって声を上げるなどというのは、日本のサービス業ぐらいなものではないだろうか。

 大阪の、ある理髪店でびっくりしたことがある。店に入ると十人ほどの従業員がいっせいに「いらっしゃいませ!」と声を張り上げた。まあ、これはよくあることだからいい。ところが案内された席に座って驚いた。「髪をカットします!」という大きな声が耳元で聞こえてくる。すると、それに合わせて、ほかの従業員のほうからも、「お願いします!」「お願いしまーす!」という声が大音量で響いてきたのである。《中略》

 「髪をカットします!」などと大きな声を張り上げて、何になるのか。いったい何の確認か。たかが髪を切るぐらいのことで、そんなに力むこともあるまい。ましてや、店のほかの人たちが「お願いします!」などとやる意味はどこにあるのだろう。客の髪をカットするのは自分の仕事だろうに。どうしてほかの従業員が客に代わってお願いしたり、同僚にお願いされたりしなければならないのか。全くもって不思議でならない。

 それはともかく、ヘアカットを終えると今度はわが耳元で「シャンプーします!」という気合いが入った声が聞こえてきた。すると、それに合わせて従業員ご一同さまが、あちこちから「お願いします!」「お願いしまあーす!」「お願いします!」。

 何だ、何だ、これは。うるさいといったらない。正気の沙汰だとはとても思えない。いったい自分はどこに足を踏み入れたのか。ここは理髪店ではなかったのか。それとも、どこぞのカルト集団に迷いこんだのか。一瞬、不安になってくる。

 絶叫はまだまだ続く。こんなものでは終わらない。気がついたら“声出し”は、私にだけでなく、すべての客の、すべての作業ごとにやっているのだ。
「××します!」「お願いします!」。「○○します!」「お願いしまあーす!」。そして、客の出入りに合わせて、「いらっしゃいませ!」と「ありがとうございました!」が加わる。

 《中略》もう、絶え間なくこのくり返し。頭がくらくらしてくる。《中略》

 さすがにシャンプーが終わったところで、店の人に聞いてみた。

「この店では、いちいち何をしますだの、お願いしますなどと気合いや号令をかけているけれど、ひょっとすると店のオーナーは警察とか自衛隊の出身じゃないの?」と。

 すると彼はこう言ったのだ。「え、そうなんですか? 全然知らなかったですね」

 これはだめだ。わかっていないどころか、話が通じない。日々、鳴り響くコーラスの中で、そうでなくても乏しい思考力が、完全に枯渇してしまったとしか思えない。

 過剰な注意書き、おせっかいな放送

 どうもこの国では、他人に対する親切と、おせっかいの区別がつかない人が多いようだ。日本の社会は「余計なお世話」が多過ぎる。

 久しぶりに年次休暇をとって平日に、低い山へハイキングに行った。私鉄の駅に降り立ったら、駅構内に「登山者のみなさんへ」という呼びかけではじまる地元警察の看板が立っている。その一番目に書いてある注意書きを読んであきれてしまった。なんと、のっけから「単独登山はやめましょう」とあるのだ。

 これはいったい、どういう神経だろうか。《中略》こちらは、学生時代、ワンダーフォーゲル部に入っていたから、曲がりなりにも山の怖さは知っている。《中略》だいたい山というものは、グループで登れば即、安全というものでもない。《中略》むしろ、自立していない人ばかりでグループを組んで山に登るほうが、単独行よりもはるかに危険である。《中略》

「単独登山はやめましょう」という注意書きに欠けているのは、多少の危険はあっても人はだれでも自己責任のもとに行動すべきであるという発想だ。《中略》

 つまり、この看板には、相手を一人前の人間として見る視点が完全に欠落しているのである。裏返して言えば「あなたは責任を取れない人間だから、登るのはやめなさい」と言っているのと同じなのだ。要するに子ども扱い。だから、本当は、成熟した人間に対してはきわめて失礼な看板なのである。

