スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


カテゴリ:スポンサー広告
「静かな街を考える会」の紹介
●わたしたちの主張

日本人は静けさを愛する国民と言われてきました。しかし、今日の日本はまさに「音」の洪水であり、それが私たちの心の安らぎを奪っています。そこで、私たちは生活環境をより快適にするために、公共空間における拡声器音を減らそうという運動を続けています。

当会が対象とする拡声器音とは次の様なものです。

1.移動営業車の商業宣伝
2.商店街における店頭放送・街頭放送・音楽
3.観光地などにおける音楽・宣伝放送
4.警察や役所など公共機関が行う注意・お知らせ放送
5.交通機関における大音量の過剰アナウンス
6.学校が流す大音量の校内放送・チャイム
7.選挙時の連呼など種々の営業外宣伝活動

私たちは、これら公共の場所における拡声器の暴力性を一人でも多くの方が認識して下さるよう訴えると共に、安易な拡声器の使用を止めて下さるようお願いするものです。

会は1984年の結成(旧名称・拡声器騒音を考える会)以来、機関誌『AMENITY』を発行したり、ミーティング(親睦会)を開いたり、ホームページを運営したりして活動を続けています。ぜひ、詳細をご覧ください。

「ストップ・ザ・ノイズハラスメント!」

音も環境問題の一つです。
「静穏権」の大切さについて、もっと真剣に考えてみませんか?


AMENITY34号.jpg

関連記事
スポンサーサイト
カテゴリ:「静かな街を考える会」について
西友のセルフレジは、音量を調節できるんですよ奥さん!
 スーパーへ買い物に行くのは、基本的に夜になってからです。「ビッグエー」や「業務スーパー」のような、コンビニに毛が生えた程度の食品スーパーなら、どの時間帯に行っても店内のけたたましさはあまり変わりませんが(昼に行っても夜に行っても、同じ程度にやかましいということ)、もっと大きい規模のスーパーになると、昼の間は店員や店内放送が「タイムセールのお知らせ」「クレジットカードの勧誘」「客の呼び出し」「レジ応援の要請」など、ありとあらゆる告知をでたらめな日本語でがなり立てるので、とても足を運ぶ気にはなりません。
 特に、鮮魚売り場や精肉売り場で店員が「ざーせーざーせー!「はだいばはれほれではっ!」などと意味不明な絶叫を続ける店には絶対に行きません。こういう店を利用するのは客が減って店内放送も減り、タイムセールがすべて終わり、店員の数も少なくなって声を張り上げることがなくなる夜間に限るのがベストです。
 まあ、冬の間に夜遅くなってから自転車を漕いで買い物に出るのは、ヒジョーにキビシーんですけどね。

 そんななか、うちから数km離れた「西友」へ行きました。もともとこの西友は店内で流れるBGMの音量が大きくて、店員も「人間自動ドア挨拶」「擦れ違い挨拶」(これがどんな状態を指しているかは、「ブログ内検索」で調べてください)を続けるため、何度も「お客様ご意見箱」に投書したり、店員に苦情を言ったりしていたのですが、少し改善されてはすぐ元に戻るという状態を繰り返したので、「二度と行かない店」に認定してしまったのです。
 西友は、売り場にラジカセや液晶モニターを置くことがあまりないスーパーだけに(店による。まったくないわけではない)、「せめてBGMが改善されれば買い物をするのに」と考えているうちに行かなくなってしまったのですが、数年ぶりに足を運んでびっくり。なんと天井から流れるBGMの音量がずいぶん小さくなり、店員が近くを通っても「人間自動ドア挨拶」や「擦れ違い挨拶」をすることがなかったのです。ラジカセや液晶モニターも売り場にはまったくなかったので、これなら買い物ができると思いながらレジ周辺へ。
 ところが、ここではけたたましい音声が流れ続けていました。騒音元は、いつの間にか導入されていたセルフレジです。うちの周囲にセルフレジを導入しているスーパーはまだないので、私にとってセルフレジ青い初体験の機会がついに訪れたのです!