 こうした発想は、日本の社会のありとあらゆるところに見られる。地下街を歩けば「キャッチセールスに声をかけられても無視しましょう。○○警察署」。

 《中略》駅をはじめ、電車の中や駅ビルなどでの過剰なアナウンスは、何年も前からくり返し指摘されながら、いっこうに減らない。

 あるターミナル駅のアナウンス。「エスカレーターにお乗りの際には、黄色い線の内側にお立ちください」というテープがひっきりなしに流れている。黄色い線はステップの三方の隅に塗られているから、内側にしか立てない。外側に立ちたくても、立てるわけがない。いったい、どうやったら立てるのか。そんなことは不可能だ。幼稚園児ぐらいの頭脳があれば、だれにでもわかる。だから、これは全く無駄、無意味なアナウンスである。それなのに、エンドレステープで一日中、しかも、何年もやっている。

 またいわく「お降りの際は、お忘れ物のないようお確かめください」。

「幼稚園の子どもじゃないんだ。忘れているか、いないかぐらい、自分でチェックできるよ」。私はこう、たんかをきりたくなる。

「余計なお世話だ」と駅長室にどなりこむ人が増えれば、こんなアナウンスはとっくの昔になくなっているはずだ。いっこうになくならないのは、こうしたアナウンスを変だとか、おかしいとも思わない人が大多数だからだろう。受け身で過ごすことに慣れ切っている。判断力の放棄、幼児化の極みである。

 どうかすると、このようなアナウンスを「ありがたい」とか、「親切だ」とか、「もっと、やってほしい」と言う人たちがいる。そうした電話や投書が、駅やJR各社に数多く寄せられるのだという。何でも他人まかせ、自立心がないことを恥ずかしいとも思わない。だから、過剰な拡声器騒音はいつまでたってもなくならない。

 JRが、かつて国鉄と呼ばれていた時代のこと。節分の日の朝、山手線に乗っていたら車掌いわく「今日は節分の日です。早く帰って豆まきなどしてはいかがでしょうか」。《中略》

 これを「余計なお世話」と言わずして何と言おう。これ以上の「余計なお世話」はあるだろうか。早く帰りたくても、夜勤の人だっているだろう。豆まきなんか、やらない人がいてもおかしくない。そうした想像力のかけらもないのだ。不思議でならない。

 今でもローカル線などで、沿線の観光案内を自主的にやる車掌を「親切車掌」とか「名物車掌」とか言ってもてはやす。でも、冗談も休み休みにしてほしい。列車に乗るのはなにも観光客ばかりではないはずだ。病の床にいる親元に急ぐ人もいるだろう。女に振られて、心を癒す旅に出ている男もいるかもしれない。これから駆け落ちするカップルや、このご時世だから、家業が傾いて夜逃げしようとする人だっているに違いない。

 人生、人さまざま。だからこそ、この世は面白い。それを知らずして、列車に乗ったからといって、「進行方向、右側に見えますのは……」などとやられたら、たまらない。

 レジ言語神経症

 スーパーに行くと、レジの人が口にする言葉が気になって仕方がない。《中略》

 だいたい、千五十円の買い物の際、千百円出すと「千百円から、お預かりします」と言われる。

 まず「千百円から」の「から」って何だろう。「から」はものごとの起点を表す。千百円は起点だとして、はたして何の意味があるのか。なぜ「千百円、お預かりします」ではいけないのか。

 それに「お預かりします」は、おかしいではないか。「預かる」という言葉は、「自分のものではないけれど、とりあえず受け取って保管しておく」という意味だ。《中略》

 それだけならまだしも、次がある。今度は「レシートをお返しします」とくる。不思議な表現だ。これも、おかしい。こちらは、ますます不愉快になる。

 「お返しする」というのは、もともと所有権がこちらにあって、それを返すということである。だいたい、もらう前はこちらに所有権はない。あれは店がくれるものだ。所有権はもらった後でしか発生しない。だから「レシートを差し上げます」でなければならない。それなのに、なぜ「お返しします」なのか。《中略》

 こんな疑問を、スーパーの店員にぶつけてみても、たぶんまともな回答は返ってこないに違いない。《中略》

 となると、相手に期待して「レジ言語神経症」を治そうと思っても無理だ。ここは自力で治すしかない。

 そこで思いついたのだが、「千百円から、お預かりします」も「レシートをお返しします」も、表現を柔らかくする一種の婉曲表現なのではないかということだ。つまり「(あなたが出した千百円の中から)千五十円いただきます」「レシートを差し上げます」ではどうも直接的なので、それを避けた表現というわけだ。