 私は店員のいる通常のレジを利用するか、セルフレジにするか少し迷ったのですが、日本のスーパーに特有の「言われれば客の靴でも舐めるほど慇懃無礼すぎるクソバカうんこ丁寧な接客」が不愉快なので、機械を相手にするほうがまだましだとセルフレジを選択。すると10台ほどあったレジのうち、客が利用中の半分のレジからは、銀行のATMや駅の券売機と同じようにやかましい案内用の音声が大音量で流れていました。そして、それを我慢しながら操作しているうちに発見したことがあるのです。

 なんと西友のセルフレジは、客が音量を調節できるんですよ奥さん! 液晶画面に「音量」というボタンがあるのでそれを押すと、自分で音量を上げたり下げたりできるようになるのです。ちなみに、音量の調整を表示させたときは7段階くらいで7のフルボリュームになっていました(なんとまあ恐ろしい)。私はこれをすかさず1にまで下げました。でも、1どころか音量をゼロにすることもできるので、今度は無音にしてしまおうかな。

 今後はときどきこの西友を利用して、セルフレジの音量を1台ずつ順番に1にしていけば、いずれすべてのセルフレジの音量が1になるだろうか。まあ、そんなことをしても、すぐ7に戻ってしまうのがオチでしょうが。
 何も音量をゼロや1に固定しろとは言わないけれど、せめて7段階なら、真ん中よりちょっち下の3ぐらいがデフォルトになっていれば我慢できるのに。そう店員に言って、朝、レジを開けるときは必ず音量を3に設定してくれと提案してみようかとも考えています。

 そういえばスーパーで思い出したのですが、昨年「コストコ」というアメリカ発の会員制スーパーに行ったことがあります。うちからは電車とバスを乗り継がなければならないのですが、新聞のチラシに「1日無料会員権」みたいなものが挟んであったので、どんな店か見てみようと物見遊山の気分で出かけたのです。

 いやあ、コストコはいいですな。なんと体育館みたいなだだっ広い店内には、天井からのBGMが一切流れていないのです。完全に無音です。これは日本の小売店では絶対に考えられないことです。それから、どの売り場にもラジカセや液晶モニターの宣伝放送がありません。だから、客もみんな落ち着いてゆったりと買い物をしていたし、ガキどもが音楽や店内放送に煽られてキーキー叫び回るという、阿鼻叫喚の地獄絵図を見ることもありませんでした。
 唯一の例外は家電製品の売り場で、ここではテレビやパソコンがかなり大きな音を垂れ流していたのですが、それも店内が広いだけに少し離れて別の売り場に行けば聞こえることはありません。
 それよりも問題は、肝心要の生鮮食品売り場。せっかく静かな店内なのに、ここだけは試食を勧める店員が何カ所かでキンキンと甲高い声を張り上げ続けていました。「コストコはいいですな」と書いておいてそれをすぐに覆しますが、これがあるだけでもう買い物をする気になりません。

 コストコは肉なら最低でもキロ単位、お菓子や調味料などもケース単位といった、とんでもない量のまとめ売りをしているスーパーなので、一人暮らしの私にはそもそも買えるものがありませんでした。だからレジも利用しなかったので、そこでどのような接客をされるのかわかりません。しかし、店内をぐるぐる歩き回った感想としては、せっかく余計なBGMや店内放送がなく買い物がしやすい環境なのに、生鮮食品売り場の店員の幼児的なけたたましさが、それをすべて台無しにしているというところですね。
 まあ、どのみちうちから近いわけでもないし、買えるものがなければ私の生活には無関係なのでどうでもいいのですが。

関連記事
カテゴリ:店・施設・商店街
東京メトロのBGMに抗議の電話をします
 前回のエントリーと同じネタですが、東京メトロの車内BGMについて。2月14日の東京新聞朝刊に、この件の記事が載り、本会の代表であるC・J・ディーガンさんのコメントも掲載されています。Web版にはないようなのでここに転載。

──────

BGM車両 必要ですか

 BGMが流れる車両は一月二十九日から走り始めた。《略》

 しかし、一部の市民からは「今の日本は音があふれているのに、さらに音を加えるなんて」と批判する声が上がっている。

 公共空間における拡声器音を減らそうと三十年以上の活動歴がある市民団体「静かな街を考える会」代表で英国籍の翻訳業C・J・ディーガンさん=東京都青梅市=は「アナウンスなどの上に音楽が『騒音』として乗っかっているだけ。海外では公共の空間で日本ほど放送やメロディーは流れてはいない。日本では生まれた時から音に囲まれ、気にならない人も多いと思うが、苦手な人もいる。駅の『発車メロディー』のようにあちこちで流れるのは困る」と訴える。

 仏教大の田山令史教授(哲学)は、この話を知り、一九九〇年代に京都市バスの車内で流された音楽をめぐる議論を思い出したという。同様に癒やし系の音楽だったが、田山氏らが反対の意思を伝えると、京都市交通局は当初、「賛成する人も多い」と退けた。しかし結局、数力月後には放送はストップとなった。