 それにしても、客に対してずいぶん媚びたものの言い方ではないだろうか。そもそも、対等な関係で物を売り買いするのに、なにも必要以上に婉曲表現で言い表す必要はない。「千五十円いただきます」「レシートを差し上げます」で十分なはずである。別に文句をつける客はいないだろう。いるはずがない。それなのに、言葉に過剰なクッションを付ける。婉曲表現がいつの間にか独り歩きしている。歩き過ぎて言葉がすり切れてしまっている。

 第4章 コミュニケーションの秘訣は距離のとり方

 張り紙にもお国柄

 駅や公共の場所に張られているポスターやメッセージには、張る側と、それを見る側の客や利用者との距離感がさまざまに表れている。国や文化によっても、その表現が違うのが面白い。《中略》

 ニューヨークでは、市の注意書きも「○○することは、ニューヨーク市条例の第××条により禁止されています」と法的な裏づけがはっきり書かれている。法的根拠が明確でない日本の「当局のお達しにより」などとはだいぶ違う。

 言ってみれば日本の社会は「情感アピール型」である。注意書きを書いた人間と、それを見る側の距離のとり方が情緒的だと言っていいだろう。たとえばある地下鉄駅のトイレ。洗面台の下の張り紙に「いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます」とある。特別、皆がきれいに使っているようには見えない。《中略》

 一方で、特定の個人、つまりトイレを汚す人たちに対しては、何も語っていないし、呼びかけてもいない。まるで、トイレを汚す人なんかいないかのような装い方である。《中略》

 ところで、日本の社会は全く無意味な注意書き、看板が多過ぎる。「落石注意!」にはじまって「犯罪のない明るい町にしましょう。××町内会」といった看板の類だ。電柱に取り付けられた「みんなの力できれいな街に! ○○商店街」などと書かれたのぼりは、およそ美意識に欠けていて、ないほうがよっぽどいい。

「犯罪のない明るい町にしましょう」といった看板なんて、皆に何かを言っているようで、実はだれにも、何も言っていない。優しい呼びかけではあるが、具体的なメッセージは何もないに等しいのである。だいたい、この看板を見れば、町内の家に泥棒に入ろうとしている男は思いとどまるとでも思っているのだろうか。自分の町内で犯罪が起きなければ、隣の町で犯罪が起きようと構わないということか。

 要するに独り言と同じ。言葉がだれにも届いていないのだ。無意味にして無駄。それなのに、あの町、この町で、今日もだれかがだれにも届かない言葉を書き連ねている。日本の社会は、自閉した「詩人」がよほど多いに違いない。

 第5章 これでも日本語のつもり

 コインロッカーに「死体は入れないで」

 最寄り駅の構内に、コインロッカーが設置された。《中略》ボックスの扉に張られている「コインロッカー使用にあたっての約款」という紙を何気なく読んでみたら、吹き出しそうになった。「入れてはいけないもの」のなかに、現金、有価証券、貴金属、書画、カメラなどの「貴重品」、当人にとって大切な「書類」「資料」と並んで、なんと「死体」まで書いてあるのだ。

「貴重品」や「書類」「資料」は、まあわかる。《中略》「なくなった」とクレームをつけられても困るから、はじめから「入れてはいけないもの」としている。

 それでは「死体」はどうだろうか。「コインロッカーに入れておいた死体がなくなった」とクレームをつけられても困る。そんなもの、だれも責任を取れない。こればかりは、別のもので我慢してもらうというわけにはいかない。そこで、「入れてはいけないもの」のなかに「死体」と書いたのだろうか。そんなわけはない。ところが、現実はそうなっているのだ。《中略》

 でもこの項目はどこかおかしい。それは、この約款を作った人は、現金とか、カメラとかの「貴重品」と「死体」を同列に見ていることだ。つまり「死体」を単なる「モノ」としか見ていない。「死体」というものの本来の意味を見事にはぎとっている。《中略》だから、この約款に書かれている「死体」という言葉には全くリアリティーが感じられない。《中略》