 田山氏は「反対意見が結構あったのだと思う。音楽は人の心にじかに入ってくる。公共交通機関内の身動きができない姿勢で、一方的に音楽を聞かせることは遠慮するべきだ。日本は同調圧力が強いと言われるが、電車内での音楽も、同調を強いる意味があるのではないか」と主張する。

 田山氏はこれまでも、駅やデパートでの「お下がりください」や「手すりにおつかまりください」などといった放送は過剰だと指摘してきた。「親切に注意をしているようで、必ずしも公共の安全を考えているわけではなく、何か起こった時の保身のためという意図も透けている。コミュニケーションのあり方として、いま一度考えるべきではないか」

BGM車両 必要ですか

──────

 仏教大の田山令史教授というのも、本会の会員かどうか私は知らないのですが、記事で紹介されているように、以前から「余計な拡声器放送はやめてくれ」という発言を続けている方ですね。

 今回の記事は、東京メトロのBGMに批判的な意見でまとめられています。それが新聞特有の「バランス感覚」を示すアリバイ作りのためなのか、本当に記者が問題意識を持って書いてくれたものなのか、私にはよくわかりません。
 でも、最近では「氾濫する拡声器音」に反対する切り口の記事を見かけることなどほとんどなくなったし(「うれちぃー」「元気が出る」「にぎやかでいいじゃないか」「癒されるわあ」ばかり)、本会が新聞に取り上げられることも珍しくなってしまったので、このような記事が掲載されたのはよかったと思います。

 とはいえ、この程度の記事が出たからといって、東京メトロの拷問のような仕打ちが終わるとは思えないし、このBGMに反対する人が増えることもないでしょう(どうせ「うれちぃー」「元気が出る」「にぎやかでいいじゃないか」「癒されるわあ」ばかりだろ。ケッ)。
 それに、今回のBGMのどこが問題なのかを詳細に指摘すれば、そこには1冊の本になるほど日本社会の根深い問題があるというのに(一言でまとめれば、この国は中身が伴わない「お経国家」であるということ)、短い記事では「苦手な人もいる」とか「一方的に音楽を聞かせることは遠慮するべきだ」といった、個人の好き嫌いを根拠にしたわかりやすい意見の表明になりがちです。
 まあ、それは当たり前のことなんですけどね。私がいくら「ラ・ムー」の曲が好きでも、地下鉄の車内で「聞け」と押し付けられる筋合いはないということです。
 あ、ラ・ムーをバカにする奴は、どら焼きの角に頭ぶつけて死んでしまえ!

 そんなことはともかく考えれば考えるほど、この東京メトロのBGMは放置しておくわけにいかない大きな問題なので、私はメトロに苦情を言いますよ。面倒臭いからしないつもりだったけれど、やはりそういうわけにはいきません。相手が根を上げるまで何時間でも電話で理路整然と抗議します。
 昨日、スーパー銭湯に行ったらのぼせて目がぐるぐる回ってしまうという、まるで小学生のようなことをしでかしてしまったので、体調が落ち着いたらですけどね。

関連記事
カテゴリ:駅・車内
ついに最悪の「電車の車内BGM」が始まってしまう
 「塩パンうめええええ!」とむしゃむしゃ食べていると、本会の代表・ディーガンさんからメールが。それを読んで、心の中にブルターニュの塩を思いきり擦り込まれたような絶望的な気分に突き落とされました。

──────

 次のサイトはfake newsであればいいのですが、それによると今月29日に日比谷線の何本かの電車にはなんとBGMを試験的に流すそうです。多分新聞にも載るでしょう。
 メトロさんに苦情を寄せるのであれば(その音楽)を聞いた方がいいと思いいます。ただ、主にラッシュの時間帯の電車が対象のようなので私にはちょっと遠いかもしれません。

日比谷線、車内BGMを試験導入 クラシック音楽で「より快適に」

日比谷線が車内BGMを導入.jpg

──────

 メトロ「さん」などと、アホな日本人のように、なんでもかんでも「さん付け」する風潮を真似しないでくださいと言いたいところなのですが、それはとりあえず横に置いといて。
 以下、私からの返信。

──────

 リンク先の記事は読みました。こんなフェイクニュースを流す理由なんてないし、本当のことなんでしょう。「電車の車内でBGMを流すなんて、信じられない」という意味でフェイクニュースだと書いたのかもしれませんが、いかにもバカな鉄道会社が考えそうなことですよ。
 ちなみに、BGMの放送は「日中時間帯の一部で」と書いてあるので、ラッシュ時ではなく、逆にラッシュ時を除いた午前中から夕方までのような気がします。