「貴重品」のほうは、「入れるな」と書かれていても、何かの都合で入れておきたい人や入れざるを得ない人はいるだろう。こちらは「入れてはいけないもの」のなかに列挙されているのだから、万一、鍵を落としてロッカーに入れたものを盗まれたりしたら、自分で責任を取ればいい。

 だが問題は「死体」のほうだ。たとえ「入れるな」と書かれていなくても、普通の人はまず入れない。たとえ入れてみたくても、好奇心がいくら旺盛でも、たいてい、そんな手持ちがない。

 人を殺してしまったため、どうしても入れなければならない人、つまり百万人に三人ぐらいの人は、いざとなったら小さな字で書いてある約款なんかをじっくり読んでいるひまはない。もとより、そんな心のゆとりはないだろう。だから、「入れてはいけないもの」のひとつとして書かれてあっても、必要とあれば入れざるを得ない。

 つまり、どちらにしても「入れてはいけないもの」のひとつとして「死体」と記すのは無意味なのである。だが、この約款を作った人は、そのへんのところがごっちゃになっている。

 この約款を作った人は、「入れてはいけないもの」のなかに「死体」と書いておけば、それだけで何かの抑止力になっていると考えている。「そうか、このコインロッカーには死体を入れてはいけないのか。それでは、別の駅で当たってみよう」とか、「仕方がないから、この際、コインロッカーはあきらめて、車で郊外の林に捨てに行こう」とか、考えをあらためさせる力を持っていると確信しているのである。《中略》

 と、ここまで約款の「死体」に対して思いを至らせたところで、約款を作った人はいったい、どんなことを考えているのか知りたくなって、コインロッカーを管理している会社に電話をしてみた。

「約款を読んでいたら、入れてはいけないものに『死体』と書いてありますが、たとえこんなこと書いてなくても死体なんて入れる人はいないと思うし、入れる人は、書いてあっても入れるんじゃないですか?」と。

 すると、電話の向こうから穏やかな担当者の説明が聞こえてきた。

「コインロッカーの約款というのは、管理している会社によって、預かり期間とか少しは独自性があるんですが、でも、だいたい決まりというか、定型がありましてね。そうですか、ウチの約款に『死体』と書いてありましたか。実は私、読んでないんで気がつきませんでした」

 たぶん、よその定型を借りてきてそのまま印刷したのだろう。「死体」という、ある意味で最もリアリティーに富んだ言葉が書かれていながら、当事者がその言葉の存在に全く気づいていない。約款にはずらずらと文字が連ねてあるものの、要するにそのすべては意味がないのだ。きっと、約款はコインロッカーの単なる守り札でしかないのだろう。内容はどうでもいいのだ。

 第6章 納得していなくても平気で言えるのはなぜ?

 プライバシーを守れない「声」

 日本人の場合は、空間距離を、大きな声を出すことで縮めるという特徴がある。《中略》

 自分の家のように、プライベートな場所でなら大きな声で呼び合ってもいっこうに構わない。しかし、公共の場所では、大きな声を出すことで相手との距離を縮めようとするのは、きわめて不作法なことだ。そういうことを、日本では、家庭でも、学校でも、どこでも教えない。だから夏休みなど、ホテルのロビーで、親が子どもを呼ぶ大きな声が響きわたる。

 外国に行っても同じこと。ニューヨークのホテルのロビーや空港で「社長! 社長! こっちですよ!」などと、大きな声で叫ぶ日本人の声を何度聞いたことか。ほかの人たちが顔をしかめているのに気がつかない。

 公共の場所で遠くから人に声をかけることは不作法であることを知らない人が多いせいか、銀行などでも「案内」と書かれた腕章を着けた行員が、ATMに歩み寄る客に対してだいぶ離れたところから「いらっしゃいませ!」とやっている。客としてきちんと遇するつもりなら、本来、ドアの近くで相手の顔を見ながら、声をかけるべきなのだ。

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カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
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Author:静かな街を考える会 別館
市民グループ「静かな街を考える会」会員のブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

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