 記事には「試験導入」「当面の間」などと書いてありますが、どうせ最初から「本格的に」「無期限で」流すつもりでしょう。西武新宿線高田馬場駅のマルコメのメロディーも、「当面の間」と言っていましたが、結局やめることなく流し続けていますし、この手のやり方は鉄道会社の常套手段ですからね。

 これからはうっかり日比谷線に乗ると、電車の車内という密閉された空間で、十把一絡げに、そして強制的に、聞きたくもないBGMを聞かされることになるわけですね。もちろん、やかましい車内アナウンスも音楽と同時に放送するのだから、これはもう完全にキチガイ沙汰ですよ(アナウンスを流すときは、BGMをぶった切って放送して、またBGMに戻すんでしょうかね。それとも、BGMに被せてアナウンスを放送するつもりなのか。どちらにしろ、駅メロとアナウンスが入り混じるあのやかましさが車内でも続くわけですから、まさにアホの所業ですね)。
 しかも、どうせ「日比谷線のBGMが好評なので全路線に拡大した」などと言い始め、すぐにJRや私鉄も同じことを始めるでしょう。駅メロから始まって車内まで音楽漬けにさせられて、もう、電車に乗るときはどこにも逃げ場がなくなるわけです。

 鉄道会社はこんなことをする前に、あいかわらずひどい満員電車の解消やバリヤフリー化、迷路のような駅のわかりにくい案内板を整理するなど、具体的に役に立つやるべきことがいくらでもあるはずなのに、そういうことにはろくに手を付けず、「車内で音楽を流して快適にしました」などと情緒的で小手先のことばかりアピールする。そして「そんなことをされても快適ではない。むしろ不愉快だ。ほかのことをちゃんとやってくれ」という意見は無視するわけです。

 昔、JRが車内でプロ野球の結果の放送を始めたときは、「必要ない」「そんな放送を無理やり聞かされたくない」という意見が多くすぐ中止になったらしいですが、今ではこういう押し付け放送を「癒される」だの「おもてなしだ」などと喜ぶ人間ばかりになってしまったので、このBGMに反対する人はほとんどいないんじゃないですかね。メトロに反対意見を送ってもいいですが、どうせ無駄な抵抗のような気がします。彼らは「静かな街を考える会」の存在をちゃんと知っていて、余計なアナウンスやサイン音、駅メロはやめてくれという意見も把握しているのに、ますます増やし続ける一方なのですから。
 数年前、メトロにアナウンスがやかましいと電話をしたときも、オペレーターは「駅や車内のアナウンスがうるさすぎる、という苦情の電話はよくある」と言っていました。「よくあるならアナウンスを減らす、音量を小さくするなどの対策を取ればいいじゃないですか」と言っておきましたが、何も変わらないどころか結局はこのありさまですからね。

 私は以前から、電車のドアの上に設置された液晶モニターから広告やニュースを放送するようになって、今のところ映像だけで音は流していないからかまわないけれど、どうせそのうちたがが外れたように音声や音楽を流し始めるはずだと言っていました。いよいよそれが現実になってしまうのでしょう。
 電車の車内は、ガタンゴトンという走行音が自然でもっとも似合うBGMなのに、これからは「ほうら、この音楽を聞くと気持ちいいだろう。だから聞け、聞け」と強要されることになる。
 とにかく、電車にはできるだけ乗らないようにするしかありません。

関連記事
カテゴリ:駅・車内
音にとりかこまれ、言葉には出会わなくなった時代
 もう、毎日がアウフヘーベンでチュッパチャプスしているので、ブログを書く暇がありません。失礼して人様の本の文章を紹介。
 作家・精神科医なだいなだ氏の『信じることと、疑うことと』(1985)から。

「沈黙に耳を」

 自分の言葉が届かなくなったのを感じた人は、《略》他方では声を大きくすることを考えたのでした。そこで、大きい声を出すために、ハンドマイクなるものに頼るようになった。ぼくはそんなふうに考えます。

 拡声器の音の大きさは、だから、自分の言葉の届かぬことに対する焦りとともに増大してきたのです。自分が分かってもらえないと感じた時、相手のこころを捕らえる言葉、表現力のある言葉を探そうとしなくなり、ただひたすら、声を大きくした。

 ぼくたちの耳は、それらの言葉を、いつしか騒音ととらえるようになりました。何ホーンでしか測らなくなった。言葉を音として測るということは、心理的に言葉に耳を塞ぐことです。

 ぼくの家は、法政大学の近くにありますが《略》、学生のスピーカーを使っての演説がよく聞こえてきます。ぼくは、この十年間、それに付き合わされたのでした。

 言葉というものは、普通の雑音と違い、どうしても耳につきます。仕事の邪魔になって泣きたい思いをしました。ところで、あれだけ聞かされたぼくに、彼らのしゃべった言葉の中のなにが残ったでしょう。あの、例の、特異な抑揚で叫ばれる「ワレワレワー」だけです。十数年《略》こころならずも、ぼくは彼らの演説に付き合わされてしまったわけですが、あれだけの数の言葉を聞いて、ぼくの記憶に残ったのが「ワレワレワー」しかなかったとは、淋しい現実だと思いませんか。

 肉眼で聴衆の表情を見ることをせず、拡声器であてどなく声を投げた結果が、自分自身の言葉を音にしてしまい、言葉でなくさせたのです。「ワレワレ」という言葉が象徴的です。私が貴方に声をかけるのではないのです。「ワレワレ」が叫んでいるのですから、聞き取る必要はないというのでしょう。「ワレワレ」には聞き手など必要がないのです。

 マイクを通して話す人間は、聞くものの表情を見ることができません。また、自分の話しかけている人間の声を聞くことも不可能です。ハンドマイクなどが普及した結果が、聞く耳を持つ人間の消失につながったのは、ぜんぜん不思議でもなんでもありません。「ワレワレ」という叫びは、こうして、あなたと私、君とぼく、お前とおれ、といったような関係のなかに落ちてくる、沈黙を、覆いかくしてしまったのです。

 こうして、ぼくたちは音にとりかこまれていますが、言葉には出会わなくなりました。そして、その結果、沈黙に耳をすますことが必要な時代に生きねばならぬことになったのです。

 これは、そのほかの大衆運動家たちについてもいえることでしょう。彼らも喋ることばかりを考え、同時に聞き手たろうとする努力をしてきませんでした。いいぶんを通すことだけを考えて、聞くことを考えませんでした。当然、それは聞かせることを、考えないことでもありました。

 聞く人間が少なくなったとき、彼らの考えたのは、動員をかけることでした。上の方から、何人出せと指令して、聴衆を確保しようとした。自分の魅力ある言葉で、聴衆を集めよう、より沢山の大衆を引きつけよう、とはしなかった。これでは、喋るものと聞くものとの、呼吸が合うはずがありません。結局、ここでも「ワレワレ」の言葉であるスローガン選びが、重視されるばかりとなりました。路線論争なんていわれますが、論争なんてものはありません。どちらのスローガンを選択するかの、争いでしかありません。

 こうして、動員された聴衆を前に喋ることは、もはや、コミュニケーションの名には値しません。これは儀式です。内容より、順番とか、形式とかの方が重要になっていくのです。

 彼らは、動員をかけるより、彼らの話を聞きにきてくれない大衆の、無言の言葉、沈黙の表現に耳を傾けるべきであった。そうすれば、大衆から遊離することはなかった筈です。

 《略》話したがりやの大衆運動家などは、勝手に挫折感を味わわせておきましょう。

 《略》ぼくたちは、お互いの間で聞くのが下手になったばかりでなく、ニュースなどにも、実に下手な対応しか、できなくなりました。そのため、情報に支配される危険が、ますます大きいものになってきたのを感じるのです。

 《略》ぼくたちは、これからは、ただ、伝えられたニュースではなく、ニュースの伝えられない部分にまで、目と耳を向けねばなりません。まったく忙しいことになってきました。

 話すことばかりを考えすぎた現代人は、今、聞くことを学びなおさなければならないところにきています。しかし、騒音の多い現代、音に耳を向けては耳がこわれかねません。だからこそ、沈黙に耳を傾けることが、ますます必要な時代になってきた。ぼくはそう考えるのです。(一九八四年六月)

関連記事
カテゴリ:騒音をめぐるあれこれ
TOP PAGE

 前のページ>>

 
■パンくずリスト

TOP PAGE  > 

■プロフィール

Author:S.B
市民グループ「静かな街を考える会」会員S.Bのブログ。日本の街にあふれるスピーカー騒音や絶叫騒音、うるさい接客、醜い景観などの問題について書き綴っています。

下記の「カテゴリ」から、気になるテーマを選ぶと読みやすいと思います。また「ブログ内検索」で検索すると、その言葉の含まれたエントリー一覧が表示されます。

「静かな街を考える会」については、このブログのトップエントリーで簡単にご説明しています。詳しくは「静かな街を考える会」のホームページをご覧ください。

■最新記事
■カテゴリ
■月別アーカイブ

■全記事表示リンク
■ブログ内検索

■会員の著書(上から順におすすめ)
■リンク
■RSSフィード
■QRコード

QR

■アクセスカウンター

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。